5 / 6

第5話

コンロの上の鍋が、ぐつぐつと音を立てている。 だけど、残念なことに、ぼくの中には一つの答えが出ていた。 ーーきっと、これを食べても美味しくは感じないだろうということだ。 具材が煮えたのか、ケントはその鍋を持って、こちらへやってくる。 テーブルの上に置くと、小皿にまでよそってくれた。 「食べようか」 そう、ケントがぼくに言った。 しかし、ぼくは答えなかった。 美味しく感じないものを食べるのは、また彼に嘘をつくことになる気がしたからだ。 黙り込むぼくを見て、ケントは心配した顔をする。 「どうしたの? 」 「いや…その…」 それから、ぼくは思いつめたように呟いた。 「今日、泊まっていってほしい……」 ケントの目が小さく見開かれる。 ぼくの手には汗が滲んだ。 なぜこんなことを言ってしまったのだろう、と。 男相手に泊まってくれだなんて。 それも、女が発する言葉のように寒い言葉で。 しかし、ケントは微笑んで答えた。 「もちろん」 ぼくの瞳からは涙がこぼれ落ちる。 それはケントが、ぼくの意思に応えてくれたからじゃない。 今までずっと溜まっていた何かが溢れ出してしまったのだ。 ダラダラと。 ボタボタと。 涙はまるで洪水のように、溢れ出した。 「大丈夫か」 ケントが肩をとんとんと撫でた。 情けない姿だ。こんな情けない姿を他人に見せたことはない。 「帰りたい……帰りたい……」 「ユウ…」 「こんなとこ…もう嫌……」 涙声でそう鳴くと、その場に崩れ落ちた。 自由への恐怖。寂しさ。空虚さ。 自分という存在の気薄さ。 ここには何もない。 免許や資格、何もない。 ルールや価値観に意味を持たないここでは、誰が何をしようとも、みな他人事のように冷たい。 みな、それを肯定してしまうからだ。 いてもいなくても、みな同じ。 毎日を持て余し、まるで空気のような人間たちがそこにいた。 「帰りたい…」 それは、束縛への渇望かもしれない。 涙はぽたぽたと溢れた。 ぼくの涙は、止まらない。 目の前に彼がいるのに、こんな間抜けな醜態をさらしている。 どうすればいい。 どうすればーー。 はっと我に返った時には、もう遅かった。 ケントが、ぼくの身体を自分の胸に引き寄せたのだ。 息が苦しい。でも、温かい。 ケントの細長い腕は、ぼくをしっかりと抱擁して、手のひらは依然としてぼくの背中をよしよしと叩いていた。 「ユウと違って、おれは本当にここに来てよかったって思う」 「…」 「まともに友だちなんていなかった。家でも一人ぼっち。居場所がどこにもなかった」 「…」 「こうして鍋を食べることも」 「…」 「幸せなんだ」 ケントの手がぼくの頭に触れる。 髪をさらりと撫でられた。 「辛いことも、嫌なことも全部ひっくるめても、今は幸せ」 その重みが、頭の中にまで浸透するように。 「でもそれは、死んで天国に来たからってわけじゃない」 ぼくが頭をあげると、そこには彼の顔があった。 「人との繋がりを持てたからだ」 そう言って、彼は微笑んだ。 「ケント……」 ぼくは彼の顔に手をやると、ゆっくりと顔を近づける。 唇が重なり合った。 ケントの唇は生温かくて、どこかこう、かすかなぬくもりを感じた。 ぼくたちはキスをする。 秩序のないこの世界で。 恋人同士の男女へ向けて。 まるで彼らに見せつけるように。 そうしたら、彼らはひどく驚いた顔をしていたよ。

ともだちにシェアしよう!