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第4話

「ネル」  風を切って走る獣に、王は声をかける。 「止まれ」  王を抱えたまま走り続けていたネルは、命じられた通り足を止め、激しい呼吸を整えた。常人より遥かに身体能力に秀でた獣人といえども、さすがにきつかったようである。  国境まであと半日ほどの距離まで来ていた。雪は激しさを増し、山の起伏も険しいものになっている。木々の枝は氷に覆われ、生き物の気配は全くなかった。  王は雪の上に足を下ろし、手を伸ばしてネルの背中に積もった雪をはらう。 「無理をさせたな」  ネルの広い背中に耳を押し当てると、肺が荒い呼吸を繰り返す音が聞こえた。王は目をきつく閉じ、深く息を吸いこんだ。鼻腔をネルの匂いが満たしていく。 「ネル……」  呟く声が切なく響いた。  次の瞬間、王はネルを突き飛ばして距離を取ると、短剣を抜きはらった。 「陛下!」 「動くでない!」  王は自らの喉に剣先を向けていた。 「父祖の護りし国を傾け、臣下の心も失った今、もはや朕が生きる理由はない。逃げて異国に 隠れ住んだとして、それが何になる? 恥を上塗りするばかりではないか」 「陛下が死すれば悲しむ民も大勢いましょう。異国で力を蓄えれば、いずれは再興という道もあります」 「限りなく低い可能性をよすがに生きよと言うのか」  青い目が揺れていた。 「もう疲れた。生きている限り、あの死神に囁かれ続ける気がする。我が手に抱かれる覚悟は出来たか、とな」  ネルは首を振り、王へと両手を伸ばす。 「私がいます! ずっと離れずお傍に」 「気休めはよい。ネルには守るべき家族がおるではないか……朕が知らないと思っているのか?」  王の目から涙が零れ落ちた。 「そなたには教会に人質に取られた弟がおるのであろう?」  びゅう、と風が強く吹き、二人の間を雪で隔てる。吹雪の向こうに立つ相手の顔は朧にしか見えなかった。 「獣人は教会に脅されていると聞いた。人の世で平穏に暮らしたいのなら魔導士の手足となれと。もし教会から獣人は異端とされてしまえば、どれほど位の高い貴族であっても赦されず捕縛され、一族もろとも処刑などということにも……だから、人質を差し出して忠誠を誓い、教会の密偵とならざるを得なかった。違うか?」  王の言葉に返答はなかった。 「朕の首を持ち帰るのだ、ネルよ。手柄を上げれば一族も弟も助かる。そなたの役に立てるなら本望だ」  剣を握る手に力を籠め、王はひとつ大きく深呼吸した。腕を高く上げ、心臓へ突き立てようと振り下ろす。 「オリバー!」  叫び声とともに、吹雪の壁を破って金色の獣が王に飛びかかった。  二人は倒れ込み、もつれ合ったまま雪にまみれて転がる。短剣は王の手から離れ、どこかに飛ばされていった。 「何故だ……そなたに命を捧げることも許してくれぬのか?」  王はネルの身体を、めちゃくちゃに叩いた。幼児のように泣きじゃくっている。 「ずっと傍にいると申し上げたでしょう」  ネルは人の姿に変化して、王を強く抱きしめた。それから半身を起こし、王を仰向けて上から見下ろす。 「誰よりも貴方を大切に、愛しく思っています」  灰色がかった薄緑色の目が、青い目をとらえて離さなかった。  ネルはそのまま王に覆いかぶさり、再び強く抱きしめて口づけた。熱い舌を深く差し入れられた王は、息も絶え絶えになる。 「ネル、ネル……夢のようだ。朕はずっとそなたにこんな風に抱かれたいと願っていた」  王の身体は歓喜に震えていた。 「我が弟はすでにこの世にありません。ジュリアンが教えてくれました。一族はそのことを知りながら、保身のために私には知らせずに伏せていたと……だから、私が守るべき存在はもう貴方しかいないのです」  ネルは微笑んだ。それはひどく美しく、覚悟を決めた男の顔をしていた。

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