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プロローグ(死人の瞳)

 ――あ、まただ。  レオは、人形のようだと揶揄される整った顔を蒼白にして、階段の手すりを握りしめた。  人々の流れは、突然現れた障害物を訝しげに、あるいは邪魔だと苛立ちをあからさまに示しながら進んでいく。    ――早く、動かなくちゃ……  恐怖ですくんだ手足は、まるでセメントで固められたかのように動かない。  朝の通勤ラッシュのホームは、すさまじい数の人で溢れかえっている。  この流れを堰き止めている自分は、迷惑以外の何物でもない。    レオは気を落ち着かせるために、目を閉じた。  1、2、3、……10。  たっぷりと10まで数えた後、ゆっくりと目を開ける。  ――余計なことを考えるな。違うことを考えろ。  自分に、言い聞かせる。  今日の夕飯、何だろう?    レポート、そろそろ取り掛からないと駄目だな。    今夜、何か面白いテレビ、やっていたっけ?  ――よし、大丈夫。もう、大丈夫。  恐る恐る手すりから手を離そうとした瞬間、 頭上から、よく知っている声が降り注いだ。 「レオ? どうした? まるで、幽霊でも見たような顔をして」  折角、気をそらしているのに、いつも俺の必死の努力を水の泡にする……。  こいつ……コーヘイは、からかうようにニヤニヤしながら、185cmの長身を屈めてレオの顔を覗き込んだ。  幼稚園、小学校、中学校と12年同じ時を過ごし、そのうえ高校も同じなので、さらにあと3年間一緒に過ごす予定の切っても切れない腐れ縁の仲だ。  コーヘイは、レオを抱えるように支えて立たせると、人の溢れるホームに二人並んで歩き始めた。  ――きっと、バレてるんだろうな。何だかんだいって、すごく観察力があって鋭いヤツだから。    どこまで話すか逡巡したのち、コーヘイを見上げながら言った。 「コーヘイって、死体みたことある?」    思い切って、全てを包み隠さずさらけ出すことにした。  今まで誰にも、親にさえも、言えなかったことを。      ◇  ◆  ◇  それは、レオが小学1年生の時のことだった。  友達の家に向かう途中、マンションの駐車場にそれはあった。  大の字になって、仰向けに寝転んでいる男。  その体は微動だにしない。  その双眸は見開かれたまま、空を見上げている。  ――何やっているんだろう? 駐車場で、危ないな。  世間知らずな、まだ幼いレオは不思議に思い、その顔を覗き込んだ。  空を見上げていると思ったその目は、既に何も映していなかった。  暗い、暗い、闇の中の漆黒のガラス玉がそこにはあった。  吸い込まれそうな、絶望的な深い闇。  すぐに、サイレンを鳴らしながら、救急車とパトカーがやってきた。  何やら、大人たちが色々としていたが(今から思えば、現場検証だったのだろう)、  それは救急車に乗ることはなく、どこかに運ばれていった。  あとで、母親からそのマンションの住人であるその人が、将来のことについて親と言い争いになって発作的に投身自殺したことを聞いた。  レオは、その漆黒のガラス玉の瞳に囚われてしまった。      ◇  ◆  ◇  それ以来、時折、その漆黒のガラス玉の瞳に出会うようになった。  街中で、買い物をしているとき。  電車に乗っているとき。  テレビの向こうで。  そして、いつしか気づいた。  その漆黒のガラス玉の瞳は、この世に希望を見出せず、生を諦め、放り出した人間のものだということを。  さっき、レオはまた、そのガラス玉の瞳をみてしまった。 「当駅で人身事故が発生しました。安全確認のため、しばらくお待ちください」    人身事故を伝えるアナウンスが流れる。  あの時、目を逸らさずに、声を掛けることができていたら。  恐怖を克服し、あのガラス玉の瞳としっかり向き合えていたら。    きっと違う結果になっていた。  ギシギシと、爪が手のひらに食い込む。 「自分を責めるな。お前のせいじゃない」  あさっての方向を向いて、ぼそっと小さく呟かれたその優しい言葉に、鼻の奥がツーンと痛み、レオの視界はぼやけた。

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