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第4話 初めて

 夕餉を摂った後、政臣さんと僕は家人の先導で、庭の見える濡れ縁に出た。  政臣さんの提案で、日本酒を少し飲む。でも二十歳になったばかりの僕には、何だか喉の奥が熱くなるばかりで、美味しいとは思えなかった。  一口飲んで眉根をしかめる僕に、政臣さんもおちょこを傾けながら、ほんのりと笑う。 「まだお酒は早かったかな。二十歳の誕生日、おめでとうございます」 「ありがとうございます。すみません、お酒にお付き合い出来なくて……」 「良いんですよ。全て私の我が儘ですから。桜、綺麗でしょう」 「はい。とても。夜闇の中、灯りに照らし出される桜色に、風情があります」 「風雅な物言いですね。充樹さんは、詩人ですか?」  僕は、ふと思い出して、胸の前でぱんと両掌を合わせて明るい声を上げた。 「あ! ありました、趣味! 十五くらいまでは、短歌を詠むのが趣味でした」 「ほう。いい趣味ですね。何故、やめてしまったのですか?」 「お勤めが忙しくなって……あっ」  五年ぶりに思い出す短歌の楽しさに、思わず口が滑ってしまった。  しまった。お勤めの事は口止めされてたのに。  血の気が引く思いで唇を押さえると、政臣さんは不思議そうな顔をした。 「ご神託が忙しくなったんですね。……どうかしましたか?」  僕は、こくんと唾液を飲み下した。  良かった。どういう訳か、政臣さんは『お勤め』の事を『ご神託』だと思ったらしい。 「はい。最近は全く詠んでいなかったのですが、政臣さんのお陰で思い出しました。ありがとうございます」 「結婚したら、作品を見せてくださいますか?」 「え……いえ、人様にお見せできるようなものではありません」 「結婚しても、私は『人様』ですか? 笑ったりしません、是非見せてください」 「ほ、本当に笑いませんか?」 「ええ。貴方のように風雅な方が詠まれる短歌です、楽しみですね」  外の世界に出たのも初めてなら、誰かと一緒に食事をしたのも初めて、夜桜を見たのも初めて、風雅だなんて誉められたのも初めてだった。  笑顔を向けられると、何だかどぎまぎして言葉が出てこない。  初めてのお勤めで緊張する男性には、すらすらと寛いで貰う為の言葉が出てくるのに。  政臣さんは仄かに頬を上気させて、ほろ酔いみたいだ。  僕の顔をじっと見詰めて、美味しそうに日本酒を飲む。 「正直、私は今日貴方を見て、自分の幸運を神様に感謝せずにはいられませんでした」 「どうしてですか?」  小首を傾げると、切り揃えられた長い黒髪がしゃらりと肩から零れた。 「貴方が、余りにも綺麗だったから」  お勤めの時に「綺麗」と言われる事には慣れていたけれど、それは僕が『神子様』だからだと思っていた。 「よ、よしてください」  気恥ずかしくなって、狩衣の袖口で半顔を覆ってしまう。やんわりと、その手首を掴まれた。 「ああ……隠さないでください。恥じらう様も美しい。その花を今宵私が摘むのかと思うと、嬉しくて目眩のする思いです」  花を摘む……お勤めの事だな。それくらいは理解出来た。  政臣さんには、僕が初めてだって思わせなくちゃいけない。  『恥じらう』ように言われたけど、政臣さんが歯の浮くような台詞を言うから、意識せずともそれは上手に叶っていた。 「充樹さんは、私の事を知っていますか? 私はここに来るまで、貴方の事はよく知りませんでした」 「わたくしも、お会いするまで政臣さんの事を知りませんでした。今は、貴方の事をもっと知りたいという思いでいっぱいです」 「嬉しいですね。では、お話ししましょう」  政臣さんはおちょこを置いて、しみじみと話し始めた。 「私は、ある政治家の三男坊でしてね。上の二人はすでに幼稚舎から成績優秀で、長男は父の秘書を、次男は帝央大学で教授をしています。ですが私は……成績もスポーツも中の下で、父から放逐されて育ちました」  悲しい筈の内容なのに、政臣さんは視線を夜桜に向けて、薄く微笑みながら話す。  その何とも言えない表情から、目が離せなくなった。 「ところが八つの時、どういう訳か、皇城家から私を婿にと打診があった。充樹さんが二十歳になったら、契って欲しいと。どうやら私には、充樹さんの霊験(れいげん)を強くする力があるらしい」  そんなの、僕も知らなかった。そう言えば、先代は少し顔色が悪かったな。何か問題があったのだろうか。  話に聞き入り、表情に見入っていたら、不意に遠くを見ていた瞳が僕を映して、飛び上がりそうに驚いた。  口元が、優しく笑う。 「……冷えてきましたね。もう、中に入りましょうか。風邪をひくといけない」 「はい」  何もかも、生まれて初めてだった。誰かと目が合って、どきどきするなんて事も。

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