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第1話 夜の森の白い狼
夜の森と呼ばれる場所がある。
街の外れにある陽の光が届かぬ針葉樹の深い森を、人々はそう呼んでいた。
そして、その森には一本の道。深い森を抜け……森を見下ろす小高い丘の上の城へ至る道がある。
その道を外れては、いけない。
ずっと言い聞かせられて来た言葉は、もう子供の足を止める力を失っていた。
「この森の支配者は、このお城に住む偉い方じゃないわ。恐ろしい…森の奥に棲む狼達の群れ…彼らがこの森を支配しているの。大人の男達でさえ、簡単にその牙で引き裂いてしまうわ。だから…絶対に道を外れて森の奥へ行っては駄目よ?」
優しいお母さんの声。
温かい、でも荒れてかさついた掌に撫でられたのは……もう随分と昔みたいだと銀は思った。
お母さん。どうして死んでしまったの?
何で……俺を置いて死んでしまったの……!
冷たくなった母親の身体に縋り付いて泣いた夜は、今日と同じ丸いお月様が出ていた。
お城の片隅にある小さな部屋から、お月様だけが自分達を見守っていた。
もう誰も居ない。
自分を愛してくれる人も、守ってくれる人もいないのだ。
優しいお母さんだけが、銀の味方で肉親だった。
血が繋がっているとはいえ、父親である城主もその子供達も、銀のことなんてどうでもいいと思っていることは、ずっと前から知っていた。
何故なら、母親が銀を身籠ったと知った城主の正妻や他の妾達から散々いたぶられていたことを、銀は他の下働きの人達から聞いていたのだ。
城主は気まぐれで自分が手をつけた下女が孕んだことに眉を顰めたが、それでも一応は自分の血を引く子供の為に城の片隅に親子の為の部屋を与えてくれた。
だがそれだけだった。それ以上のことはしてくれなかった。
下女であった母親を正式な妾にすることもなく、身分違いの女が生んだ銀のことも気に掛けたりしなかった。
だから母親と銀は、他の母親達や子供達に散々いじめられて過ごす事になったのだった。
でも……それでも銀は母親が居てくれればそれだけで良かった。
どんなに辛いことがあっても優しく微笑みかけてくれる……お母さんが居てくれるなら。
なにがあっても二人で頑張って生きて行こうねと励まし合って来たのに。
もう無理だ。
だって、お母さんが死んじゃったから。
自分を愛してくれる人が居なくなってしまったから。
銀は、母親の為に葬儀すらまともにしてくれなかった父親とその妻。子供達に逆らった罰として……寒い冬の晩に城の外の物置小屋に閉じ込められたのだった。
当然夕食なんて貰えなかった。
寒さとひもじさで泣いていると、物置小屋の窓から見えた月が……真っ白な丸いお月様が……!
どうしてなの?
なんで、どうして……!!
胸に込み上げた行き場のない怒りと悲しみは、銀を夜の森へと向かわせたのだった。
死んでしまおうと思っていたから、狼なんて怖くは無かった。
ただ、食べられる時に痛かったら……少し嫌だなと思うだけだった。
お母さんに会いたい。
もう一度、優しい声で自分の名前を呼んでほしい。
もう一回だけ、温かい胸に抱きしめてほしかった。
ふらふらと夜の森を彷徨う内に、銀は月の光が満ちる場所へ辿り着いた。
木々の切れ間に、少し開けた場所があったのだ。
そこには、澄んだ水が湧き出る泉があった。水は月明かりに鏡のように輝いていた。
「…こんな場所が…あったんだ…」
美しい泉を覗き込めば、自分の顔が映った。
銀色の髪も、青い瞳も……死んだ母親と瓜二つだった。
若く美しい母親を城主は目ざとく見つけて、無理やり自分のものにしたという。
銀の整った容姿を見て……城主の妻たちは口々に文句を言った。
男にそんな髪の色も白い肌も必要ない。
城の男達に色目を使われては、仕事に支障が出るだろう。
目障りだから、部屋に閉じ込めておけ!
そう言って、銀が自分達の目に触れることを嫌がった。
母親がそんな態度なのだ。子供達も銀を心底嫌った。
部屋から出る度に、銀を罵り突き飛ばした。
下女の子供。お前はこの城の害虫だ!早く母親のように居なくなれ!!
呪いの言葉。
それは……母親を失った悲しみの癒えていない銀から、激しい痛みと怒りを引き摺り出した。
気づけば、喚きながらその子供の髪を掴んでいた。
すぐに引き剥がされ、それ以上の暴力が振るわれた。
死ね!母親と一緒に死ねば良かったのに!!
繰り返される残酷な言葉と暴力に涙と悲鳴を上げ続けた。
ガサ……!
ぼうっと泉を覗き込んでる銀の背後から音がした。
「…やっと来たんだ…」
銀は呟き、後ろを振り返った。
自分を母親の許へ送ってくれるのは、どんな顔をした狼だろう。
それだけは、ちゃんと確認しようと思ったのだ。
枯れた藪を抜けて、ぬっと顔を突き出したその狼は……とても大きかった。
後ろ足で立ち上がったら、多分大人の男の人と変わらないんじゃないかな?それくらいに大きくて、美しい狼だった。
「…すごい…なんて…白くて綺麗なんだ…!良かった。こんなに綺麗な狼が迎えに来てくれた!これで…もう寂しくない。早くお母さんの所へ…連れていってよ…!」
両手を差しだし、微笑めば……狼は何故かその場に立ち止まりじっと銀の顔を見つめた。
まるでこちらの言っている言葉に戸惑っているみたいな表情だった。
「…もしかして、俺の言っている言葉がわかるのかな?あのね…俺はあそこの城から君に食べられる為にここに来たんだよ。お母さんが死んでしまって、みんなに早く死んでしまえ…そう言われたから。だからね、君みたいに綺麗な狼が来てくれて本当に嬉しいよ!さあ…早く俺を食べてお母さんの居る所へ連れて行って!」
その場から動こうとしない狼に焦れて、銀が近づいても狼は動かなかった。
もしかして、お腹が空いていないのかもしれない。
狼は、余計な狩りをしない生き物だと誰かに聞いたことがある。
「…困ったなあ…俺…君がいいのになあ……」
項垂れた銀の頬に温かな濡れたものが触れた。
白い狼が銀の流した涙を舐めたのだ。
驚き見開いた銀の瞳から、零れた滴。
狼はそれをまたペロリと舐めとった。
どうして?
見上げる銀の青い瞳を、黄金色の美しい瞳が見つめていた。
なんて綺麗な色だろう。
ちっとも怖くなかった。
気づけば銀は、白い狼にしがみ付いて泣いていた。
大声で辛かったこと。母親が死んで悲しかったことも、自分を誰も愛してくれないことも。
いますぐ死ねばいいと言われて殴られたこと……物置小屋に閉じ込められていた時に見えた月が綺麗だったこと。全部を泣きながら白い狼に訴えた。
死んで楽になりたい。
お母さんに会いたいと泣いた。
白い狼は、銀の声を聞いてくれているのか……金色の瞳で自分に縋る幼い子供をじっと見つめていた。
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