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第4話

「おや、今朝は白湯ではないのですね」 同僚に言われて早矢兎は顔を上げた。手元には久し振りに淹れた緑茶の湯呑があった。 「それに心なしか隈も薄い、婚約者殿に慰めてもらったのかな?」 同じ年にここで働き始めた赤坂が顔を覗き込みながら揶揄う。 「なっ、南欧子(なおこ)さんとは何もありませんよ。そもそもその様な時間などない事は貴方もご存知でしょう」 事情は全て分かっている、とでも言いたそうな表情を浮かべ彼は軽く鼻を鳴らした。 「全くだね」 しかし考えてみると胃の腑の辺りがいつもより軽い。毎朝無理矢理掻き込んでいる朝餉も滑らかに喉を通り一緒に食卓を囲んだ母親にも「おや、結構な食欲だこと」と驚かれたのだった。たかが飴と思っていたがそのお陰と言うなら大したものだ。 明日は一番厄介な教授が学会の為に不在となる為定時前に帰る事ができそうだ。お礼がてら店を訪ねてみようか。何よりあの青年の眼差しが脳裏に焼き付いてどうにも気になって仕方ないのだ。 ***** 「そんなに効果がありましたか、いやはやお身体に合った様で何よりです」 まるで他人事の様に老人は言った。 「所で暑くお感じになる事はありませんでしたか?」 そういえばいつもは屋内でも脱ぐ事の少ない上着を今は脱いでいる。しかも今朝は少し気温が低かったのに床の中で汗をかいていたのを思い出した。 「そんな事までお判りになるんですか」 老人は返事をせずに嬉しそうに目を細めた。 「もしご迷惑でなければ診察してお薬を処方して差し上げましょうか?」 早矢兎の家は分家だが昔から本家お抱えの漢方医の世話になっていた。直接会う機会は滅多になかったが処方された生薬を母親が毎日煎じて用意して呉れているのだった。 その話をすると老人は少し驚いた表情をして見せた。 「左様ですか。では私が余計な事はしない方が宜しいですな。ただ、人の身体は常々変わるもの、一度その御方に診て貰うのが…いや差し出がましい事を言って申し訳ありません」 そう言って老人は今度は彼方(あちら)此方(こちら)の甘味処の評判に話題を移したが、早矢兎はさっきの言葉がずっと引っかかっていた。否、言われて初めてその漢方医の処方を受けているのに体調が芳しくない事を自覚したのだった。老人の話に上の空で頷きながら話の切れ目を窺っていた。 「あの、さっきの話ですが矢張り診て頂けませんか」 老人は一瞬驚いた顔をした後、目を細めて早矢兎を見た。 「ああ、良うございますよ」 そう言うと、長命寺と道明寺の食べ比べと同じ調子で早矢兎に話をする様促した。

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