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第1話「転校初日」

 夏目彰人(なつめあきと)は明らかに動揺した。目の前の光景に、どう対処すればよいのか一瞬だけ戸惑ってしまった。それは数秒前――空から、人が降ってきたのだ。  八辻九重(やつじこのえ)は、正東学園に通う二年生だ。黒髪に、漆黒の瞳は真面目なイメージを持たれるが、彼自身今現在、授業をボイコットして正門前まで歩いている最中だ。もう今日はこのまま家に帰ってしまおう――そんな事を考えていた八辻だったが、ふと足を止めて、その光景に目を奪われてしまった。子猫が、桜の木の上から降りられなくなって心細そうに鳴いているではないか。八辻は、そのまま立ち去る事も出来たが、何故か気になって子猫を助けてやる事にした。鞄を桜の木の根元に置き、自身は木をよじ登る。子猫は相も変わらず不安げに鳴くばかりだ。八辻がゆっくりと子猫の体を包み込む。無事に救出出来て、木から飛び降りた瞬間――そこに、夏目が出くわしたのであった。  夏目は咄嗟の事に驚き、身動きが取れなかった。それは、自分自身の鍛錬の足りなさを露見させる事になる。夏目は、ただその事実を受け入れるしかなかった。もっと精進しなければ、そう心の中で強く思った。 八辻はそんな夏目の思いも知らずに、鞄を持ち上げて、子猫を地面へと下ろしてやる。子猫は、ナーと小さく鳴いて、何故か夏目の足元へすり寄った。 子猫と同じ、栗色の髪の毛を揺らしながら夏目は一度だけ、子猫を撫でてやる。それで満足したのか、子猫は走り去っていった。 ブレザーの校章を確かめてから夏目は八辻に声を掛けた。 「あんた、ここの生徒だろ? 俺、今日から転校してきたんだけど、職員室の場所教えてくれない?」  八辻は、一つ大きなため息をついた。面倒な事になったと言わんばかりの表情に、夏目はムッとしたが、初対面が肝心だ。ぐっとこらえて、頼むよ、と再度お願いするのだった。 正東学園――通称正学は、関東の山奥にひっそりと佇む全寮制の男子校だ。それなりの進学校で、生徒数も多い。そして学力以外で、この学園に合格する為に必要な素質があった。それは、『特別な能力を持っている事』。正学のOBには、オリンピックに出場するような選手や、政界のトップ等幅広い分野で活躍する者が少なくない。  実際問題、夏目も特殊な能力を持っていた。そして、きっと八辻もそれは同じだろう。 特に話をするでもなく、職員室に案内された。夏目は八辻にお礼を言ってから職員室のドアを開いた。振り返ってみたが、そこにはすでに八辻の姿はなかった。逃げ足のはない奴だ。 近くにいた職員に事情を話し、自分の担任を呼んで来てもらう。暫くすると、割腹の良い中年男性が夏目の前に現れた。  担任の乃木桐吾(のぎとうご)は、夏目を見るなり嬉しそうに話しかけてきた。誰からも好かれそうな話しやすい雰囲気は、下がり切った垂れ目や、その体形のお陰なのだろう。ツーブロックに駆り上げられた髪の毛は、彼が体育教師であるだろうと容易に想像できる。  1限目を終えるチャイムが鳴り響いた所で、乃木が教室に案内するから着いて来るようにと言って職員室を後にした。二年生の教室は二階にあり、乃木と夏目は二人して二階へと続く階段を上る。一番奥の教室がどうやら夏目がこれから通う事になる二年四組らしい。ざわざわする教室のドアを開けて、乃木が中へと入っていく後に夏目も続いた。  いきなりの担任の襲来に、生徒たちはなんだ何だと騒めき立つ。乃木がそれを制して、夏目の事を紹介し出した。 「本当は始業式当日に転校してくる予定だったが、ご家族の都合により今日からこのクラスに加わる夏目彰人君だ。みんな仲良くしてやれよ」  ざっくりとした説明を終えて、乃木は夏目の座る席――一番後ろの窓際の席を指さした。夏目は席に着き、じゃあ後は好きにしろと言わんばかりに乃木は教室を後にした。クラスメイトの何人かが夏目の席に群がり、質問を浴びせる。夏目はそれに丁寧に答えつつ、次の授業の準備に取り掛かった。  午前の授業を終えて、昼休憩になった。各々連れ立って学食へと吸い込まれていく。夏目も学食へ移動しようと席を立った所で、背後から声を掛けられた。 「夏目、一緒にご飯食べに行こうよ」  声の主は、淡いピンク色の髪に、綿菓子のように白い肌を持ち、薄いブルーの瞳は宝石のように綺麗で、どこからどう見ても少女の顔立ちをしていた。華奢な体や、身長の低さが更にそれを増徴させる。 「えっと…」 「あ、僕は前の席の楓だよ。楓実葉(かえでみつは)」  宜しく、と差し出された手を夏目は握り返す。夏目自身も身長は高い方ではないが(むしろ平均よりも少し小さめ)、楓は夏目よりも、更に頭一つ分小さかった。その小ささは小動物を連想させて、楓の可愛らしさを更に引き立てている。  楓の案内で、夏目は食堂へと辿り着く事が出来た。さすが、全校生徒の胃袋を満たすだけあって、食堂は広く、その食事メニューも豊富だ。夏目は楓がおすすめだという味噌ラーメン定食を、楓は小食なのか、うどん単品をそれぞれ注文した。 席について各々食べ始める。夏目の注文した味噌ラーメンは、濃厚でドロッとしたスープが夏目の口に合った。淡々と食べていると、楓が周りを気にするように小声で夏目に質問してきた。 「夏目は、何の特技があってこの学園に入れたの?」  その問いに、夏目は予め用意していた答えを口にした。 「俺、運動神経が抜群に良いみたいなんだよね。ただ、かなり鈍感だからそれが発揮出来る時の方が少ないんだけどさ」 「…ふ-ん」  楓は納得したのか、もう興味を無くしてしまったのか、それ以降この話題に触れる事はなかった。けれど、遅れてやってきた転校生には興味津々の様で、何故遅れてやって来たのかを聞きたがった。夏目はつい先日まで海外で生活していた事、学校に来る前に大規模なテロに巻き込まれて入学時期が遅れた事を話して聞かせた。 「ほら、三月末にカナダの方でテロ事件があっただろ? あれに家族が巻き込まれてちょっと大変だったんだ」  確かに、今年の三月にカナダのオンタリオ州の州都であるトロントで大規模なテロ事件があった。犯人は複数犯で、それぞれが自爆テロを行った。これにより、死者は一万人を超え、政府は対応に追われる事となったのだ。勿論、交通機関は麻痺し大惨事となった。夏目の両親は、たまたまその場に居合わせていて命に別状はなかったが、避難を余儀なくされたのだった。この事件は、カナダ内外はもちろん日本でもニュースになった。楓もそれはよく知っている。まさか、ニュースの中の出来事を実際に体験している人物に出会うとは楓自身思っても居なくて、唯々驚くばかりだ。後に、この話は学園中に知れ渡る事になるが、まだそれは先の話である。  昼食を終え、教室に戻ると、夏目の隣の席の主が机に突っ伏して眠っていた。朝は、その席が空席になっていたのでこれが、初対面である。どうにか挨拶出来ないかと夏目が志向を巡らせていると、その人物がのそりと体を起こした。その顔を見て、夏目は一瞬思考停止した。何故なら、その人物が八辻九重だったからである。 「なんだ、あんたか」 「なんだって何だよ」  それ以降、興味を無くしたのか八辻はまた寝る体制に入った。止める必要もないので夏目も次の授業の準備を始める。どうやら、八辻とはあまり気が合わないようだ、と夏目は思った。  どうにかすべての授業を終えて、学生寮へとやって来た。寮へは一度荷物を預ける関係で来た事があった。その時に部屋の説明も受けている。カードキーを差し込み、自動ドアを潜る。この寮は全寮制の為、二人一組で部屋を使う事になっている。夏目はルームメイトにまだ会っていなかったので、これが初対面という事になる。部屋の鍵を開けて中に入る。部屋にはそれぞれ机が二つあり、二段ベッドが備え付けられていた。 同居人は既に帰っているらしく、二段ベッドの下側のカーテンが閉められている。夏目はそこに向かって声を掛けた。カーテンが勢いよく開け放たれ、同居人が顔を出す。夏目はその顔を見ると同時に天を仰いだ。自分はどうやっても、こいつと離れられない縁らしい。今日ほど神様を呪った事はないだろう。それはきっと、彼――八辻九重も同じであろう、と夏目は思うのだった。

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