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第2話 昏き野望の生贄に

 早く……早く……!  縺れそうになる足を必死で動かし、深い森を駆け抜ける。  逃げなければ。  一刻も早く森の奥へ……!  銀は息を切らして、森の奥にある泉がある場所を目指して走り続けた。   「…なるほど…これは素晴らしい!髪は月の光……瞳は、深い泉のようだ!まるで生まれてから陽の光を一度も浴びたことがないような、白い肌。顔の造形も申し分ない。あなたは、幸運です穂狩男爵。こんな贈り物を労せず手に入れられるとは…!あなたの望みは叶うでしょう。公は……きっとこれを気に入ると私が保証いたしますよ」  男は、銀の姿をじろじろと眺めて満足そうに笑った。  酷く醜い笑顔だった。  その日の昼過ぎに到着した客人。  黒い髪に黒い瞳。浅黒い肌をした年配の男の前に引き出された銀は、ただ黙っていろと命じられていた。  何も言わず、なにもするな。  ただ客人の目の前に立ち、その姿を見せるためだけに部屋から出された銀は、何一つ教えられていなかった。  その客人の目的も、城主……自分の父親の野望も。  自分の運命さえ知らされていなかったのだ。  だが、その客人の言葉に全身が戦慄いた。  贈り物。  男のその一言が、自分がこれから辿る運命を教えてくれた。  この城の主の野望の為に、自分がこの男に売り渡された事を。  どこかの偉い人の歓心を買うために、自分が生贄にされる事を知ったのだった。  その為か。  その野心、野望の為だったのか。    自分になんの関心も持たれていないことは、子供のころから分かっていた。  期待してなんかいなかった。  だが、心は酷く嫌な音を立てて軋んだ。  父親らしい事など何一つしてくれなかった男が、唯一銀に関することで命じたことがある。  決して、顔や体に傷を残さない事。    銀を嫌い抜く妻や子供達に、それだけは守る様にと言い付けられていたことを知ったのは、自分に食事を運ぶ女中からだった。  なんだかんだ言って、やっぱり旦那様は自分の血を分けた子供が可愛いのかねえ。こんなに可愛げがないガキなのにさ!  さっさと食べろと冷え切ったスープと硬いパンを渡しながら女がそう言ったのは、随分と昔の話だった。  他にも銀を見張る人間は、決して若い男一人に任せない事。  銀の服を剥ぎ、乱暴をしようとした若い男を杖で滅多打ちにしながら城主は命じたのだ。  震えて泣いている銀など見向きもせずに、助け起こすことなどしてくれなかったのに。  ただ命じるだけ命じると、そのまま近くにいた女中にしっかり見張っておけと言い残して去って行った。  あれは、この日の為か。  自分をより高く誰かに売りつける為のことだったのか。  するすると、納得しながら不思議な事に涙が零れた。  ぽろぽろと涙を流した銀を見て、城主は不機嫌な顔をした。  だが、客人は嬉しそうに笑った。 「泣いている姿も風情がある…寂し気な泣き顔さえ、きっとあの方を喜ばせましょう。本当に、あなたは…運がいい!羨ましい限りです」  もう、銀には男が何を言っているのか……城主が何を怒っているのかさえ興味が無くなっていた。  最後まで、希望のようなものに縋っていた自分の弱さに絶望したのだ。  元から無いと分かり切っていながら、心のどこかで父親に優しさを求めていた自分の愚かさが……憐れだった。  ガサガサと藪が動いた。  反射的に身構え、そこに姿を現した存在を見て銀は駆け寄った。 「…ブランカ…!お願い…俺を連れていって…!!」  銀色の大きな狼にしがみ付き、銀は泣いて頼み込んだ。  震える銀の身体に狼が鼻を押し当て一体何事だというような顔をした。  だが、森に木霊する「居たか!?」「なんて奴だ…!こんな所に逃げ込むなんて命知らずにも程がある!」  男達の怒声に耳をピンと立てると、鼻先で銀を押し上げ早く背に乗れと促した。  銀は素早く狼の背に乗り首筋にしっかりと掴まった。  人を背に乗せているとは思えないくらいの速度で、銀色の狼は深い森の中を走り抜けた。  だが銀は知っている。  この銀色の狼は、ちゃんと背中の銀を落とさないように注意してくれていることを。  子供の頃に森に迷い込んだ銀を、この狼は同じように背に乗せて城まで連れて帰ってくれた事がある。  泣きながら帰りたくないと言う銀を宥めるように、尻尾で頭を撫で頬を舌で舐めてくれた。  渋々帰る事を承諾すると、背中に乗せて森を走り城まで送ってくれた。  また、会いに行ってもいいかと聞けば金色の瞳が優しく見つめていた。  それから銀は、城を抜け出しては夜の森でこの銀狼と会い続けていた。  もう、五年以上になる。  城の中に誰一人頼る者の居ない銀の唯一の友達がこの銀狼だった。  異母兄弟達にいじめられた時も、女中の意地悪でご飯が貰えなかった時も。  泣きながら、森を歩けば銀色の狼は必ず銀を見つけ出した。  駆け寄る銀を、仕方がなさそうな顔で見つめ傍に寄り添い話を聞いてくれた。  そして必ず夜が明ける前に、銀を城まで送ってくれた。  何度も帰りたくないと言った。  何回もこのまま一緒に居たいと強請った。  だが狼は、銀を決して朝まで傍に居させなかった。  きっと、この銀色の狼は知っていたのだ。  人と狼は違う生き物だから。  一緒に居れば、悲しい別れが訪れるということを。  それでもいい。  いつか、別れる時が来るならそれまででも構わない。  俺は、あなたと一緒に居たいんだ。  銀は、狼の温かな銀色の毛皮に頬を埋めて涙を零した。  どうかお願いと、祈るように囁いた。  誰にも愛されない、俺に優しさをくれた唯一のあなただけが……俺の居場所なのだと。

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