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第2話

「おっと、もうこんな時間か」  翠は、ふと腕時計に目を落として慌てて本を閉じた。  時刻はそろそろ二十一時になろうとしている。 金曜日と土曜日の込み合う日は、大概店を手伝うようにしていた。  見れば、花金とあって店内は既に満員御礼だ。  立ち飲みの客もちらほら見られる。  このボックス席を空ければ、二人はここに座れるだろう。  翠は席を立つと、ボックス席が空きましたよ、と立ち飲み客に声をかけてから急いでカウンターに入った。  ギャルソンエプロンを腰に巻いていると、厨房の奥から桂が顔を覗かせる。 「お、来たか。悪いな、そこのオーダー出しておいてくれ」 「わかった。あ、この間入ったホワイトキュラソー、どこ置いた?」 「そこのシンクの下だー」  厨房からの桂の声を背に、まずは手を洗う。  エプロンで手を拭きながらざっとカウンターを眺めると、不意に見知った顔が飛び込んできて、翠は思わず目を瞠った。  胸がトクンと大きく跳ねて、口から心臓が飛び出るかと思うほどに。  ここ最近の翠の胸内を悪戯に掻き乱してくれていた男の顔が、思いがけないタイミングでそこにあって動揺した。  あっ気にとられて固まってしまっていた自分にハッとなると、翠は慌ててカウンター越しに宗助の正面へと駆け寄る。 「何飲んでた?」  動揺を隠すために素っ気なく尋ねるが、成功したかは分からない。 「ウィスキーの水割り」  カウンターに肘をついて頬杖を突きながら、したり顔で翠を見上げてくる宗助を、できるだけ見ないようにして空いたグラスを取り上げる。  手早く同じ水割りを作って宗助の前に置くと、 「悪い、ちょっとこれ飲んで待ってて」  そう言い置いて、先ほど桂に頼まれたオーダーを出しに戻る。  柄にもなく頬が心なしか蒸気しているのを感じた。  もしかして、少し赤くなっているかもしれない。気づかれただろうか。  くそっ、なんで、あいつがここにいるんだよ。  なんでだ、なんで?!  あ、あれ? 俺、教えたっけ店のこと……。  脳内が少々パニックなのを悟られまいと、翠は懸命に平静を装った。  客達のオーダーに勤しむものの、早鐘を打つ胸がなかなか収まってくれない。  初見から二週間などと中途半端に空いたものだから、その間宗助のことを考えすぎて、なんだか待ち焦がれた瞬間のように錯覚してしまっている。 「すんませーん、注文いいっすかー」 「あ、はーい」  とにかく、今はやることをやらなければ。  呼ばれて注文をとっていると、背後でコソコソと話す客の声が耳にはいってきた。  どうやら、ここいらではあまり見慣れない宗助の話題のようだ。 「なあなあ、あの人、一人かな」 「え? ああ、カウンターのリーマン?」 「そうそう。すっげえカッコいくね? 超ぉ俺の好みなんだけど」 「確かに、ここ最近じゃ一番かもな。スーツもなんか高級そうだし」 「ヤバいって、あのちょっと垂れた目とか超ぉ可愛い」  などと楽しそうに色めき立っている客に、何故だか胸がざわざわした。  客の対応に追われながらも、翠は何度となくチラっと横目で宗助を確認する。  長い脚を組みながら、グラスを傾ける宗助は本当に格好いい。  宗助は、いつからここに居たのだろうか。 「でもさ、あんなイイ男なんだしさ、一人ってことなくね?」 「だよな。もしかして、誰かと待ち合わせなんじゃないの」 「まぁなー。入れ食いっぽいし、恋人の一人や二人いるよなぁ……」 その言葉にハッとした。  ――そうだ。  とっさにさっきは自分に会いに来たものとばかり思ってしまったが、もしかして早とちりだったのではないか?  他に用途があって……。  例えば誰かと待ち合わせとか。  ――誰と……? これ飲んで待ってて、などととんだ勘違いをしたかもしれない。  性急過ぎる己の言動に急に羞恥がこみあげて頬がカッと熱くなる。  同時に、言いようのない喪失感が胸の奥をかすめた。  翠はトレイをシンクの上に置くと、ため息を吐きながら軽く項垂れる。  そうだ、自分に会いに来るつもりなら事前に携帯電話に連絡がはいるはず。  そうでないなら、やっぱりこれは……。  トレイを掴む指に、無意識に力がこもる。  ぐるぐる回る頭の中で翠は舌打ちした。  認めたくないが、残念がっている自分をまざまざと感じずにはいられなかった。 そもそも、どうしてこんなに宗助を意識しているのだろう。  まだ一度しか会ったことがない男なのに。  勝手に他人の家の風呂を使っただけの、朝飯を一緒に食ってコーヒーを飲んだだけの、本を借りて帰っただけの男なのに。  友人でもまして恋人でもない、ほんの通りすがりのタクシーの客なだけなのに。  こんな自分を、意識してくれるような人間がそうそういるはずもないのに、勘違いもはなはだしい。  眉間に漂うもやもやを振り払うように、翠は頭を振った。  なんだか急に足取りが重くなる。  翠は宗助のことを直視できないまま、カウンター内で注文のカクテルを作り始めた。  いくつかのドリンクをテーブルの客に運んで、戻って来てまた酒を作ると、それをカウンターの客に手渡す。  手渡した時、図らずしも目の端に宗助の姿が写り込む。 「…………」  宗助の隣を陣取って馴れ馴れしく話しかけている若い男が目に入った。  やはりそうだったのか。  心なしか、胸の奥がキリと疼いた。  宗助はストレートだとばかり思っていたが、もしかして男もいけるのかもしれない。  栗色した髪の可愛い顔立ちの若い男が、しきりに上目遣いで宗助と何やら楽しそうに話している。  慕恋路によく来る常連客の一人だった。  まさか、ここの常連とは……。  男の手が宗助の肩や腕を撫で下しながら、じりじりと体を寄せていく。  見るまいと思うのに、どうしても二人のやりとりが視界の端に入ってしまう。  不意に、若い男の手が宗助の手に触れた瞬間、翠は洗っていたグラスを落としそうになった。 「あ……っぶねぇ」  ――しっかりしろ!  翠は自分を叱咤した。  関係ない。宗助が何をしてようと自分には関係ない。  邪念を振り払うように、翠は唇を噛みしめると、とにかく溜まっていた空きグラスを洗うことだけに専念した。  とその時だった。  翠の背後に人が立つ。  誰かなと振り返れば、片眉だけを吊り上げて翠を見下ろしてくる桂だ。 「あ、なに?」 「なにって、お前、あのままでいいのか」 「……は?」  桂が目線で指し示した先には若い男とお楽しみ中に見える宗助の姿がある。 「って、なにが……」  言っていることが分からず、呆け顔の翠に、 「お前の連れだよ。しつこく言い寄られているようだがこのまま放っておいていいのかって訊いてんだよ」 「連れっ……て――!  次の瞬間、翠の目が何かを悟ったように徐々に大きく見開かれていく。  ニヤり顔の桂を見上げながら、動揺を隠しきれず微かに唇が震える。 「どういう……こと」 「あいつ、お前に本を返したいんだと。昨晩、お前が眠っている間に電話があったぜ」 「え、はあ?!」  素っ頓狂な声をあげると、翠は綺麗な顔を歪ませて桂をきっと睨み付けた。 「あんた、勝手に出たなっ!?」 「つい出来心でな。悪く思うなよ」  その揶揄うような言い方に、翠は舌打ちする。 「くそっ、そう言うことは早く言えよっ」  めったにお目にかかれないような翠の慌てぶりを、密かに面白く思いながら、桂は「へいへい」と手を振った。  桂にエプロンを外して投げつければ、宗助の元へと急ぐ。 「宗助、ごめん。待たせて」  宗助くんの「くん」をあえて外して、駆け寄るなりそう声をかける。  さり気なく肩に手をあてた。  遠回しに俺のモノだと主張してみせるためにだ。  本当は違うけど、追い払うのにはこうすることが手っ取り早いと思った。  案の定、宗助に言い寄っていた若い男があからさまに険のある目で翠を睨みつけてくる。  邪魔しないでよ、と言いたげだ。 「悪いけど、俺の連れなんです、こいつ。そこどいてもらってもいい?」  なるべく自然に感情を抑えて、だがはっきりそう告げると、若い男は少し驚いて、すぐに媚びるような眼差しを宗助に向ける。 「この人が宗助さんの連れだなんて嘘だよね」 「いや、本当なんだな、これが」  と、詰め寄ってくる若い男に、宗助も翠に話を合わせながら降参のポーズをとって苦笑してみせた。 「うわ……マジ?」  途端体を後ろに引くと、若い男は甘えたな仕草から急に汚いものでも見るかのように顔を歪めると、 「なーんだ。……ガッカリ。こんな人が連れなんて、あんたもご愁傷さま」  そう吐き捨てて、翠を一瞥して離れて行った。  彼の言ったご愁傷さまと言うのは、おそらく今までにしてきた翠の淫行についてのことだろう。  こんなやりチンの薄汚れた元アル中男がお相手でご愁傷さまっていう意味なのだ。  あんたも見る目がなくて残念な人だね、と遠回しに宗助を蔑むものでもあったろう。  自分の撒いた種が恨めしい。  宗助にまで間接的に最低のレッテルを貼られたようで、翠は少し申し訳なく感じた。  だが、そう感じてもそれを表情に出すことはしない。  あくまでも何も聞かなかったように振る舞う。  翠は宗助の隣に腰掛けるとポケットからタバコを取り出して火をつけた。  一度大きく吸って長く吐き出す。 「ってかさ、俺に会いに来たんだったら最初にそう言えよ」 「すみません、なんか成り行きで」 「桂が勝手なことして迷惑かけたみたいで」  ごめんね。と灰皿に灰を弾きながら言えば、 「迷惑なんてかかってないですよ。桂さんいい人っすね。翠さんのことすげえ大切にしてるみたいで」  俺、なんか今日検品されたみたいです。  と、鷹揚に笑って見せるのへ、検品? と翠はわずかに眉をしかめる。 「でも、こうして翠さんに会わせてもらえたってことは、合格したのかな」  などとよく分からない話をされて、翠は少しだけ首を傾げた。 「お前、ゲイバーとかってよく来んの?」 「いや、今日が始めてです」 「抵抗とか無いわけ」 「無いっすね。多少免疫があるんで」 「免疫……?」  それはどう言う意味と眉をしかめれば、「そんなことより」と軽く流される。 「さっきの人が言ってたご愁傷さまってなんすかね」  と、グラスを傾けながら話題を変える宗助に、翠は悟られない程度に目を細めた。 「桂から何も聞いてない?」  素っ気なくそう訊けば、訳あって桂が翠の面倒を見ていることだけ聞いた、と答える。 「そっか」  と、タバコを灰皿に揉み消す。 「何かお酒頼まないんすか?」  と尋ねてくる宗助に翠は小さく首を横に振った。 「俺さ、酒飲まないんだよね。飲まないっていうか、飲んじゃダメっていうか」 「肝臓系っすか」  いや、そういった病気とかじゃないんだ、と答えれば、再びタバコに火をつけると、しばらくゆらゆらと立ち上る紫煙の行方を追う。  何かを払うように煙から目をそらして、タバコの火先で灰皿の中の灰をいじりながらおもむろに話し始めた。 「俺、一年前までアルコール依存症で病院通ったりしてたんだよね。だから、酒は飲めないし、飲まないし飲んじゃダメなの」  宗助が少し驚いた表情をする。  俯いて話をしていると、妙に深刻な感じになってしまうので翠は片肘をカウンターにのせると、宗助の方へと体を開いた。  宗助の顔を見ながら、極力、努めて淡々と言う。 「俺の実家って昔から続くいわゆる敬虔なクリスチャンってやつでさ、ゲイだってばれた時に勘当されて、籍を抜かれちゃって。知ってる? 除籍ってやつ。高校進学を控えた十五歳の時で。家を追い出されてからは鎌倉で祖母と暮らした。祖母は小さいころからよく可愛がってくれたから、除籍されても俺の面倒みてくれて」  ほら、お前も見ただろ? ロザリオ。と言えば、宗助が「ああ、アレ」と頷く。 「あのロザリオ、ばあばの……、祖母の形見なんだ。祖母はこんな俺を大学まで通わせてくれたよ。卒業してまもなく祖母が体を壊して、俺が社会人二年目の時に死んじゃった。もう五年になるかな」 「そうだったんすね」  グラスの中の氷をカラコロさせながら相槌をうつ。  翠は深くニコチンを肺に送って、少し咳払いすると先を続けた。 「で、もちろん葬儀にはださせてもらえなかったし、墓参りもするなって言われて、落ち込んでる時になしくずしで付き合った奴がDVする奴でさ。束縛はきついわ殴るわ蹴るわ。でも、しまいには謝って来て、仲直りの印にってセックスの後決まってタバコの焼き印してくんの」  と、そこで翠は軽く可笑しそうに片頬で笑う。 「あの時は俺もどっか狂ってたんだよな。可笑しいんだ。そんなことされても、コイツは自分を必要としてくれてるって思っちゃって、何されても独りぼっちより増しだって思っちゃっててさ。タバコの焼き印だって、コイツが俺を必要としてくれてる証なんだって。なのに、さっむい冬の日に捨てられるように振られて凄いショックだった」  翠は正面に向き直るとタバコを灰皿に押し付けた。  宗助の視線を感じながらも、正面の棚に並べられた酒瓶を眺めながら頬杖をつく。 「とうとう独りぼっちになっちゃったなぁって思ったら酒に手ぇ出してた。人肌恋しくて毎日昼夜関係なくこの界隈の男ほとんど食ったんじゃないかって言うくらいやりまくってさ。気づいたらアルコールにどっぷり浸かってて、見かねた桂が廃人同然の俺を引き取ってくれてた。っていうのも、その時の事あんまり覚えてないんだ。もちろん会社も首」  と、おどけるように嘲って指先で首元を切る仕草をしてみせる。  話すつもりも話す必要もなかったが、この界隈では翠は有名人だ。  人伝えにどこから耳に入るとも限らない。  尾ひれはひれのついた婉曲した噂話を聞かれるより、自分の口から言っていっそすがすがしい程に軽蔑されたほうがまだいい。  自業自得の一言につきるのだ。  若い男が言い捨てた「ご愁傷さま」を聞いて、翠はそんなことを考えた。  もともと、ただのタクシーの客なのだから、こんな話を聞いてもなんとも思わないかもしれないし、軽蔑されて離れていってもその程度の関係だ。  人に無視されるのも蔑まれるのも慣れた。 今更胸に小さな心傷が一つ増えたところで変わらない。  この男に、嫌われるのは嫌だな、などと少しだけ思ったりもしたが、うだうだ思い悩むようならとっととケリをつけるに限る。  ここで宗助と縁が切れても仕方がないことだと諦めた。 「HIV検査なんて、受けさせられたの初めてだよ。引くよな」  軽い調子で言ってみせる翠に、それまで黙って聞いていた宗助がおもむろに口を開く。 「結果は」 「なに?」 「検査の結果、どうだったんすか」  さっきまでと少し違ったどこか強い口調に、翠は内心たじろいだ。 「陰性、だった」 「そうっすか。タバコ、一本もらえます?」 「は、タバコ? ……お前吸うの」 「たまにっすけどね」  そう言うと灰皿の横に置かれたタバコの箱をひょいと取り上げれば、慣れた手つきで一本を取り出す。  正面を向いたままフィルターを噛むようにして銜えると火をつけた。 「先、まだあります?」 「先? 先って……」 「話の先」  タバコを銜えながら横目で見下ろしてくる宗助に、翠は怪訝そうな顔を向けた。 「いや、別にいいよ。無理して聞くような話でもないし」 「いいから、続き話てよ。別に無理してないし」 「いいよ」  と、翠も険のある口調で自分もタバコに火をつけた。 それに少し焦ったような宗助は、改まって神妙な言い方をする。 「気になるんで。……すみません、話してください」  翠は、宗助が怒っているのではないかと思いながらも、言い出した手前、「話してください」と言われたら続けるしかないだろうと、わずかに緊張する指でタバコを口に運んだ。  「依存症の治療中も飲酒を繰り返したりして、ある日いよいよ血ぃ吐いてさ、否応なく入院。それからは、桂の助けもあって、治療もリハビリも順調だった。で、回復したのが去年の夏。タクシーのアルバイトは、社会復帰に向けての予行練習ってとこかな。一人暮らしもその一環。元々あのマンションは桂の所有物で、安価で借りてるんだ。その内、きちんと仕事見つけたら出て行こうって思ってる」  話も終盤に差し掛かって、翠はどこか少し落ち着きなくタバコの箱を指で叩く。 「まあ、今となってはいい教訓だよ。そんなもんだから、俺なんかがお前の連れだって聞いて、こんな薄汚いやりチンの元アル中野郎がお相手でご愁傷さまってわけ。お前みたいな奴には俺なんて釣り合わないんだよ」  前置き長くなっちゃったけど分かった? と恐る恐る、だが、それをけどられまいとさり気なく横見する。  難しそうに眉間に皺を寄せて天井を睨んでいた宗助は、フゥーっと紫煙を吐くとタバコを灰皿に捻じ捨ててそのまま視線をカウンターに落とした。  片肘をつきながら考えこむように大きな手で口許を覆う。  視線を合わせてくれない。  翠はふっと息を吐くと、想定内だと自分に言い聞かせてタバコの吸いさしを消すとスツールから降りた。 「あ」  と、慌てたように顔を向ける宗助に、 「ま、そう言うわけだから。本、返したらもう帰れよ」  と素っ気なく言えば、宗助は虚をつかれたように目を見開いた。 「え、翠さんもう帰るんすか?」 「は?」 「いや、せっかくだからもう少しって思って」  思いもよらない返答に、翠はおののいた。 「寝ぼけてんなよ。いいからさっさと本返せ。それが本筋だろ」 「そうですけど、本は忘れました」 「……忘れた?」 「忘れたっていうか、持ってきませんでした今日は」 「はあ? ……なんで」 「次の本を借りに行くついでに、持っていこうと思ってたんで」  と、笑う宗助の目は、話を聞く前と変わらず優しかった。  翠は一瞬胸の奥が苦しくなって、その笑顔になんだか急に切なくなった。  怒ってたんじゃないのかよ、と言いかけてやめる。  もしかして、こういう男だから同情でもしたのだろうかと、ふと諦観めいたものが胸をよぎる。  期待させるような笑顔は罪だ。  きゅっと唇を噛みしめると、 「じゃあいいよ。やるよ本。返さなくていい」 「ちゃんと返すって約束したじゃないですか」 「どっちにしても、俺もう行かなきゃ。店混んできたし戻んないと」  だから、じゃあ……。  と早口に言ってその場から逃げるように踵を返せば、やにわに後ろ手に手首を掴まれた。  ぎょっとして振り返る。 「待ってよ、翠さん。じゃあ、明日は?」 「……え?」 「明日って土曜日だけど、仕事休み?」  揚々に誘ってくる宗助に理解が及ばず、翠は口をぱくぱくさせてしまった。 「休み、だけど……」  と、とっさに取り繕えず、馬鹿正直に告げてしまう。 「よかった。ならさ、十三時に、翠さん家に行きますんで。また、本貸してくださいよ」  と、宗助の男らしい顔がこれ見よがしに華やいだ。 「この銃で、とにかく打てばいいわけか?」 「そうっす。こう両手で握って画面に向けて構えて」 「こうか……」  そうそう、と、背後から銃を持つ手に両手を添えてくる宗助は、翠の後頭部から正面のゲーム画面を覗いてあーだこーだと指導してくる。  距離が近すぎて、宗助の息が首筋にかかるのが、どうにも落ち着かなかった。 「今からゾンビがわんさか出てくるんで、とにかく片っ端からやっつけちゃってください。弾が切れたら、こう銃先を下にして一回引き金を引けば装填されますから」  できそうっすか、と顔のすぐ横から覗き込まれて、頬が蒸気しそうなので、早く離れてくれないだろうかと思いながら何度もコクンコクンと頷く。  日曜日の午後、翠は宗助に誘われて新宿の大型ゲームセンターへと来ていた。  ゲームセンターなんてものにまともに足を踏み入れたことのなかった翠は、どこもかしこも物珍しくて、騒がしい店内と煌びやかなネオンのゲーム機に終始たじたじだ。 「これって、初心者でもできるもの?」  少々心配そうな顔を見せる翠に、 「やってみれば分かりますよ」  と、翠の肩を叩く。  ゲームセンターに入って、かれこれ一時間が経過していた。  ほとんどゲームなんてものをしたことのなかった翠のために、最初はすごく単純なメダルゲームや、可愛い犬のぬいぐるみのクレーンゲーム、それとゴーカードなんてものをした。  恐る恐るゲーム機と向き合う翠を手取り足取りアシストしてくれる宗助の甲斐甲斐しさが、なんだかくすぐったくて、落ち着かないながらも、翠は新しい体験にのめり込んだ。  ゲイであることも、翠の過去を知った後でも変わらぬ態度で接してくれる宗助とだからこそ、手放しで楽しむことができるのかもしれない。  気の置けない相手といのは、こういうことを言うのだろうか。  初めてのゴーカードは4レースしたものの、ゲーム慣れしている宗助には全く歯が立たず、翠は四戦四敗に終わった。負けが悔しくてもう一回もう一回と粘った末の全敗だ。 「なんでだ? 要領は掴んだのに全然勝てないじゃんよ」  機械が悪いのか、などと思案顔の翠を見て、可笑しそうに笑った。 「翠さんて、勉強熱心というか、案外負けず嫌いなんすね。なんか子供みたいでいじり倒したくなしますよ、とことん」  その言葉に、宗助を不服気に横目で見やるも、存外自分は負けず嫌いなんだなと翠も思った。  楽しい。宗助とやるゲームは本当に楽しい。  同時に面白い男だなと思う。  自然と頬が緩んだ  なんだか、心が浮き足立つようだ。  次に、今度はちょっとレベルアップしてみようという宗助に連れられて、今しがたシューテンゲームコーナーへと来たところだった。  大きい画面の前に立ち、言われた通り銃を構える。 「じゃあ、手、放しますね。お金入れたらスタートだから」 「分かった。入れろよ」  宗助は翠の体から離れるとゲーム機にお金を投入して、 「いきますよ」  翠は得もいえぬ緊張感に包まれて唇を舐めた。  銃を握る指に力がこもる。  何度も銃を握りなおして、落ち着かない仕草で少し顎を引く。  気どられまいとするけれど、緊張は翠を無口にさせた。  それを合図だととって、宗助がスタートボタンを押す。  画面の中の映像はしばらく全体的にセピア色の廃墟と化した街中を進んでいく。  アメリカのバイオレンスムービーによく出てきそうな感じだ。  突然、ビービービービーッ、とけたたましいビーコンと共に『敵を撃退せよ』と画面に表示された。 「なんだ……」  と思わず銃を下しかけたその時だった。 「――わわっ! なっなんだよコレっ」  壊れた車の陰やドラム缶の陰から獣のような咆哮を上げながらそら恐ろしい形相のゾンビ達が次々と迫りくる。  翠は無我夢中で画面に向かって引き金を引く。 「なっ! ――そっ宗助、当たらないっ」 「サイレンサーをちゃんとゾンビに合わせて」 「うわっ! ななんかぶつかった! ヤバい、なっ何なにっ?! 俺やられてる――?」 「翠さん落ち着いてっ。打って打って!」 「無理無理っ! 数、多すぎっ。無理だって!」  大慌てで大パニックの翠は、画面の中の大量のゾンビを今にも逃げ出しそうな必死の形相で指示された通り乱射しまくった。  それを見て可笑しそうに笑いながら宗助が、 「あっ、弾切れっす。翠さん下向けて下っ」  と、指示するも冷静にその声を聞くことができない。 「えっ?! なっなに、下!? ……あ、下かっ! って、あ、あっ、ああ! ヤバヤバ!! 宗助なんかやられてるー!」  次の瞬間 “ YOU DIE “ と画面に赤文字が表示されると、ゲームの中のキャラクターが項垂れる映像が映し出された。 「……怖ぇーよ」  ポツンと呟いた翠は意気消沈したように茫然とする。 「翠さんマジで初めてなんすね」  反応とか可愛すぎでしょ、とケタケタと笑う。  らしくない大きな声を出してしまった自分が恥ずかしくて、それを隠すようにムッとした顔で宗助を睨んだ。 「だいたいなんでゲーセンなんだよ」 「たまにはいいでしょ? 学生に戻ったみたいで。いつも会うのは翠さん家か慕恋路だったし、飯食って酒飲んでってだけじゃなくて、どっか出掛けるのもいいかなって思ったんすよ」  「嫌でした?」と、片眉だけ上げてにっと笑うその表情に、相変わらず格好良い顔してんななどと思いながら視線を外すと、「別に」と答えた。  宗助が慕恋路に初めて来た夜から三週間が経っていた。  カレンダーも替り、九月に入った。暦の上では秋になるが、まだまだ残暑は厳しい。  連日の猛暑に唸る毎日だ。  慕恋路で再会した翌日の土曜日に、宗助は宣告通りに翠の家に来て再び本を借りて帰った。  それからと言うもの、家が近いということもあってか、随分と熱心に本を読んでいるらしく、週に二度は本を借りに翠の家を訪れる。  何度か慕恋路で待ち合わせをして夕飯を一緒に食べてから帰ることもあった。  その間、翠は宗助のことを色々と知った。  友人と立ち上げたシステム会社を共同経営していて、WEBサイトの構築やシステムに関するコンサルティングなどを生業としているらしく、その傍らで銀座と新宿に二店舗の飲食店を経営しているというから驚く。  どこのどんなカフェとは詳しく聞かなかったが、来年にはもう一店舗出店を考えているというから更に驚いた。  見た目も良い上に仕事もできて性格もいい。  天は時に二物も三物も与えるものなのか。  別にそうなりたいとは思ったことはないが、二十八歳だというのに、年上の自分よりもしっかりしている宗助を翠は素直に凄いなと思った。  宗助の家族についても少しだけ聞いた。  父親は八年前に病気で他界していることや、四人兄弟の末っ子で一番上に姉と兄二人がいるということなど。  臆することのない人懐っこい性格は、大家族で愛されて育ってきた証だろう。  一見クールな印象とは少し違う砕けた喋り方をするところもまた、親しみやすい要因なのだと思う。  最初の出会い頭が風呂上がりの半裸だったため、いわゆる変わった人、なのかと少々覚悟していたが、こうして何度か会って話してみると、さり気ない気遣いができ、屈託なく笑う大人の男だというのが分かった。  二度程、慕恋路で夕食を共にして、自分に構わず呑んでくれとすすめれば、宗介は二つ返事で遠慮なく嬉しそうにビールを頬張る。そんな気楽さがまた良かった。  何度か会うにつれ、翠はそのひととなりに徐々に打ち解けていった。  人付き合いが苦手で、気づけば人と距離を置くようになっていたのに、まさかタクシーで寝こけた酔っ払いとこんな風に親しくなるなんて思ってもいなかった。  宗助とする他愛もない会話は正直楽しい。  本の感想を言い合ったり、テレビの話をしたり、天気の話をしたり。時間が穏やかに過ぎていく。  今までは本を借りるだけの、たまに夕食を共にするくらいの短い時間でしかなかったが、ある時、宗助が今度新宿辺りで遊びませんか? 朝から一日かけて、などと言ってきたものだから正直驚いた。  唐突な誘いにも勿論そうだが、こんな自分が誰かと一緒に遊びに出かけるなんてことが起こり得るのかということに一番驚いた。  これは、まるで友達のようではないか、と。  嬉しいような、面映いような、少し不安のような、なんとも言えない気持ちにかられた。  宗助は、こんな自分と一緒にいて楽しいのだろうか。  そんなことを考えながら、誘われてから今日まで、そわそわして落ち着かない日々を過ごしていた。  当日、どこか行きたいところはあるかと聞かれて、別にないと答えると、じゃあゲームセンターに行きませんかと言われて、翠は一瞬困惑顔を浮かべた。  正直行ったことがないので分からないと答えると、宗助はしばらく目を見開いて天然記念物でも見るかのように翠を見やった。 「……マジっすか」と。「マジです」と答えれば、じゃあ、俺とゲームセンターデビューしちゃいましょうか、と揚々と連れてこられたのがここだ。  十五歳の時に家を勘当されて以来、ずっと人目を避けるようにして過ごしてきたせいで、学校と祖母の家をひたすら往復するだけの生活を送ってきた。  それは大学に入っても変わらず、祖母に面倒をかけて大学に通わせてもらっていたこともあって、ゼミの飲み会などを除いては、ほぼ毎日授業が終わると祖母の家にまっすぐ帰っていた。  週三回、近所のスーパーの精肉鮮魚店で加工やパック詰めなどのバイトをした。  あえて知り合いなどに会わないように、バックヤードでやれるバイトを選んだ。  人から言わせればつまらない青春時代を過ごしてきたと言われるかもしれないが、当時の翠にとって祖母との時間だけが心の拠り所だった。  宗助は、ゾンビの迫力に少々疲労ぎみの翠を見下ろしながら、「一服しますか?」と気遣ってくる。 「いや、いい。もう一回やってから」 「じゃあ、次は俺も一緒にやりますよ。ちゃんとアシストしますから、慌てずゆっくり確実に、打ち殺してくださいね」  と、先ほどの射撃を揶揄やゆるような言い方に、 「おう」  と、事実なので素直に従った。  隣で銃を構える宗助は様になる。  腕まくりしたシャツから覗く筋張った腕が、銃を握ることでさらに隆起してみえて、翠はその男らしい腕に胸がざわついた。  元々宗助はハンサムで身長が高く、言ってしまえば翠のタイプど真ん中なのだ。  意識しないよう心がけるも、気づけばそんな宗助を目で追ってしまっている。  長袖の解禁シャツを腕まくりしてスリムなデニムにブーツという井出立ちは、普段のスーツ姿と違ってまた新鮮だった。  翠はそっと宗助から視線を戻すと、ゾンビの出現に備えた。  結局ゲームセンターに三時間居座って、さすがに疲れたとカフェでお茶をしているところへ、宗助に緊急の仕事の電話が入ってその日はお開きになった。  サーバーがダウンしたとかなんとかで、会社に行かなければならないらしい。  もう少し一緒に居られるものとばかり思っていた翠は、少し気落ちした。  そんな翠に、来週の日曜日も遊びませんかと誘ってきたので翠は一瞬驚いたが、考えるより先にイエスと答えていた。  土日はタクシーのアルバイトはお休みなので、翠は早起きすると洗濯に掃除にといそしんで、日用品を買いに出かけた後は、夜からの慕恋路の前に少しウィンドウショッピングでもして行くかと早目に家を出た。  明日は宗助との約束の日曜日。  前回は宗助の仕事の都合で早々にお開きになったが、明日はもう少し一緒にいられるだろうか。  明日はどこへ行くのだろう。  私服姿の宗助を思い出して、僅かに口許が緩む。  つい一昨日も本を貸すために会ったばかりだというのに、既にこんなにも明日が待ち遠しいなんて、我ながら呆れる。  暑い日差しを避けるために、日陰を探して歩いていると、不意にポケットの中の携帯電話が鳴る。 「――――」  携帯のディスプレイに表示された覚えのない番号に眉を寄せた。 「誰だ……」  勧誘かな? 間違い電話かな?  いずれにしても知らない番号にでるつもりは無かったので、無視を決め込んでポケットに戻す。  諦めたのか携帯が鳴りやんだ。  いい迷惑だ。  などと心中で悪態をつくと、再び携帯が鳴りだす。  先ほどと同じ番号を確認して、しつこいなと思いながらポケットに突っ込む。  そして、携帯が鳴りやむと、数秒とおかず再び鳴りだした。  なんだ……。  翠はしばらく画面を見つめたまま考える。  もしかしたら誰かが緊急の用立てがあって、やもえず電話をかけてきている可能性もあった。  留守番電話を設定していなかった翠は、早々に導入しておくべきだったと後悔した。  少々気になったので、仕方なく通話ボタンを押す。 「…………」  警戒して無言で対応すると、通話口の向こうで相手が口火を切った。 『香坂翠の携帯で間違いないだろうか』  低くて気難しそうな喋り方の男の声に、聞き覚えがあった。  思わず足を止めて、通話口の相手の声に遠い記憶を手繰ると、ある一人の人物に辿り着く。  忌々しい記憶に、翠の顔が一瞬にして曇った。 「……兄さん」 それは十歳年の離れた兄、真澄からの電話だった。 『久しぶりだな』 「なんで、この番号を」 『こんなもの、調べればどうとでもなる』  相も変わらず、傲慢で冷たい声音だ。  翠はキッと地面を睨んだ。 「何の用ですか」  動揺を悟られまいと、なるべく素っ気なく対応する。 『お前、家に戻ってくる気はないか』  何を唐突に、と翠は目を瞠った。 『調べさせてもらったぞ。タクシーの運転手なんてものをやっているそうじゃないか』 「…………」 『家に戻って来たら、うちの仕事を手伝わせてやってもいいと、父さんも言っている。どうだ、戻ってくる気はないか』 「父さんが……?」  あの父さんが――?  十四年前、翠が誤解だと訴えるのも聞かず、我が息子が神父を誑(たぶら)かしたと怒りに狂って十五歳の翠を意識が飛ぶまで容赦なく殴りつけたあの父が今更何をと、翠は奥歯をジリと噛んだ。  除籍までして家を追い出した上に、祖母の葬儀に参列することも墓参りすることすら許してくれなかった父が、よもや家に戻って来いとは死んでも言うまい。 「冗談でしょ」 『そう思うのももっともだが、誤解が解けた今、我々もそれなりに反省はしている』  反省の色など欠片もない傲慢な言い回しに頭にきたが、誤解が解けたと言うのが気になる。 「誤解?」 『そうだ、誤解だ。もう数年前のことだが、被害を受けた子供の両親から訴えられて、神父が小児性愛症者だということが教会の調査委員会によって発覚した。あの男は逮捕されたよ』 「逮捕、された……?」  十四年前、自分の性の対象が男性だと気づいた翠は、クリスチャンであることでとても苦しんでいた。  悩んだ末、親に相談することもできず、誰もいない時間を見計らって教会に行った翠は、懺悔室で神父に思い切って悩みを告白したのだ。  自分は神が言う自然法から逸脱した人間なのだろうかと。  救いを求めて必死の思いで打ち明けたのに、白い肌の綺麗な少年だった当時の翠は、小児性愛症者の神父の目にとまってしまったのだ。  しかもゲイかもしれないと打ち明けられて、鴨がネギをしょってきたとでも思ったに違いない。  倉庫に無理やり押し込められて力尽くで下着をはぎ取られた。  卑しく嗤う神父に、恐怖で体が震えて動けずにいた翠は凌辱されかけた。  壁に押し付けられて身動きの取れない翠の体を無骨な指と唇で貪った。  後ろの谷間に手が伸ばされて、神父の滾ったものをあてがわれる寸前で、翠を探しにきた両親に見つかったのだ。  その時の状況が彼らの目にどう捉えられたのかは理解できないが、母親は泣き崩れながら悲鳴を上げた。  目に怒りを宿した父親は、神父から翠を乱暴に剥がすと、容赦なく翠の顔を殴りつけたのだ。  なんで、どうして、と。驚愕のあまり声も出なかった。  自分は被害者であって両親が来てこんなにも安堵したのにと。  殴られながら訳も分からず、幼かった心はショックで張り裂けそうだった。  自分は被害者であって、殴られる覚えはないはずなのに。  必死に訴えても翠の声は両親の耳に届かなかった。  聖職者である神父が子供を襲うはずがないのだと、彼らは信じて疑わなかったからだ。  翠が神父を誑かしたものだと、はなからそう思い込んだに違いない。  十五歳の少年が父親と同じくらいの、まして神父を誑かすなんてことの方が、よっぽどないように思うのに。  狂っていると思った。  ――助けてよ、守ってよ!  殴られて意識が遠のいていく中で、祈るように何度も心の中で叫んだのを今でも覚えている。  神なんてこの世にはいないのだと悟った瞬間だった。  事件から一週間後に勘当され問答無用に除籍までされた。  中学卒業を翌月に控えた寒い二月だった。  追われるように家を出た翠を、祖父が死んでから家族とは疎遠になっていた祖母が引き取ってくれた。  思えば、物心ついた時から両親から優しくされたような記憶があまりない。  特に母親からは、どこかいつも汚いものでも見るかのような目で見られていたような気がする。  十歳離れた真澄への溺愛ぶりに比べたら、翠に対する態度は雲泥の差だった。  真澄とも遊んだ記憶などほとんどなかったし、構われた記憶もあまりない。  両親は仕事で海外を飛び回って留守がちだったのに加え、真澄もアメリカに高校留学をしていたこともあり、日ごろから一人だった翠を祖母は何かと面倒をみて構ってくれていた。  事件については教会関係者や近所の人たちにあっという間に広まり、噂は尾ひれはヒレをつけて翠を苦しめた。  中高一貫教育だったこともあり、友人たちは翠から距離を置き、高校卒業までの間、翠は孤独な学生生活を余儀なくされた。  誰かと遊んだり寄り道したりすることなく、ただひっそりと目立たないように学校と家とだけを往復する毎日を送っていたのにはそんな理由があった。  親に絶縁されて、孤独な高校生活を送っても、翠が大学まで出られたのは言うまでもなく祖母のおかげだ。  祖母と翠をつまはじきにしておいて、今更誤解が解けたから戻ってこいなどと、そんな身勝手で都合のいい話があってなるものか。  腸が煮えくりかえりそうになりながら、翠はできるかぎり冷静に務めた。 「だとしても、俺がゲイであることは事実ですから」  今でこそ、クリスチャンであっても同性愛をよしとする教会は増えてきたが、同性愛行為、つまり肛門性交は、やはり今でも逸脱的な性行為であり罪深いとされている。 『その辺りは教会の在り方も少しずつ変わってきている。私から父さんに口添えしてもいい』  事務的な物言いに翠を思いやる要素はまったく感じられない。 何を馬鹿なことを、と小さく舌打ちをする。  歓待しているわけでもないのに、どうして今更戻って来いなどと言えるのだろうか。  どこか腑に落ちない物を感じながら、翠は少し強めの口調で告げる。 「とにかく、俺は戻るつもりはありませんので、父さんにもそう伝えてください」 『お祖母さんの墓参りをしたくはないのか』 「…………」  翠は唇をくっと噛んだ。  それは、したいに決まっている。  誰よりも長い時間を一緒に過ごして、誰よりも多く病院へ祖母を見舞ったのに、死に目に会えず、お別れもさせてもらえなかったのだ。  翠の最大の心残りだった。  本当に死んだのかさえも、しばらく信じられずにいた。  あの時、祖母の好きだった花を持ってお墓を見舞うことができていたなら、少しは孤独を癒せたかもしれない。  会いたい。祖母に会いたい。  ……それでも。 「俺は戻る気ないですから」 『今すぐ結論を出せとは言わない。まあいい。少し時間をやろう。考えておけ』  また電話する。と一方的に言い置いて電話が切れた。  携帯電話を顔の横で握りしめて、翠は言いようのない気持ちに陥った。  行き場のないイライラが翠の胸を真っ黒く覆うようだ。  ウィンドウショッピングをする気も失せて、そのまま慕恋路に向かうことにした。  「早いじゃないか」と、開店前の準備をする桂に、「暇だったから」と答えた。  とは言え、気持ちは落ち込んだままなかなか浮上してくれない。  自然と目が虚ろになる。 「……翠」 「ん?」  カウンター席に腰掛けてボーッとしていると、正面に気遣わし気な表情を浮かべた桂が立っている。 「なんかあったか」 「いや、別に」  一つ大きく息をついて、翠はタバコに火をつけた。  真澄からの電話については、しばらく黙っておこう。  心配させたくないというのもあったが、正直言えば口に出して話題にしたくないというのが本音だった。  どこか上の空で煙を燻らせる。 「宗助のことか」 「違うよ」  違うよ、なんて言い方をしたら暗にそれ以外のことで何かあったと言っているようなものだ。  目をそらす翠に、桂は眉根を寄せながら腕を組んだ。 「お前、変な奴らに絡まれたりしてないだろうな」 「変な奴?」  タバコを持つ手で頬杖をつきながら桂を見上げる。  無精ひげの熊男が、どこか不穏な眼差しを浮かべていた。 「なに、変な奴って」 「いやな、近頃レイプまがいな動画が出回ってるって物騒な噂を聞いてな」 「ゲイビ?」 「違法のな。どうも、本物って噂らしぃぞ」  集団で無理やり若い男を輪姦する商業目的のゲイビデオはあるが、ほとんどが同意の上のパフォーマンスだ。  それが、どうも本物のレイプビデオだと桂は言う。 「被害届とか、出てんの?」 「いや、金でも握らせてるのか弱みでも握られてるのか、うまいこと泣き寝入りさせられてんだろう」 「じゃなんで違法だって分かんの」 「酔っぱらった奴が、どうもそんな仄めかすようなことを言っていたらしいぞ。良い値がつくだのなんだのってな」 「ふーん」 「で、どうなんだよ」 「ないない、無いよ。だいたい俺もう来年三十だよ。どうせ狙うならもっと若いの狙うでしょ」  と、鼻で笑って苦笑する。 「まあ、とにかく気を付けるに越したこたぁねぇからな。用心しておけよ」  はいはい、と言って翠は席を立った。 「ちょっとボックス席で本読んでてもいい?」 「おう。コーヒー持ってってやるよ」  その日の慕恋路はてっぺんを過ぎるとちらほら客も引き始め、一時頃にはピークも落ち着いたものだから、翠は早目に岐路へついた。  バーで接客している時は紛れていた気分も、一人になるとまたどっと重くなる。  昼間の真澄からの電話が、翠の気持ちを思いのほか不安定にさせていた。  明日は宗助と会う日だから、この気持ちは引きずらずに行きたい。  家に帰って風呂に入り、タバコを吸ってから本を片手にベッドへ入った。  本を読みながら、ふとすると昔のことを思い出してしまう。  神父に襲われた日も、父に殴られた日も、家を追い出された日も寒かったなと。  あの寒さの中、実家のある横浜からどうやって祖母の家に辿り着いたのか覚えていない。  ただ、祖母の古民家と言われる鎌倉の家は温かかった。  黙って招いてくれたコタツの中も、淹れてくれたほうじ茶も身に染みるほど温かかった。  泣きながらお茶を啜る翠の横で、黙って背中を擦ってくれていた祖母の皺だらけの手も、ほっとするほど温かかった。  あの温かさが、心底恋しい――。 「ばあばに……会いたい」  今日はなんだか眠れないよ。と誰もいない部屋で一人呟いて寂しさを感じた。  翠は本を諦めて、リビングの引き出しから祖母の形見のロザリオを手に取ると、胸に抱くように両手で包んで再び横になった。 「ばあば、明日は宗助に会うんだ。それまで、少し寝られますように」  祈るように目を閉じる。  それから翠がようやく寝付けたのは、外が少し明るくなってきてからだった。

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