「…ここまで来れば…もう誰も追って来れないね……！助けてくれて…本当にありがとう」 　銀狼は森の奥の茂みに銀を下ろすと、そこに静かに寝そべった。　 　前足の間に頭を乗せて、ゼイゼイと荒い呼吸を繰り返す銀の毛皮を何度も撫でてお礼を言った。 　銀はもう子供とは言えない。今年で十六歳になるのだ。 　確かに銀は痩せているけれど、それでもその重さを背負い森を駆けるのは辛かっただろう。 　だが狼は申し訳なくて俯いた銀の頬をべろりと舐めた。 　気にするな。と言っているのだろう。 「…今更…だよね？あのね……俺…城を逃げ出したんだ。いや…前からだろうって言うのは分かってるよ？でもね…今度は、本当にもう帰れない。帰ったら…俺は、どこかの偉い人の所へ売られてしまうんだよ。今まで育てて来たのは…この日の為…だってさ。嫌だよ…！母さんを虐め抜いて殺した癖に…！俺をまるで居ない者としてしか扱ってこなかった癖に…！あんな奴の野望の為なんかに……この身を差しだすなんて死んでも嫌だ！！お願い…俺を、あなたの仲間にしてよ…！俺の居場所は…あそこには無いんだ…」 　堰を切ったように、言葉と涙が溢れた。 　必死で縋り付く腕も震えている。 　どうかお願いと、祈る唇も震えていた。 　銀色の毛皮を涙で濡らして暫くしてから、小さな溜息が零れた。 「……人には、人の世界がある。 お前の境遇は、知っている。それがどれほど辛い事か…私には想像することしかできぬが…狼の世界も同じなのだ。群れからはぐれた者は、自然に淘汰されるのが定め。だから私はお前を何度も群れに返してきたのだ。たとえ辛くとも、人は人の世界に居る方が幸せなのだと思っていた。どれほど、お前が泣こうと決して頷かなかった。どれほど……お前を傍に置きたいと願っても、それはいけないことだと自分を戒めて来た。だが…今夜お前を帰せば……お前は、どこか遠くの誰かの物になる。しかも…それをお前は望んではいないというのだな？」 　問いかけは、目の前の金色の瞳をもつ銀狼から発せられた。 　信じられない。 　人の言葉を解するどころか……人語を操る狼なんて！ 　パチパチと目を瞬き、自分を見つめる銀狼の口に手を伸ばした。 　どこから……あの声が？ 　深くて響きの良い男の声だった。 　好奇心がどうしても抑えきれない。 　銀が口を覗き込もうとしたところで、深い溜息がそこから零れた。 「…人が、真剣に話しているというのに…その態度か？」 　不機嫌な……いや、不貞腐れた声音に銀は目を丸くした。 　 「喋れる…なんて今まで教えてくれなかったじゃないか…吃驚したんだよ！だって今まで、遠吠えすら聞いた事なかったんだよ？どうして隠していたんだよ！話せるなら、最初からそう言ってくれれば…そうしたら俺は…！」 　ムキになって狼に詰めよれば、更に深い溜息を吐かれてしまった。 　理由は……なんとなく分かった。 　人語を話せる狼。 　そんな荒唐無稽な存在が、容易く存在していいはずはない。 　きっと、これは秘密だったのだ。 　人に知られる訳にはいかない、秘匿されるべき事なのだ。 　それを人の子供に易々と教える訳にいかなかったのだろう。 　 「…ううん…そうだよね……ごめんね？そっか…ちゃんと俺の言葉は伝わっていたんだね。それが分かって嬉しい。あなたは、人は人の世界に居るべきだと言ったね？でも……俺はもうあそこへ帰りたくない。好きでも無い相手に売られるなんて嫌だよ。お願い…俺をあなたの世界へ連れて行って…！あなたの傍に居させて……たとえ、いつか別れがくるのだとしても…それまででいいから。あなたが、邪魔だと思えばすぐに捨ててくれても構わないよ。俺にはもう…あなたしか居ないんだから」 　必死に言葉を紡げば、金色の瞳が瞬いた。 　銀の声に、なにか考えて……静かに頷いた。 「…分った。お前が望むのなら…連れて行こう。だが……私と来れば、お前は二度と人の世界へは戻れないぞ？秘密を知った者を我らは…生きて返すことなどできぬのだ。だが…それでもいいというのならば、約束しよう。決してお前を捨てたりしないと」 　優しい声に、銀は飛びついた。文字通り銀狼の首に抱き着いた。 　嬉しくて、何度もありがとうと叫ぶ銀に今度は溜息は零れなかった。 　ただ銀の頬に鼻先を摺り寄せ、安心させるように寄り添う身体が温かくて微笑んだ。 「うん…！ありがとうブランカ…！あ……そう言えば、あなたの名前を知らないんだ。俺はずっと…ブランカ…絵本の中の白くて綺麗な狼の名前で勝手に呼んでいたけど。これからは、ちゃんと本当の名前で呼びたいよ」 　あなたの本当の名前を教えてほしいと強請ると、銀色の狼は苦笑した。 「…私には名は無い。一族の長である私を皆……王と呼ぶ。そう言えば……前から気になっていたのだがその狼は雌でしかも…白いというではないか！最初に聞いた時は、耳を疑ったぞ？」 　狼は、ちょっとだけ顔を顰めて銀の頬を鼻先でつついた。 　それを聞いて銀も思い出した……最初の頃に、名前を付けて上げると言って、絵本で読んだ狼の王様のお話しをして……白くて綺麗だからブランカって言った時に、吃驚した顔をしたことがあったな。 「あ…そう言えばそうだったね！だって最初は、月の光で反射して真っ白く見えたんだよ？それに……狼の名前に、男とか女は関係ないって思ってたんだよね。ごめん…嫌だったの？」 　しゅんとした銀に、狼は小さな溜息を一つ。 　嫌じゃないんだと呟き、鼻先を強く銀の頬に押し当てた。 「…我々には、個々に名づけるという習慣が無い。名前で誰の子供であるとか、どこの一族であるかを…判断する必要が無いのだ。だから皆…生まれた時は名が無い。それが普通だ。だが……成人して、番を求める時に名を求める。自分の伴侶に…自分の名を貰う風習があるのだ。だから、お前がその名を私に付け…それで呼びたいと願うのならば……お前は、私の番とならなければならない。それが嫌なら、私の事は王と呼ぶがいい。私はお前を仲間にするつもりだが、お前の意志を無視して…自分のものにしたいなどとは思わない。私は、人では無い。自分の欲望や野心の為だけに…お前を望むことはしない。だから安心すると良い」 　金色の瞳は真っすぐに銀を見つめていた。 　真剣な声だった。 「そうなんだ…！そっか…あなたは狼の王様なんだ。そんな偉い人に……我儘言ってしまったんだね？分った。ちゃんと王様って呼ぶようにするね。誰かに聞かれて勘違いされたら……困るもんね！」 　元気一杯に答えた銀に何故か狼は憮然とした顔をした。 　どうしたの？聞けば何でもないと言われた。 　 「……ともかく、お前を我らの住処へ連れていくとしよう。今宵から……お前は私の仲間だ」 　立ち上がった銀色の狼はそう言うと、銀に背に乗れと促した。 「はい。分かりました王様…どうぞ末永く宜しくお願いいたします」 　微笑めば、今度も変な顔をされた。 　なにか気に入らないことでも言っただろうか？ 　首を傾げる銀にいいから早く乗れと急かす口調も、若干苛立っている。 　慌てて、背中にしがみ付けば銀狼は風のように森を走り始めた。 　周りの景色が飛ぶように流れていくのを、ちらりと眺めながら銀は微笑んだ。 　温かなこの銀色の狼は、自分を仲間にしてくれた。 　五年……待ち続けたのだ。 　銀は二度と帰れないと言う人間の世界に未練の欠片もなかった。 　母親のお墓参りが出来ないと思った所で、唇を噛んだ。 　母親のお墓がどこにあるかすら……教えて貰ってないのに、何を言っているんだろう。 　馬鹿な俺。 　なんて……愚かなんだ。 　未練がないと言った癖に、いざとなったらそんな事を思うなんてどうかしている。 　あのままあそこに居たら……どこかへ売られてしまう。 　そんなのは嫌だと逃げ出した癖に、今度は尻込みしているのだ。 　 　それは、この優しい銀の狼の王様の言葉の所為。 　自分の番にしか、名を呼ばせないと告げられた所為だった。 　ブランカ…… 　 　城の子供達のお古の絵本。 　ボロボロになったそれだけが、銀の持ち物だった。 　狼の王様とその奥さんのお話し。 　白くて美しい……たった一人に愛された王の妃。 　物語は、最後は悲劇で幕を閉じるけれど銀はその奥さんが羨ましかった。 　失われた愛しいものを探し必死で辿る道に張られた罠。 　それに気づけないほどに、彼の絶望は深かった。 　ブランカ……どこに居る？お前は何故消えた？ 　 　王様の悲鳴が聞こえるようだった。 　愛する者を手繰り寄せようと、叫ぶ彼の声は紛れもなく真実の愛情が籠っていただろう。 　ブランカ。 　白くて美しいあなた。 　でも……あなたは王様。 　あなたは……狼達の希望。 　……銀のものには、なってくれないのだ。 　 　それが寂しい。 　それが悲しい。 　 　それでもいいのか？と頭の中で声がした。 　いつか……誰かのものになるのを、傍で見ていられるのかと問い詰められた。　 　銀はそれに答えられない。 　その問いに対する答えは……どこにもない気がしたのだ。