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第1話

「お客さん……。お客さん?」  香坂(こうさか)(みどり)は、バックミラーで後部座席の客を確認しながら、ゆっくりと路肩にタクシーを止めハザードランプを点けた。  「お客さん、荻窪ですけどどうされます」  後ろを振り返って、そう愛想ない淡々とした口調で声をかければ、だが新宿で拾った男に起きる気配はない。  最初、タクシーに乗り込んできた時はだいぶ酔っているように見えたものの、「荻窪方面へ」とわりかししっかりとした口調で告げてきたものだから、さほど気にすることもなく車を走らせたのだが、実際走ってみればものの数分と経たずに男はそのまま寝入ってしまった。  とりあえず荻窪駅まで来てみたものの、これより先をどうしたらいいのか考えあぐねて声を掛けているのだが。  困ったと正面に向き直って、ステアリングを握ったまま翠は深い溜息を吐く。  タクシーのアルバイトを始めてまだ三ヶ月程しか経っていない。 幸いにもやっかいな乗客に出くわしたことは一度もなかったが、今晩はどうも雲行きが怪しい。 「よわったな……」  業務規則上、運転手はむやみやたらと客に触れてはいけないため、客がどうしても起きない時の最終的な対処法としては警察に届けるしかない。  手続きなどに時間を取られるのは面倒だが、ここで二の足を踏んでいるよりかはましだろう。  それに、タクシーのバイトを終えたら、この後急いで行かなければならないところもある。  とにかく、警察に運ぶ前にもう一度だけ声を掛けてみてそれで駄目だったら仕方がない、と車を降りた。 後部座席のドアを開けて大口を開けて眠る男の顔を覗き込んだ。  これは、また結構なイケメンくんだ。  シートベルトもせず、後部座席いっぱいに横たわって口から涎をのぞかせながら眠るスーツの男を見下ろしながらボソッと呟く。もちろん心の中で。  来年三十歳を迎える翠より少し年下か同じくらいの。  短く刈られた黒い髪はツンツンとセットされてはいるが柔らかそうだ。  身に着けているダークスーツはブランドものだろうか、肩幅のある体躯と投げ出された長い脚によくフィットしていた。  腕時計を見ればこれまた高価なもので、翠の三ヵ月分のお給料でも買えそうにない。  若くしてどこぞの社長か役員か。 それともホスト?  そう思って、いや違うな、と翠は首を傾げた。  とにかく、今はイケメン男の値踏みを悠長にしている暇はないのだ。  翠は運転席のデジタル時計に目を向けた。  時刻は二十三時四十分。 「ぐずぐずしてたら、(かつら)に叱られるな」  二十四時には仕事を上がって、二十四時半までに新宿二丁目にある桂(かつら)のバーに行かなければならないのだ。  今日は二十三時からバーで貸し切りの予約が入っているのに、友人が経営するクラブのオープン記念パーティーに呼ばれている桂はどうしても出かけなければならない。  ゆえに、今日に限って店番を任された翠は、桂がマスターを務めるゲイバー『慕恋路(ぼれろ)』へ急がなければならなかった。時間厳守で。  最後の客がここまで酔っぱらっていたのであれば乗せるのではなかったと今更ながらに後悔する。  とびきりの爽やかな笑顔で手を挙げられたら通り過ぎるなどできるだろうか。 無意識に車を横付けしてしまっていた。  すーっと通った鼻梁に男らしさを感じさせる大きくて少し厚い下唇を見下ろしながら、今度は少し大きめな声で呼び掛ける。 「お客さんっ。起きてくださいっ」  だがしかし、馬の耳に念仏よろしく男は微動だにしない。  急いでいることもあって、少しイラッとした翠は背もたれを叩きながらちょっとムキになって再度呼び掛けた。 「おーい! ねえ、お客さんってば。起きてくださいって。おーきーてー!」  夜とはいえ、夏場の夜はそれなりに蒸し暑く、白い手袋とネクタイが煩わしい。 翠は軽く舌打ちをした。 「あー! もう、しようがないな……。警察行くか」  そう溜息交じりに呟いて状態を起こしかけた時、不意に腕を捕まれて体制を崩す。  男の頭へもたれ込んだ。 「――っ!」  慌てて背もたれにもう片方の手を引っ掛けて状態を浮かせると、図らずも息が触れ合うほどの距離で酒気を帯びた男の双眸とかち合って息を呑む。 「お、おねが……い」 「あ? え……な、なに」  乾いた唇から掠れた声が漏れるのへ、聞き取れなくて慌てて聞き返す。 「け、警察だけは……やめて……く、れ」 「やめてくれって……。それじゃ……それじゃ住所! 住所教えてよっ」  翠はおぼろげな男の意識が再び沈む前にと急いで尋ねた。  が、「警察だけは……」と再度口にしたきり、翠の問いかけ虚しく、男は再び深い眠りへと落ちていったのだ。  十五分ほど遅刻したものの特に桂からのお咎めもなく、その夜の慕恋路はアメリカのロサンゼルスで結婚式を挙げてきたゲイカップルのパーティーで大いに盛り上がった。  日曜日から木曜日までは深夜一時までの営業だが、今日のような金曜日と土曜日は深夜四時まで営業している。  四時を過ぎてようやく客も引き、翠はバイトの子たちと店の片付けを済ませ、バイトの子たちを先に返してから売り上げをまとめると一人慕恋路を後にした。  東の空は縹色に染まり始め、路地には人の姿もまばらだ。  新宿は二十四時間眠らないなんて言われているが、翠は始発前のこの時間帯こそが新宿がほんのいっとき眠る時間なのだと思っている。  この時間帯の新宿が一番好きだった。  ほっとして一瞬だけ解放される。  四六時中、多種多様な人間が忙しなく行きかい群がるこの場所が、ほんのひと時だけその喧騒から解放されるのだ。  新宿駅までゆっくり歩いて始発に乗り、荻窪駅で降りるとコンビニで朝ごはん用のパンを買ってマンションへと向かった。  コンビニ袋片手に、空を仰いで大きな溜息を吐く。  翠は、少々憂鬱だった。  徹夜で一日中仕事をして疲れたというのもある。けれど、翠を憂鬱にさせるのはそれだけではない。 つい数時間前に翠の運転するタクシーで寝入ってテコでも起きなかった男を慕恋路に行く前に荻窪にある自宅マンションへ置いてきたのだ。苦肉の策だった。  「警察だけは……」などと言われて、いったんはそれでも届けようと考えたが、なんだかあの縋りつくような眼差しを思い出したら良心が少々痛んで、自分の家へと連れ帰ったのだ。  会社へ連れていったとしても最終的には警察に届けることになったかもしれない。  いずれにしても、急いでいたということもある。  今考えれば、あまりにも浅はかな対応だったと反省していた。  自分より背も高くがたいも良い男を文字通り引きずって部屋まで運び込みソファーに投げると、皺になってはと思って背広だけ脱がしてハンガーに掛け、目を覚ました時に置かれている状況がしっかり把握できるように簡単なメモと鍵を残してきた。  保険といってはなんだが、翠が借りている1LDKのマンションは桂の名義ということもあり、部屋の物を勝手に盗んでとんずらするような男には見えなかったが、念には念をとスーツの内ポケットに収まっていた財布から免許証を抜き取り携帯電話で写真を撮っておいた。  撮った時に免許証に住所が記載されていることに気がついて激しく落ち込んだのは言うまでもない。  しかも、ここからさほど遠くない住所で、もっと早めに気づいていればと悔やんだが、結局のところ男の家まで送り届けたところで起きなければ勝手に鍵を開けて部屋に押し込んで財布からタクシー代を抜き取るというのもどこか犯罪めいているような気がして、とにかく急いでいた翠は考えることを諦めてこの件は捨て置くことにした。 どちらにしても、どっちもどっちだと。  にしても、どこの誰とも知れない男を自宅マンションに招きいれてしまうとは、よく考えなくともどうかしているな、と思わず苦笑する。  くだんの男はまだいるだろうか。  あのマンションで一人暮らしを始めて、桂以外に誰かを家にあげたことなど一度もない。  桂に世話になってからの三年、煩わしい人間関係に疲れて友人も恋人も作ってこなかった。  できれば帰ってくれていたらいいのにと思うが、昨夜のあの酔い様ではこの時間にまず目を覚ましているなんてことはないだろう。  面倒な男じゃなければいいな。  面倒は嫌いだ。  誰かと親しくなったって、どうせその関係も長くは続かない。  一人でいれば誰に迷惑かけることも無く、傷つくこともない。  何かを望むから傷つく。初めから何も望まなければ傷つかない。  この先ずっと、ひっそりと静かに余生を過ごせればそれでいい。  そんなことを考えていたらマンションの入り口がすぐそこだ。  築二十年もののマンションだが、灰汁色したタイル張りのそれは古ぼけた感じもなく、駅から徒歩十分足らずとなかなか立地もいい。  翠が住んでいる部屋はもともと桂が購入したもので、当の桂は自分の店を持つ際にバーの二階部分を居住区としたことから、このマンションの部屋を今は格安で翠に貸してくれている。  昨晩の男がまだ部屋に居たら居たでなんだか面倒だなと思いながらも、もしまだ居たらとも思って一応男の分にもパンを買ってきてしまった。  居なければ、その時は昼ごはんにでも食べればいいかと。  そう肩で小さく息を吐くと、翠はエレベーターに乗り込む。  とにかく、今日は疲れた。  今日と言ってもすでに昨日からの事だが、通常は十九時に終わるタクシーのバイトも急な欠員から急遽二十四時まで駆り出されることになり、その後の慕恋路での店番も貸し切りパーティーとあっていつもより忙しかった。  なんとか合間をみて軽い夜食を口にすることはできたものの超過労働で体はくたくただ。  家に帰ってお風呂に入ってタバコを吸って寝たい。  そんなことを頭の四隅で考えながら翠は玄関を開けた。  ――あ、と口が開く。 やっぱり。……まだいる。  見れば玄関には数時間前に翠が脱がせた男の革靴がまだそのままだ。  ま、……いいけどね。  翠は屈みながらハイカットスニーカーの靴紐をほどきにかかる。  彼は、まだ眠っているのだろうか。  とにかく、昨日のあの酔い方では今日は朝から二日酔いだろう。  自分も飲みたかったし一人分も二人分も変わらない。コーヒーでも入れて、などと頭を巡らせていると不意に短い廊下の先で扉がカチャと開く。 「え」 「あ」  そう短く声をあげたのはほぼ同時だった。  翠は靴を脱ごうと屈んだ状態のまま、男は風呂場から出てきて上半身裸のまま腰にタオルを巻いた状態で、二人はしばし無言のまま見つめ合う。  もともと感情を表に出さない翠は、どこか冷ややかな眼差しで、何事もなかったかのような調子で淡々と告げる。 「まだいたんだな」 「おかえりなさい。風呂、勝手に借りました」  人好きしそうな大きな口でにかっと笑う。 「あ、そう」  何食わぬ顔でそう返事をしたものの内心驚いた。と言うより焦ってしまった。 まさか、風呂に入っていたとは想定外で、徹夜明けには眩しすぎる上半身裸とくれば。  どこのどんな奴の家とも知れない部屋で、まさか堂々と風呂に入っているなど誰が想像する?  高級スーツを着込んでいかにもエリート面の入れ食いしまくりです君と違い、もしかしたら少々頭の痛い男なのかもしれない。  面倒な男はごめんなのに。 「おまえさ、警戒心なさすぎ」  靴を脱ぎ捨てると買ってきたコンビニ袋を片手に男の横を通り過ぎながらキッチンへと向かった。 「いや、翠さん置き手紙書いていってくれたでしょ。あ、ってか翠って書いてあったから翠さんて呼んでも構わないすか?」  頭をがしがしとタオルで拭きながら翠のあとに続いてキッチンに入ってくる男を横目で見ながら、「好きにしろよ」とキッチンでコーヒーメーカーをセットする。  腰に巻いていたタオルの下は一般的な黒のボクサーパンツだ。 「飲む?」 「お、いいすね。飲む飲む」 「飯は? 食えそう? お前、二日酔いとかじゃないわけ」 「まあ、少しは。でも風呂入ったらけっこうスッキリ」 「あ、そう」  凄いな。昨日あんだけベロベロで何しても起きないくらい泥酔していたのに。  翠は内心呆れながらポケットからタバコを取り出すと火をつけた。  大きく吸い込んでゆっくりと紫煙を吐く。しばらくぶりのタバコだ。とは言え、慕恋路を出る前に吸ったぶりだが。最高に旨い。  そんな様子を隣に突っ立って見下ろしてくる男を少々訝し気に見上げた。 「なに」 「いや、なんかすげぇー……」 「すげえ、なんだよ」 「なんかセクシー、っすね」 「は?」  あ、いやだから、と自分でも変なことを言った自覚があるのか苦笑を浮かべながら言い直す。 「翠さん、なんかすげぇ見た目繊細っていうか肌白いしこう綺麗っていうかさ。タバコってイメージがなかったから吸うんだー、みたいな」 「似合わない?」 「違う違う。むしろその逆で。イメージと違ったからよりなんか……、あ! ギャップ萌えってヤツ?」 「知らねーよ」 「口も悪いのか。さらにギャップ萌え」  などと、どこか面白そうに覗き込んでくる男をタバコを吸いながら冷たくいなした。  今知り合いましたと言っても過言ではないと思うのだが、この男はそんなことお構いなしに随分と馴れ馴れしい。   初対面の相手に「おまえ」とか言ってしまう自分も大概だが、この男は人懐っこいのか人見知りしないのか、とにかく距離の縮め方が通常の倍速以上で、翠は僅かに面倒臭いなと眉を寄せた。  確かに翠は一見タバコを吸うような外見には見えない。  平均的な身長であっても、体の線は細く色白とあって見ためだけで言えば大人しそうで繊細。  耳に掛かるか掛からないか程度のサラサラの髪も、奥二重で少し吊り上がった切れ長の目も薄い唇も、すっきりした顎のラインからの細い首も、どれも翠を男であっても綺麗だと思わせるものばかりだ。  だが、周囲の期待を裏切るように、翠は口が悪いうえに愛想もない。  その上、ドが付くほどのヘビースモーカーだ。 「どうでもいいけど、早く服着てくれない?」  灰皿にタバコをもみ消しつつ、残煙を吐き出しながら言う。 「え」 「え、じゃなくてさ。俺、ゲイだから、そんな格好されてると目のやり場に困っちゃうっていうか」 「へえ、え? あ……そっか」  社交性能力の高い男を少しでも遠ざけようと包み隠さず手っ取り早い方法をとってみる。  連れ込まれた先が実はゲイの家で、しかもそんなところで一晩過ごしてお風呂まで借りてしまったとなれば、多少は動揺してさっさとこの家から去って行ってくれるだろうと。  ぽかん顔のイケメンを表情のない横目で一瞥すれば、翠はタバコをもう一本取り出して火をつけた。 「あのー、帰んないんですか?」  翠はコーヒーマグを口に当てながら、ダイニングテーブルを挟んで向かいに座る男を遠くを見るような目で見やる。 「んー?」  なんで? とでも言いたげに少し垂れた大きな目を見開いて、コーヒーマグを口に運ぶ。  先ほど早く帰ってくれたらいいなと思って言ったカミングアウトの後、「そうなんすか!」などど大仰に叫んで慌てて服を着た男は、だが帰るのかと思いきや「お待たせー」なんてしごく当然のように翠からコーヒーを受け取ったのだ。  上着とネクタイこそしてないものの、髪を整えてシャツとスラックスを穿いた姿はやはりうっとりするほど男前で格好いい。  昨日の泥酔しきったみっともない寝顔でさえもそう思ったが、こうして通常バージョンを見ると更にもましてしみじみそう思う。  ジム通いでもしているのだろうか。先ほど無防備にさらされた上半身はほどよく引き締まっていた。  それでいて上背のある男は、裏表のなさそうな男前な顔立ちと、似合うだけに嫌味にならない高価なスーツをこれ見よがしに着こなして、女からの誘いは引く手あまたであろう。  見る限り男相手に色恋をするような人種ではなさそうだ。  お仲間であるなら大概気づくものだが、この男はおそらく違う。  そして、きっと温かい家族に愛されて育ってきたであろう人種だ。  自分とは何一つ重ならない人間。  いずれにせよ、正直今の翠にはどうでもいいことだった。  帰宅後何本目かになるタバコに火をつける。 「翠さんがせっかくパン買ってきてくれたし、これを食べずに帰るなんてできないでしょ」 「じゃあ、それ食ったら帰れな」 「俺、おひゃまっふはね」  パンを口に頬張りながら「俺、お邪魔っすかね」と尋ねてくるイケメン君に、 「いや、俺、徹夜で疲れてて、汗で体もベトベトだし早く風呂入って寝たいんだよね」  と、にべもなくそう言えば、慌てたように「すみません」と謝ってきた。 「あ、でもせっかくなんでもう一杯だけコーヒーもらってもいいすか」  遠慮もなくコーヒーのお替りをおねだりすれば、おもむろにテーブルに両肘をつくと翠の顔を覗き込む。 「そういえば、お礼がまだでしたね。昨日は俺ずいぶん飲みすぎちゃっておそらく翠さんの運転するタクシーで寝こけたんすよね」 「…………」 「で、起きなかったから、わざわざ翠さんちまで運んでくれたんですよね。いや、本当にすみませんでした。ご迷惑おかけしました」  と、頭を下げた。  出かける前に残したメモ書きには『ここは荻窪です。起こしても起きなかったので仕方なく俺の家につれてきました。目が覚めて帰る際は合鍵を置いておくので鍵を閉めてポストに入れておいてください。なにかあったらこの携帯番号まで』と記して携帯番号を添えて『翠より』と締めくくった簡単なメモ書きだけを残したが、それを読んだだけで宗助はどうやら自分の状況を察したらしい。 「でも、こんなどこの馬の骨とも知れない男を無造作に自分ちにほおって心配じゃなかったんすか? なにか盗まれたらとかそういうこと心配しなかったんすか」 「したましたよ、もちろん」  翠はタバコの灰を灰皿に弾きながらさらっと応える。 「だから保険として免許証、写メらせてもらったから」 「俺の?」 「そう、おまえの。小田桐宗助(おだぎりそうすけ)くん、二十八歳。西荻窪在住」 「わっ。マジで」  嫌悪というより驚いたといった様子でオーバーにのけぞってみせた。 「ってか、それってこっちのセリフなんだけど。どこの誰の家とも知れない家で普通お風呂入ったりする?」 「あははは」  などとわざとらしく頭を掻いてみせる。 「だって、せっかくだし顔見てお礼言いたいって思うじゃないすか」  別に気にせずとっとと帰っていただいてよかったんですが。  とはさすがに口には出さなかった。 「小田桐くん、変わってるよね」 「翠さんこそ変わってると思うけど。ってか、宗助でいいっすよ」 「…………」 「翠さんて本とか好きなんすか」  不意に、リビングにある本棚を指しながら言う。  翠の部屋は十一階建ての十一階にあり、部屋の間取りはごく平均的な広さの1LDKで、最低限の家具しか置かれていない殺風景な部屋ではあったが、リビングの壁一面に設置された本棚には埋め尽くさんばかりに文庫がずらりと並べられてあった。 「すげぇ、小説びっしりっすよね。好きなんすね」 「別に、好きっていうか暇つぶしにちょうどいんだよ」 「へえ」  と相槌をうちながら腰を上げるとコーヒーマグを片手に本棚の前に立つ。 「推理小説ばっか」  その中の一つを手にとって、「これ借りてもいい?」と翠に聞いてきた。 「駄目」 「えー、そんなこと言わずに」  露骨に拗ねたような顔をしてみせる宗助が途端に子供っぽく見えて、正直調子が狂う。まったくと頭を小さく振った。  タクシーに乗ってきた時はもっと大人びた印象を受けた。  こんなあけっぴろで無邪気に笑って話をするような男だとは思っていなかった。それが存外イメージと違って変に親しみやすさを感じてしまったりする。  これがこいつの言う、いわゆるところのギャップ萌えなのか。 「なら、やるよ」 「いや、いいっす」  と即答されて思わず眉を寄せた。 「ちゃんと返しに来ますんで」  それが面倒だからあげると言ったのに。  面倒臭いから結構だと言おうとして、だが無駄だろうと早急に諦めた。こういうところはきっと律儀な男なのだろう。なんとなしにそう思う。  じかに顔を見て礼を言いたかったなどと言う男なのだから、あげるといったところで「じゃあ」などと受け取ったりしないのだ。 「読み終えたら連絡しますね」 「連絡?」 「メモ用紙に書いてあった携番、登録させてもらっちゃったんで」 「おま……っ」 「翠さん、俺だったからよかったものの、あんまし無防備に携番なんて教えちゃダメっすよ」 合鍵とか置いとくのも論外っすよ、などと言いながらも悪戯に口端で笑ってみせる。 「と、言うことでそろそろ俺、帰りますね」  唐突に会話を切り上げられて思わず落胆した。 「そうだ、俺の連絡先教えておきますね、念のため。メモ用紙もらえます?」  気が進まなかったが、相手に自分の携帯番号を知られてしまった以上、こちらも知っておく必要があるような気もするので翠は仕方なく応じた。 「メモとか面倒だからワン切りしろよ」 「そうしたいとこなんすけど、俺、今電池切れてて。口頭でもいいけど、メアドもあるし面倒くさくないっすか。メモ見て後から登録したほうがいいかなと思って」  なるほど、確かにそうかもしれない。ならば仕方ないと、翠はメモ用紙の入っている引き出しを開けた。 「あれ……ロザリオ?」 「――――」  不意に翠の肩越しから覗き込んできた宗助が小さく呟く。  翠は、はっとした。  他人に見せるつもりなどなかった物を見られて思わず動揺する。  人目につかないようにと引き出しにしまっていたことをつい忘れていた。  掌に握りこめるくらいの小さな総ゴールドのロザリオ。  数珠状の先端に十字架がくっついている首飾りのようなもので、細やかな装飾が施されていてとても美しい。  十字架の中央には綺麗にカットされた一カラット程のダイヤモンドが埋め込まれていた。  カトリック教徒が祈りの時に用いる用具であるが、もちろん祈りのために使ったりはしない。ただ翠にとってとても大切なものであるが故にそっと引き出しにしまっておいたのだ。  翠は慌ててメモ用紙を抜き取ると急いで引き出しを閉めた。 「ほら、メモ用紙」 「あ、どうも。ねえ、さっきのってロザリオでしょ? 翠さんてもしかしてキリスト教徒とか?」 「違うよ。いいからとっとと携番書いてはやく帰れよ。俺、マジで眠いんだから」  どこか八つ当たりのような言い方に少し罪悪感がよぎったが、本当に疲れているせいもあって取り繕うことはしなかった。  ロザリオのことをあれこれ聞かれるのも嫌だったので仕方がない。  だが、そんな翠の態度に気分を害することもなく、淡々とメモ用紙に携帯番号とメアドを書き込む宗助は、ペンを置くと上着とネクタイを手に取る。 「じゃぁ、お邪魔しました。朝食までご馳走になっちゃって、コーヒーもありがとうございました」  屈託なく笑って見せれば玄関へと向かう。  靴を履く宗助の背中に「そうだ」と翠は思い出したように手を打った。  なんだと振り向く宗助に、 「宗助くん、警察に行けないようなことでもした?」 「へ?」  宗助の頭の上にはてなが飛び交ったので、昨日のうわ言は覚えていないのだろうと察した。 「昨日、どんなに起こしても起きなかったからさ、警察に届けようとしたんだけど、そしたら宗助くん『警察だけはやめてくれ』って。だから連れてきたんだけど」  家にね、と、そこまで言って宗助の顔がさっと青ざめた。 「本当? マジで? わわわっ!! よかった。マジで翠さん、俺を警察に届けないでいてくれて本当にありがとう! 恩にきるよ!」  そういってガシガシと翠の手を両手でつかんでぶんぶんと力強く振った。  えっと、だからどういう意味なんでしょうか。  と、目を見開いていると、掴んでいた手を離された。 「じゃ、そう言うことなんで。ゆっくり休んでください」  にかっと笑ってみせればヒョイヒョイと手を降って宗助は玄関を出ていった。  そう言うことなんで、とはいったいどう言う意味で。 なんなんだとも、さようならとも言えないまま翠はしばし宗助の出ていったドアを眺めた。 疲れているから帰ってくれと言った時はそれでもコーヒーをもう一杯などと言ってなかなかに粘っこく居座っていたくせに、いざ帰るとなると呆気ないのだ。 小さく溜息を吐いた翠は、風呂に入る前にもう一服することにした。  あれから二週間が経ったが、宗助から本の返却についての連絡はまだない。  特に連絡を待っているつもりはなかったが、連絡しますんで、と言われたからには普段よりも携帯が気にしてしまっているのは事実だ。  そもそも、本当に連絡なんてくるのだろうか。  その場のノリで借りたものの、読むのも返すのも面倒になって、連絡するのも億劫だなと思うと、そういえば本をあげるなんてことも言っていたから、このまま返さなくてもいいか。  などと思うこともありえない話ではない。  今日日、そんな風に軽く流して約束事をなおざりにしてしまうような若者は多いだろう。  そんなことをここ数日ぐるぐる考えながら、今日もそれなりに忙しなくタクシーのバイトを終えた翠は、新宿二丁目にあるゲイバー『慕恋路』に来ていた。  細い路地に面して建つ古い雑居ビルの一階。  七階建てのビルは築三十年ほど経っていたが、うらぶれた感じはなく、その古さとレンガでタイル張りされた壁がかえって懐かしいレトロ感を漂わせていた。  ビンテージ加工された黒檀のドアを開ければ、灯りを抑えた夕日色の電球で彩られ、オレンジと茶色を基調とした壁や家具などでまとめられた落ち着きある内装だ。  どこか古き良き昭和の時代にタイムスリップした感覚を味わう。  翠は、昔祖母と暮らしていた古民家を思い出させてくれるこの雰囲気が好きだった。  入口を入ると右手に十席はあるだろう長い一枚板のバーカウンターが奥へと伸びて、左手には円テーブルが六卓ジグザグに設置されている。入口付近には立ち飲み用のテーブルも用意されてあった。  それと、奥の壁に四人掛けのボックス席が二個と二人掛けのボックス席が一個。  一番目立たない左奥の二人掛けのボックス席が翠のいつもの所定位置だ。  毎夜、ここで夕飯を食べては終電間近まで本を読み時間をつぶす。  店が忙しい時は、そのままバーを手伝うことも少なくない。  今日も慕恋路のマスターである桂ご自慢のチキンライスを頬張る。  時刻は二十時とあって、店内の客はまだまばらだ。  二十一時を過ぎるとだいたいのテーブル席はうまってしまう。  そんな翠のところへコーヒーを運んできてくれた桂が、タバコを口にくわえながらいつも通りのぶっきらぼうな口調で話しかけてきた。 「よお、タクシーのバイトはどうよ。そろそろ四ヶ月になるだろう。ぼちぼち疲れがでるころなんじゃねえのか」 「まあね、どうだろな。そうかもしんない」  最後の一口を口に運びながら、翠はそっけない返事を返す。  二分刈りされた頭の両サイドに細く数本の剃り込みをいれて、頬骨のはった男らしい顎には無精ひげがよく似合う。  毎日、家で筋トレを欠かさない桂の体は、四十五歳という年齢ながらも程よい筋肉の盛り上がりが服の上からでも見て取れた。  上背も、がたいもある強面な桂は熊みたいだ。 「そうかもしんないって、そうなんだろうが。見りゃ分かんだよ」  ったく、と呆れ声の桂を横目でチラッと見あげると翠はタバコに火をつける。 「じゃ、聞くなよ」 「心配してんだろが、このバカが」  と、翠の後頭部を軽くはたいた。 「タクシーは大変か?」 「いや、大変てこともないよ。人と正面切って顔を突き合わせることもないし、普通の会社務めに比べたら数段気が楽。まあだいたい慣れてきたけど、……そうだな、こう月曜から金曜まで決められた時間を働くってのが久々過ぎて、ちょっと気疲れしてるってのは正直あるかも」  背もたれにルーズにもたれ掛かりながら、ゆっくりと煙を天井に向けて吐いた。  そんな翠を見下ろしながら、桂は眉を寄せる。 「飯、朝昼ってちゃんと食ってんのか? ちょっと痩せた気がするが」 「食ってるよ。ってか、毎晩ここでしっかり夕飯食わしてもらってるし、そうそう痩せないよ。もう、大分体重だって戻ってきてるし平気平気」 「にしては目の下、クマできてるぞ」  と、翠の目許を指ではじいてみせる。  やめてくれと腕で払いのけながら、 「ちょっと寝つきが悪いだけだから、あんま心配しないでよ」 「……そうか、ならいいけどな。今日も本、読んでくんだろ?」 「うん」 「ゆっくりしてけ」  桂は翠が食べ終えた皿を片手に踵を返す。 「桂」  不意に、テーブルを離れようとした桂を引き留めた。  なんだと肩越しに振り返った桂には目を向けず、タバコを持った手元に視線を落としながら、わずかに自棄的な口調で呟く。 「もう少し、時間ちょうだい。そしたらこのボックス席、ちゃんと空けるからさ」  桂は翠が言わんとしていることを理解しながら敢えて聞き返す。 「なんだそりゃ」 「ここ、毎晩俺が陣取ってたら売り上げさがるでしょ?」  言いたいことはそんなことではないのだけど、と思いながら翠は続ける。 「今の生活リズムに慣れたら、俺ももう一人で大丈夫だと思うから。そしたら……ってイテっ!」  頭をおもいっきり叩かれて、翠は思わず痛みのあまり涙目を桂に向けた。 「あんた熊みたいな手ぇしてんだから、加減してよ」 「バカ野郎。そんなつもりでテメェの仕事の具合を聞いたんじゃねんだよ。一年前まで廃人同然だった人間がいっちょまえに変な気ぃ遣ってんじゃねえよバーカ。次遠慮するようなこと言ってみろ、お前の粗チン、酢漬けにするぞ」 「って、うまいの? それ。お酢ってなんだよ、ピクルス?」 「知るか」  と少し怒った顔で口にくわえていたタバコをジリと噛むと、鼻息荒く息をつく。  「とにかく」と、桂はしごく真面目な顔で翠に向き直った。 「とにかく、今はまだ甘えてろ。焦るな、翠。ゆっくり慣れりゃいんだよ。そんでもって、居たいだけここに居ろ。一生居たって、俺は構わねぇって思てるよ」  ぶっきらぼうな言い方なのに、桂の声は優しかった。  翠はフッと、口許をわずかに緩める。 「俺、迷惑じゃない? なーんて言い方したら鬱陶しいしよな。あーあ、なんかしけたしけた。ま、あんたがそう言ってくれてるうちは思いっきり甘えさせてもらおうかな」  どこか照れを誤魔化すように翠はタバコを灰皿にもみ消した。 「寝不足してるとやっぱ碌なこと考えないね。今日さ、もし寝落ちしたら桂んとこ泊めてよ」 「分かったよ。ま、せいぜいくつろげ」  そう言って翠のサラサラの髪の毛をくしゃくしゃと撫でた。 桂の家に引き取られてから、何度となく病院に通ったが、当時鬱状態でもあった翠はアルコール依存症の治療の間も何度となく飲酒を繰り返しては振り出しに戻るというのを繰り返した。  自分がそれまでにしてきた数々の醜態が後悔となってまざまざと脳内を占拠する。  お酒を飲んで誤魔化しても一時楽になれるだけで、またすぐに苦い現実で目を覚ます。  ついに吐血した翠を桂は有無を言わさず入院させたのだ。 毎日、疲れていてもこうして本を読むようになったのはアルコール依存症のリハビリが順調に進み始めた去年の正月明けくらいからだったか。  退院後、独立した桂のバーによく訪れていた客から、小説を読むことを薦められた。  現実逃避するには酒よりもうってつけだと言われたので、騙されたと思って翠は何冊か本を買うと、取りつかれるようにはまった。  現実の煩わしさから離れて小説の中の物語に没頭するのは翠の感情をコントロールする上で効果的だった。  思考が散々することなく、一つの方向性だけを客観視していくというのはさざ波立つ脳内を穏やかに落ち着かせてくれる。  本の中は安心だ。そんなふうに思えた。無心になれた。これが映像であったら駄目だっただろう。  活字だったからよかったのだ。  とかく推理小説はいい。数字を読み解くようで明快だ。  ゆえに、翠の部屋には本棚を埋め尽くすように沢山の推理小説が並んでいる。  言わば精神安定剤だ。  その中の一冊を先日、宗助が借りて帰ったのだが。  ――あれは、なんの本だったか。  持参した本をボックス席で開きながら、ふと思う。  去年の夏ごろ依存症のリハビリを終え、今はこうしてアルコールに囲まれた場所に居ても、酒を欲するということはなくなった。  少しずつ桂のバーを手伝うようになったものの、桂の店とこの店の上にある桂の家を行き来するだけの生活を送っていた翠には、誰かと気さくに言葉を交わしたり、ましてどこかへ一緒に遊びに行くなんてことはなかった。  周りの人間が翠と距離を置きたがっていたということもあったし、翠自身誰かと深く関わろうという気も無かった。  ただ、今までやってきた数々の後悔が時折顔を覗かせては翠の心を不安定にさせるので、桂の目の届く慕恋路に身を置くことが多くなった。  こうして、長い間このボックス席を占領し続けてきてしまっている。  申訳ないという気持ちから、自立して少しでもお金を稼いで桂に返していきたい。そう思って今年の五月頃から始めたのがタクシーのアルバイト。  桂はその必要はないと言ったが、最後には翠の気持ちを汲んで、いきなり社会復帰をさせては心配だからと、徐々に慣れさせるために知人に頼んであまり類の無いタクシーのアルバイトなんてものを世話してくれた。  それと同時に、それまでバーの上で一緒に住んでいた翠は、桂の家を出て今のマンションで一人暮らしを始めたのだ。  少しでも、少しずつでも自分の事は自分自身でやれるようになりたかった。  ずっと、祖母と桂に甘えて生きてきた人生を、弱い自分に甘んじてきてしまった人生を今度こそしっかりと踏みしめて歩んでいけるようになりたかった。  無視されてもいい、蔑まれてもいい、自然なままの自分でいたいと思った。  過保護なまでに面倒を見てくれる桂に、翠は口にこそ出さないが心の底から感謝している。  大げさでなく、命の恩人だ。  捨てられた子犬のように俯いてばかりいたあの時に比べたら、今の翠は強くなった。  強くなったというよりも、ようやく目が覚めたといったほうがいいだろうか。  色んなことが吹っ切れた。  もともと感情表情は乏しかった。  どこか諦めたような排他的な印象は今も変わらないが、肌が白く線の細い綺麗な女顔の翠は、それでも以前はどこか繊細で従順なイメージを持たせた。  だが、目が覚めた今の翠は、人の目や顔色をうかがったりすることもなくなり、人は人、私は私、カモメはカモメと言わんばかりの愛想のなさだ。  友人も恋人もいらない。  今は桂だけで充分だ。それだって、ずっとと言うわけにはいかないだろう。  いつまでも桂の脛すねをかじっているわけにはいかない。  いつかここを出て、つつましやかにコツコツと働いて、不幸じゃないと思える程度に生きていければいい。  そうすることが散々周囲に迷惑をかけてきた自分への戒めと、祖母と桂への恩返しにつながると思っていた。  だから、友人も恋人も、いらない。  ――宗助は、どうだろう。  あれは、友人という枠にはいってしまうのだろうか。  いや、違うな。  知人? それも違う。強いて言うなら運転手と客といった関係か。  けど、名前も連絡先も交換して、家で一緒にコーヒーを飲んだ。  ただの運転手と客っていうのも変な感じだ。  じゃあ、なんなんだ。  桂に世話になって三年、仕事以外のことで新たな連絡先が携帯電話に登録されたのは今回が初めてだ。  あの衝撃的な風呂上りの姿に内心面喰い、妙に人懐っこい性格な上に、本などを借りて帰って行ったものだから変な勘違いをしてしまいそうになる。  友達になんてきっとなれない。  昔の自分のことを知ったら、宗助はどう思うのだろう。  やはり軽蔑するだろうか。  屈託なく笑う、眦の下がった大きな目を頭に思いだす。  あの優しそうな眼差しが、軽蔑の眼差しに変わるのを、見たくないな。  と、ふと翠は思った。  疲れているのか寝不足のせいか、今日はまた随分と余計な方へ思考が飛ぶ。  携帯電話をポケットからテーブルの端に置くと、翠はネガティブな思考を排除するために小説に目を落とした。  桂は閉店間際のカウンター内で最後の客を見送ると、奥のボックス席を覗き込んだ。  宣告通り、本を手にしたまま翠はテーブルにうっつぶして眠ってしまっている。  なんでもないような言い方をしてはいたが、睡眠不足と連日の慣れない仕事のストレスで、だいぶ疲れが溜まっていたに違いない。  寝つきの悪い夜などに、翠はああして本を読みながらよく眠ることが多かった。  読んでいる隙にどうにかこうにか眠りに落ちるのだ。  騒がしい店内の中で落ちる翠の眠りは深い。  このままバーの片付けが終わるまで寝かせておいて、それから上に運ぶかと考えながら拭いたグラスを棚にしまっていると、どこからともなくバイブレーションの擦れる音が聞こえてきた。 「…………」  自分の携帯電話をとっさにみるが、違う。  僅かなバイブ音を辿りながら彷徨えば、どうやら翠の携帯電話が鳴っているようだった。  よく寝入っている翠は携帯に気づく様子もない。  翠を起こさないようにそっとテーブルから携帯を取り上げる。  ディスプレイには『小田桐宗助』と表示されている。メールかと思ったが電話らしい。  訝し気に眉根を寄せると、テーブルから少し離れたところで桂は迷うことなく通話ボタンを押した。 『こんばんは、宗助です。遅くにすみません。起きてました?』 「いや、残念だがとっくに眠っちまったよ」 『へ?』  聞きなれない太い声に、宗助は間抜けな声を出した。 『あ、えっと……すみません、俺、小田桐宗助と言いますが、こちら翠さんの携帯で間違いないですよね?』 「ああ」 『良かった。それじゃ、翠さんは』  と問われて、桂の悪戯心に火がつく。 「あいつか? あいつなら今、俺の横で眠ってるよ」 『横で? っすか……』  その微妙な言い回しに一瞬息を呑むのが聞こえた。  何を想像したのか、通話口の向こうで宗助が沈黙する。  それに付き合って桂も黙っていると、今度は少し低めのどこか険のある声で尋ねてきた。 『失礼ですが、翠さんとはどういったご関係で』  この男は、おそらく翠がゲイだと知っていて、横で眠っているなんて言葉を斜めに捉えて勝手に誤解でもしているのだろう。  狙い通りすぎて、桂は思わず口許をニヤつかせた。 「どうもこうも、ただの保護者だよ」 『……保護者? それじゃ、翠さんの親父さんですか? すみません、俺なんか変な勘違いしちゃって』  と、慌てる様子からすると、宗助は翠の家族の事情をほとんど何も知らないのだろうと察した。 「そう言うお前は誰なんだ。あいつとどんな関係だ?」 『どんな関係って言われると難しんすけど、以前、翠さんに本を借りて、それを返そうかと』 「翠から本を……?」  あの翠が特定の誰かに本を貸すなんてことがあるだろうか。 『あの、すみません。その、翠さん今寝ちゃってるんですよね。俺から連絡があったって伝えてもらえますか』 「それは……」  いいがと、言い淀んで桂は考えた。  翠はあの容姿だからこの界隈ではかなりモテる。  色々あったから今はそうそう誘いを受けるようなこともないようだが、万が一にも翠に悪い虫がつくようなことは避けたかった。  顎の無精髭を撫でながら少し考えると、桂はおもむろに口を開いた。 「明日の夜、お前、空いてるか」 『明日、ですか。空いてますが』 「二十時に俺の店に来い」 『店に……』  通話口の向こうで、なにか探るような空気が漂ったが、何故と問うことなく、 『分かりました。伺います』  とだけ、返事が返ってきた。 「どうも」 「何にするよ」 「じゃあ、ウィスキーの水割りを」 ――二十時ちょうど。  宗助は、昨晩桂から教えられた住所を頼りに『慕恋路』へと来ていた。  殺伐とした路地に面した、けれどビンテージカラーを基調とした趣きのある落ち着いた店は思ったより気軽に足を踏み込めた。  悪くないな、などと店内を見まわしながら足を進めると、カウンターの奥から無精ひげの熊男が宗助を見るなり手招きしたのへ、軽く目礼だけして促されるままにカウンター席に腰を下ろし、今しがた、挨拶もそこそこにさっそく酒の注文を受けたところだ。  酒が届くまでの間、スツールを回して店内に目を配る。  短い黒髪を少し立してて精悍な顔立ちの品のあるダークスーツを着込んだ長身の宗助は、その場にいた客達の目を否応なく引き付けていた。  本人にその自覚があったかは知れない。  見ればテーブル席には既に何組かの男たちが寄り添いながら談笑を繰り広げている。  なんだか楽しそうだな、と呑気に感想を胸中で述べていると、目の端で銜えタバコから上がる紫煙に目を細めながら、水割をカウンターに置く桂を捕らえて正面に戻った。顎を突き出しながら、飲めよ、と言わんばかりに見下ろしてくるのへ、杯を軽く掲げて、 「いただきます」  遠慮なく出されたお酒を美味しく頂く宗助に、桂がおもむろに口を開いた。 「仕事は何をしてる」 「小さなシステム会社を一つ」 「と?」 「と……、カフェ経営を二店舗」  「ほう、カフェねぇ」 と、品定めするように宗助を上から下へと視線でなめる。 「それで? 翠とはいつからの知り合いだ」 「二週間くらい前に、俺がちょっと翠さんに迷惑かけちゃったのがきっかけで」 「迷惑?」 「はい、俺、その夜は大分酔ってて、翠さんが運転するタクシーの中で寝こけちゃったんですよね」  宗助は、翠に出会って本を借りるまでのいきさつをざっくりと桂に説明した。  桂は、納得したのかしてないのか、眉根を寄せながら腕を組む。 「あの翠がね……。お前、あいつがゲイだってことも知ってるわけなんだよな?」 「ええ、それは。翠さんから最初に聞かされましたから」  男前の少し垂れた眼差しが、その時のことを思い出したかのようにふっと和らぐ。 「きっと、俺があんまりにも馴れ馴れしかったんで、敬遠してのことだったんじゃないかなーとは思うんすけどね」  と、苦笑した。 「他には」 「え?」 「他には何知ってんだ」 「いえ、それだけです。あ、でも翠さんてツンケしてるようで、実のところ凄い優しいですよね。置手紙とか、携番とか朝飯とか。なんだかんだで面倒見いいっていうか。でも、知ってるのはそんくらいです」  あ、あとヘビースモーカーってことも、と付け加えた。  つまるところ、この男は翠の過去の経歴については何も知らないのだ。  宗助はウィスキーを口に含みながら、訝し気な桂の表情をチラっと伺い見ると、形の良い唇を軽く釣り上げた。 「俺って、もしかして検品されてるんすかね」  入ってきた時から随分と肝が据わっていたように見えたが、なかなかに勘もいいらしい。  桂は思わず苦笑する。 「俺も大概過保護なんでな。言っとくが、俺はあいつの親父なんかじゃねえよ」 「それは、そうなんだろうなとは思いましたよ。随分お若いんで」 「訳あってあいつの面倒はみているが、それだけだ」 「で、今日は俺、翠さんに会わせてもらえるんすかね」  本、返したいんですけど、と言えば、 「あいつならもういるよ」  と、店の奥を顎でクイっとさしてみせた。  ちょっと身を乗り出してカウンターの先を覗き込むと目を見開いた。  一番奥のボックス席で、一人読書にふける翠の姿が見える。  まともに座っていると、カウンターの死角になって見えなかったが。 「毎日ここで夕飯くっちゃ、ああして本を読んでる。お前が昨日電話してきた時は、あのままあそこで寝こけてたんだよ」 「そうだったんすね」 「本を読んでるとな、あいつは周りの一切が耳に入らなくなる。こうやって俺とお前が話してたって気がつきやしねえ」 「凄いっすね。そんだけ本が好きなんすね、翠さん」 「いや、あいつの場合好きっていうのとは少し違うな」  と、言うと? と聞いてくる宗助に、少し思案顔をして見せれば、 「まあ、こういっちゃなんだが、一種の精神安定剤ってとこか」 「精神安定剤?」 「ま、とにかく少しここで待ってろ。あいつには、今日お前さんが来るって言ってねんだ」 「え」 「そう驚くなよ。仕方ねえだろ、検品する必要があったんだからよ」  そう言って口端を上げると、「その一杯、俺のおごりだ」と言って仕事に戻って行った。

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