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Ⅲ-3(終)

「腫れ……ひいた」  朝、鏡に映る何度目かの自分の顔からようやく違和感がなくなった。 「光流(ひかる)」  洗面所にいた泉は、居間で新聞を読んでいる希に呼ばれた。 「なに?」 「茅葺のところ――、行きたきゃ行けよ」  そう告げた希の表情に怒ってる様子は無く、いつもの無表情を保っていた。 「うん――わかった。行きたくなったら……行く」    この長きに渡った幽閉からとうとう解放してやると、初めて告げられたのに泉の表情は決して明るいものではなかった――。  自分の怪我が治ったらその時に言おうと、希は一人で勝手に決めていたのかと妙な苛立ちだけが胸の奥で騒ぐ。 「ねえ、希。それより先に行きたいところがあるんだ」  数年ぶりに実家に向かう電車に乗った。  行き先は決して実家ではなかったけれど、希と二人で電車に乗りどこかへ出掛けるなんてこと最後にしたのはいつだったのかと、向かいの車窓に映る自分をぼんやりと眺めながら泉は思い耽った。  電車に揺られる間、二人に会話らしい会話はなかった。  二人は駅ビルに入った心療内科のドアを開けた。受付を済ませ、予約していたカウンセリングルームに向かう。  いくつかある部屋のうち、"山科道生(やましなみちお)"と書かれたプレートが掛けられてあるドアをノックした。  ドアを開くと、正面のソファに眼鏡を掛けた少し白髪混じりの男性が座っていて「どうぞ」と手前のソファを勧められた。  希が先に座り、その横に泉が並んで座ると男性は懐かしそうに、にっこりと二人に微笑み掛ける。 「8年ぶりだね――。二人とも大きくなったね、もう大学生なんだもんね」 「はい。本当にお久しぶりです。山科先生」  何も話そうとしない希に代わって泉が答えた。 「来てくれて嬉しいよ。元気にしているか、ずっと気になっていたんだ。希くんが怒って出て行った姿を見たのが最後だったから――」 「そうでしたね。もうそんな前の話なんですね。でももう流石にそんな子供じゃないと思います。――多分」  泉の笑いながら放った皮肉にチラリと希が一瞥した。わかっていて泉はそれに気付かないフリをする。  8年前まで希は母親に連れられて月に一回、カウンセリングを受けていた。それには希の希望でいつも泉も同行していた。  希はカウンセリングルームに母親が入るのを絶対に許さなかったが、父親に性的虐待を受けていた息子なら当然の感情だろう。  カウンセリングルームの前で泉は用意された椅子に座って、いつもそれが終わるのを待った。その30分の間、泉は何をするわけでなくジッと扉を睨んで待ち続けていた。  以前ここへ来た最後の日、希はこんなことを繰り返しても無駄だ、どんなに掛かっても全部なかったことになんて出来ないと泣きながら怒り、泉の手を引いて山科から逃げるように病院を後にした。  もうあれから8年も経ったのかと泉は思い耽る。  今日、希が受けるのは年齢退行催眠療法というもので、その名の通り催眠をかけて年齢退行させ、本人の無意識下にある不安要素を探し、取り除くといったものだ。  希の先のトラウマについて山科医師はもちろんとっくに知っている。問題はそのせいで希が起こす内容について――つまり、現在も続く、泉への暴力行為だ。  一定のリズムで左右に動く、横に細長いライトを希は目で追うように言われ従う。山科の言葉での誘導で少しずつ希の目が虚ろになっていく。  ソファの背もたれに体重を掛けリラックスし始めた希に向かって山科はゆっくりと話し出す。  年齢は最初、虐待を受けていた9歳から始まり、次第に進学の区切りごとに上がって行き、高校入学当時の15歳まで戻って来た。 「君が一番困っていることは、何かな――?」 「――怒りを……抑えられない……」  ポツリポツリと希は答える。 「怒りはどうなって現れるのかな?」 「――暴力……。光流を……殴る」 「どうして光流くんを殴るの?」  ぼんやりとしていた希の表情が苦しそうに歪み「……わからない」と、絞り出すように告げた。  泉は自分の手を膝の上で組み合わせて握りしめ、希を見ないままじっと固まっている。 「9歳の君は話してくれたよね――。君がお父さんにひどいことをされているのを光流くんに見られたって。その時はどう思った?助けてくれないことに腹が立った――?」  希は唇を噛み締め、頭の中に眠る黒い記憶が蘇るのか、ぐっと黙り込んだ。しばらくして、唇を小刻みに震わせながら動かす。 「恥ずかし……かった――」  その震えて告げる声にハッとしたように泉は希の顔を見た。 「恥ずかしくて……、怖かった……。助けて欲しかった、けど……。誰にも言わないで欲しかった……」  震えていた希の目からは涙が溢れ頰を伝う。拭うこともせずにそれはポツポツと着ているシャツに染み込んで行く。  泉は握りしめて耐えるようにした希の左拳に自分の手を重ねた。 「誰かに話されそうで、怖いから殴るの?」 「わから……ない……。光流は……、何をしても怒らないから……まるで――」 「まるで――?」 「まるであの時の……俺みたいで――」 「光流くんは光流くんだよ。君じゃない。そして君はお父さんじゃない」 「…………っ」 「彼にひどいことしてるって、思う?」 「――思う……」 「なのにどうして一緒にいてくれるんだと思う?」 「恥ずかし……くて、怖い、から……」 「そう彼が言ったの?」 「――償い……?」 「君は言ってたよね。まだ自分たちは幼過ぎて――光流くんのせいじゃないのはわかっているって――けど、甘えてしまうって――」  山科は希に向けていた顔の向きを泉に移し、言葉を続けた。 「光流くん、君はどうして希くんといるの?希くんに教えてあげて」  怯えた子犬のように震えながら希はゆっくり顔を泉に向け、じっとその目を見つめた。その潤んだ瞳を泉は真っ直ぐに見つめ返し、そして柔らかく笑ってみせた。 「希が好きだからだよ――。辛くて――痛くても――俺は――。希を愛してる――」  そう告げると、涙で濡れた頰を両の手で包んで拭い、ゆっくりと大きな身体を抱き締めた。 「だからね、俺は平気――。平気なんだ――」  希は黙ったままガクガクとただ震えている。何か口を開けば嗚咽になってしまうのを我慢しているようだった。 「希くん――、君はお父さんじゃない。愛し方を間違えてはいけないよ――」  山科の言葉に希は小さく何度も頷き、ゆっくりと目を閉じた――。 「お疲れ様ですー」  美容師の軽快な声と共に泉からカットクロスが外された。足元に転がる切られた長い髪たちをアシスタントが手際良く履いて集める。  合わせ鏡で自分の後頭部を見て自然と泉から笑いが出た。 「久しぶりに首を見たかも」 「スッキリしましたよ!これで今年の夏は涼しく過ごせますね!」  美容師の突き抜けた明るい笑顔につられるように泉も笑った。  髪を切るとこんなに頭も肩も軽くなるのかと泉は爽快な気分で美容室を出た。首筋にかかる初夏の風が新鮮で心地良かった。  メールを使って希の居場所は把握していたのでそこへ自分も向かう。    着いたのは駅から歩いてすぐ一つ目の路地を入った喫茶店だ。  その外観はチェーン店特有のカフェにはない良い意味で味のある古びた看板が掛かっており、いかにも美味しいコーヒーが飲めそうな風格があった。  ドアを開くとカランカランと懐かしい雰囲気のベルが鳴った。いらっしゃいませとカウンターの中から店のマスターらしき男性に声を掛けられる。  店内を見回すと平均年齢は30オーバーしている風貌の男性サラリーマンや年配の客が多かった。  その中で分厚い本を開いて座る大学生がきちんとその世界観に溶け込んでいるから思わずおかしくて笑ってしまった。  向かい合わせの椅子を引いて声を掛ける。 「知らなかった。行きつけがカフェじゃなくて、こんな味のある喫茶店だなんて――」  一瞬黙ったまま希は、怪訝な表情で泉の顔をじっと眺めるだけだった。 「――誰かと思った」  ウエイトレスがそばに来たので「アメリカン」と泉は告げる。希は本を閉じて置いた。 「カフェは話し声がうるさいから嫌いだ。タバコも吸えねぇしな」 「あー、確かに」  おしぼりで手を拭きながら泉は頷いた。 「――ねえ、希。俺ね。やっぱり教職に進みたいんだ――」  希がそれに答える前に注文したものがテーブルに置かれる。伝票を裏返して会釈したウエイトレスが立ち去るのを横目で追いながら希は「あっそ」と愛想の無い返事を寄越した。  ブラックのまま泉はコーヒーに口を付ける。 「希は?」 「――院に進む」 「へえ、将来は司法の道へ進むの?良いと思うな。希に営業スマイルは無理だよね」  少しムッとした表現を希は見せた。 「本当のことだろ?」と上目遣いで泉は笑う。 ――初めて、希が泉の前で将来の、未来の話をした――。  そして話しても決してもう怒ることはなかった――。    その未来には泉がそばにいると、ちゃんとわかったからだ――。  カウンセリングはあれからも続けて通っていた。だが、そこに付き添う泉の姿はもうない。   ――嗚呼、なんて遠回りしたんだろう。  泉は改めてしみじみとした。  一番始めに殴られることで希の気が済むならそれで良いと、自分が思ってしまったからこんな間違った関係が十年以上も続いてしまったのだと泉は酷く悔やんだ。 ――それじゃあ、ダメだったのに……。  飲んだコーヒーは渋みの少ない飲みやすい味だった。芳しい香りが鼻腔内にゆったりと染み渡る。  泉が美味しさに浸っていると、ふとこちらをじっと見つめる希と目があった。 「――なに?」  切ったばかりの横髪を指ですかれた。 「――少し長いくらいが……俺は好きだ……」  目の前で何かが弾けたかのように泉は一瞬目を丸くした。そしてすぐに目を細めて優しく微笑んだ。 「またすぐ伸びるよ」 ――ずっと幸せなんて、目にも見えなくて、肌に感じることも出来ないと思い込んでいたけれど――。  こういう瞬間のことなんだと泉はようやく気付き、深く知った――。  ちゃんとそれは、自分にも感じれるものだったのだと――。 「今晩何食べたい?」 「ハンバーグ」 「手伝」 「わない」  可能がほぼゼロに近いとわかっていながらも念のためお伺いしてみたが、途中でさっさとそれは拒絶された。  ふうと仕方なしのため息を一つついて「あっそ」と泉はカップを口へ運んだ。  その口元には優しい笑みが浮かんでいた――。 ◇END◇

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