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第3話
微睡んでいた王は、勢いよく戸が開く音で飛び起きた。
「陛下、すぐに出立の支度を」
蒼白な顔をしたネルが、ブラントに肩を貸している。足元に血が滴り落ちた。
「追手か?」
「不覚を取りました」
悔しそうに言ったのはブラントだった。脇腹を負傷したらしい。
「いきなり矢を射かけられたのです。少数の兵卒でしたが、隊に戻って報告されたらと思い、始末しました」
ネルの報告に王がうなずく。冷静に見えるその裏で、人を殺めた興奮で獣性が抑えきれないでいるのを、王だけが気付いていた。
「公爵殿があんなにお強いとは知りませんでした」
「無我夢中だっただけ。それより、手当しなければ」
ネルはフードを目深にかぶったまま、ブラントの傷を看はじめた。出血は酷いがそれほど深くはない。兵たちの死骸はそのまま捨て置いたので、まもなく発見されるだろう。追手が血痕をたどって山小屋を突き止めるのも時間の問題だ。
「ジュリアン、動けるか?」
この騒ぎにも目を覚まさないのを、王が心配して覗き込む。ジュリアンは真っ赤な顔で荒い呼吸をしていた。少しは目を開けたが、朦朧としているようだ。
「無理か……」
王は深い溜め息を吐き、ジュリアンの額に手を置いた。燃えるように熱い。
「ここに置いて追手に発見される方が、生き長らえる確率は高いでしょう。この子も我が公爵家に属する者、裏切り者の重臣どもにとっては利用価値がある」
ネルは身に着けていた襟巻などの防寒具を取り、甥にあたる少年の身体に着けてやった。亡き姉の子として養育してきた大切な家族である。
「こうしゃく、さま」
ジュリアンが弱々しい声で呼びかけた。何か言いたいことがあるようで、ネルは口元に耳を近付けた。
「おとうとぎみは……」
途切れ途切れに紡がれる言葉に、ネルは顔色を変えた。
「どうした?」
王の問いにネルは首を振り、ジュリアンの頭を優しく撫ではじめた。
ジュリアンは撫でられているうちに次第に変化して、ふさふさの金毛に覆われた獣人の姿になった。
「獣の姿でいた方が回復が早い」
「こ、これはいったい……?」
突然の獣化にブラントが驚きの声を上げる。
「我が公爵家は獣人の家系なのですよ」
ネルはフードを外し、獣の耳を露わにした。
「獣の血が騒ぐとこのように隠しきれなくなる」
「ネル!」
王が非難するような声をあげる。
「この先も共に戦っていくのに隠してはおけません」
子の我儘をたしなめるような様子に、武骨な親衛隊長も、王とネルとの特別な間柄を感じた。ネルは爵位を継ぐ前から長らく王の側近として仕えており、いずれは大臣、そして宰相になるものと思われていた。出来ないことなど何もないかのような優れた人物である。だが、王がネルに望んでいるのは、その才気ばかりではないようだ。
「ブラント隊長、一人で歩けますか?」
「大丈夫です」
止血のためにきつく巻いた腹帯が支えになり、少しは痛みも和らいでいる。
「ジュリアン、どんな目に遭っても生き延びるのだぞ」
王は想いを籠めて額に口づけた。
「どうかごぶじで……」
ジュリアンはエメラルドの瞳をゆっくり閉じた。
小屋の外は雪が舞っていた。
「風が凪いでいるうちに国境を目指しましょう。隣国はまだ教会の影響が及んでおりません」
王は国交のない隣国がどんな国か知らないが、ネルの言う通り、今はそこを目指すより他なかった。
半刻ばかり雪の中を進んだところで洞窟を見つけ、休憩することにした。ブラントが、無茶をするなと止められるのも聞かず偵察に出て、すぐ戻って来た。
「もう追手の姿が見えます」
いくらなんでも早過ぎる、とブラントはうつむいた。
「魔導士が同行しているのかも。彼らの中には追跡や探索の得意な者もいると聞きます」
「もう逃げきれぬな」
王は呟き、寂しげに微笑んだ。
「二人ともここまでよく付き従ってくれた。感謝しておる」
「陛下!」
「ブラント隊長、敵に投降せよ。これは命令だ」
言葉を失って膝をつき茫然と見上げる臣下に、王は懐剣を取り出して与えた。鞘に色とりどりの宝石の嵌まった女性用のものである。
「母上の形見であったが、そなたに譲ろう。もし困窮した際には金に換えて家族を養うといい」
ブラントは懐剣を押し抱いてむせび泣いた。
「追手は我らの足跡を辿って来ております。私はここで彼らを待ち、なるべく時間を稼ぎましょう。少しでも遠くに逃げて下さい」
「わかった。だが、交戦してはならぬぞ」
王はきつく言い渡してネルの方を振り向いた。
「もうしばらく同行してくれるか?」
「致し方ありませんね」
ネルは少し笑って、瞬く間に獣人に変化した。王より頭二つ分ほども大きく、人型の身体に獣の頭と長い尾が生えている異形の姿だ。
震えるブラントの目の前で、ネルは軽々と王を抱き上げ、洞窟から出て行った。
あっという間に足音が遠ざかって行く。ブラントは歯を食いしばって立ち上がり、愛用の剣を引き抜いた。
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