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第3話

「御免下さい。夜分遅くに失礼します」 「あぁ、いらっしゃいましたか。おじい様、この方です」 通りを歩いて来る間に冷えた体を包み込む様に店の中は柔らかい光に満ちていた。机の上に本を広げて読んでいた老人が視線を上げて相好を崩した。目も口も皺の中に紛れてしまいそうな笑顔だった。 「おお、今晩は。よくおいで下さった。ここの主人の四元(よつもと) 羊字(ようじ)と申します。お時間があればお茶でもいかがですか?虎彦、お茶を淹れて差し上げなさい」 虎彦と呼ばれた青年は早矢兎から菓子箱を受け取ると丁寧に礼を言い奥で淹れたお茶と共に盆に載せて運んできた。 「折角なのでどうぞご一緒に召し上がってください。おじい様、美しい寒氷ですよ」 そういうと虎彦は老人の脇の椅子にそっと腰かけた。 老人は生薬のみならず庭木にも造詣があり、偶然にも農学部の秘書室に勤務している為色々と聞きかじることも多い早矢兎と大いに盛り上がった。そんな会話の後どういう訳か早矢兎はここ最近の不定愁訴を話していた。 話の途中ふわりと虎彦が立ち上がって早矢兎に身体を近づけた。 「お茶のお替わりを淹れて参ります」 「あ、そんな…随分長居してしまったのでこれでお(いとま)いたします」 つ、と手が触れた。妖しげな顔に似合わずその手は暖かく人間の様だと早矢兎は思った。いや、彼も人間か。目をやると視線のすぐ先、桃の肌の様な産毛が見える距離に彼の双眸があった。 近い。見えない引力に捕われた気がして早矢兎は目が眩みそうになり思わず口を開いた。 「あ…あの、何か?」 血の滲んだ様な赤い唇の両端が微かに上がり、ゆっくりと動いた。 「今暫く」 それだけ言うと虎彦は漂う様に奥の部屋に消えた。老人は猫の様に目を細めた。 「寒氷は儂の好物でしてな、御礼にうちで調合した飴をお渡ししたいのです。今晩の様に夕餉が遅くなる時に召し上がってください。いやお引き留めして申し訳なかった。随分と楽しい話になってしまったものですから」 貰った飴を一つ口に入れ乍ら早矢兎は夜道を急いでいた。 手伝いの女には、軽めの夜食を食卓の上に置いて休むように伝えたし何も急ぐ必要はなかったが、先ほどの虎彦の顔が目裏(まなうら)にちらついて気持ちが落ち着かなかった。

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