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第3話

「格好良いな、お前」  パックのオレンジジュースをズルズルゥと飲み干せば、グシャと握りつぶす。 「そうすか? でも今ポケット外しちゃいましたけどね」 「モテるだろ」 「モテないっすよ」 「お前ってさ彼女いんの? 今更だけど」 「今はいないすね」  翠さんは? と、振り返りざまにキュウを翠に手渡してくる。 「彼女?」 「いや、彼氏。いるの、いないの?」 「いてたら、お前と今頃ビリヤードなんてやってないよ」  翠はキュウを受け取って、ゴミ箱に潰したパックを投げ捨てると、先ほど宗助が弾いた白ボールの前へと移動する。 「ってかさ、これって、どうやんの」  微妙な位置に止まった白ボールを見やりながら、奥二重の少し吊り上がった目尻を面倒臭そうにしかめてみせる。  日曜日の昼下がり、翠は宗助に連れられて下北沢にある古びた小さなビリヤード場にと来ていた。  休日とあって、そんなビリヤード場もそこそこ賑わいをみせている。  街柄なのだろうか、学生らしき客が多いようだった。  バーなどが併設された気取った感じのビリヤード場じゃないところが、初心者の翠でも気負わずに楽しめた。  入場して小一時間ほどは、キュウ(ボールを打つ棒)の持ち方や構え方、ボールの打ち方やその練習、ナインボールのルールなどを順追って教わった。  二番目の兄とよくビリヤードをやったという宗助は、教え方もボールの並べ方も手際よく、実際にボールを打てばなかなかに高い確率でボールをポケットへ沈める。  ひとしきり翠が要領を得ると、あとはゲームをやりながら覚えていくのがいいだろうと、小さい番号の的球から打って先に9番ボールをポケットインさせた方が勝利というナインボールをすることになった。  ブレイクショットを宗助が打って、拡散されたボールを順々に四隅のポケットへ打ち落としていく。  白ボールをインさせてしまったり、的球をインできなければ次のプレーヤーへと交代する。  宗助がさじ加減しながら翠にも順番をきちんと回してくれるので、飽きることなく適度に交代交代にボールを打つことができた。  ほとんどのボールを宗助がポケットインさせてはいるが、翠も初心者にしては二球ほどインさせているので、なかなかに健闘しているといえた。  ゲームも終盤に差し掛かり、ボールが残すところ8番と9番になったところで、先ほど本気で9番を落としにかかった宗助が打ち損じたところだ。  長方形のビリヤード台の短辺側の木枠に接合した状態で8番と9番が仲良く横並んでいる状態だ。  白ボールと言えば、8番ボールの僅か手前で静止していた。  白ボールを打って8番ボールに当てたいが、この状態だと、反対側の短辺側から台上に身を乗り出して目いっぱい腕を伸ばさないと白ボールに届かない。 「足は地面に着いてなきゃダメなんだっけ?」 「片方着いてれば問題ないから、そのまま重心を左足に掛けて、台の上に乗り出しちゃってください」 「それでもさ、この状況って何をどこに狙えばいいわけ?」  キュウの棒先で角度をあーでもないこーでもないと模索する翠に、 「俺だったら、8番ボールの左端を狙って隣の9番ボールを弾くかな」  で、そのさらに横のポケットに9番をインさせる、と右奥コーナーのポケットを指刺した。 「…………」  目を細めて翠は脳内をぐるぐるさせた。 「それって、入ったら凄くね?」 「ですね」  俄然闘志に火がついた翠は、「よし」と、先ほどレクチャーされた通り、左足だけ地面につけたまま上半身を台の上に思いっきり乗りあげる。  キュウの先を支える左手をなんとか白ボールへと標準を合わせた。  バランスがうまく取れずに棒先が震えてしまう。  もう少し、と左腕をのばしかけたその時、宗助が上半身を伸ばしたことで捲れ上がった翠のシャツの裾をさっと引っ張ったのだ。  翠ははっとして、思わずバッとシャツの裾を抑えると宗助を慌てて振り返った。 「あ、悪ぃ……見えたか」 「なんで謝るの」 「だって、見えたよな。その……火傷の跡」  翠は反射的に視線を反らした。  DVの元カレに付けられた無数のタバコの引き攣ったような火傷の跡は、今でも翠の腹部や腰、太ももなどに残ったままだ。  アルコール依存症から立ち直ってからというもの、肌のあちらこちらに残る焼き印の跡が人の目に触れることを翠は酷く恥じた。  醜くて、汚い――。  自分の今までの惨めな人生を象徴しているかのようで、この火傷の跡が大嫌いだった。  病院など仕方のない場合もあるが、それらを除いては銭湯もプールも絶対に行かない。 「あのさ、ボール打とうとすると、気持ち悪いもん晒すことになりそうなんで」  ちょっとあっち向いててよ、と口端で嘲うと、不意に宗助の顔が曇った。 「見えたけど、そういう意味で裾を下げたんじゃないんで」 と、少し眇めた目で翠を見下ろす。  一つ大きく息を吐くと、 「翠さん、気づいてない? あんた、色白くて綺麗だからさっきから結構見られてるってこと」 「はあ? 何それ。それじゃ、ここにいる野郎みんなモーホーってことになっちゃうよ」 「なりませんよ。モーホーじゃなくてもみんな綺麗なモノは気になるもんなんです」  まったく、と言いたげな顔をしながら翠の背後に回ると、 「な、え……宗助?」  慌てる翠をよそに、宗助は背後から翠のキュウを握る手に自分の手を重ねると、厚い胸板で翠の背中を押し倒しながら更に左手をキュウの先に通した。 「あ、の……」  宗助の下にすっぽり収まる形になった翠は身じろいだ。 「なに、なにやってんのお前」 「んー? こうすれば、シャツ捲れても、周りから見られないでしょ?」 「ってか余計目立つだろっ。どけって、ちっ近いよお前」 「しぃー」 「…………」  耳に息が掛かるほどの距離で宗助が翠を窘める。  その近さに心臓がトクリと鳴った。 「この際、俺もアシストするんで、9番沈めちゃいましょうよ」 「なんか、……逆にやりずれぇよ」  翠は紅潮しそうになる頬を隠そうと、ぶっきらぼうに言い捨てる。  すると、顔の横で宗助が小さく苦笑したようだった。 「いっすか、翠さん。8番の左端を素早く強く打つ感じで」 「お、おう」  どうやら離れる気はないようで、先に進む宗助に、翠は仕方なく従うことにした。  背中に宗助の体温を感じながら、気が散りそうになるのを必死にこらえて目の前のボールに集中しようと心がける。 「俺とやってなんとなく感覚を掴んでください。そしたら次、一人でやれますよ」 「そうなら、いいな」  狙いを定めて、宗助の胸が翠の背にさらに沈む。  くそっ、と内心で舌打ちしながら翠はとにかくボールに集中した。  どうせこんなんで、インできるはずがない。 「ところで、こんな状態で大変恐縮なんですが」 「あ? なんだよ」  少々余裕を欠き気味の翠は、視線をやるわけにはいかないので声だけを投げる。 「翠さんて、料理作れたりします?」 「は……?」  この状況でその質問はなんですか?  突飛もない質問に、思わず宗助を見やった。 「いや、ちょっと作れたらなと思ったんで」  と、キスできちゃう程の距離で目が合って、翠は慌てて視線を戻す。  この状況から脱するには下手につっこまず素直に答えるが得策と考えた。 「作れるけど、それが何」 「じゃあ、俺と賭けしませんか」 「賭け?」 「これがイン出来たら、俺のお願い一つ聞いてください」 「出来なかったら?」 「翠さんのお願い一つ、俺が聞きます」  翠は数秒考えて、なかなかに面白い案ではないか? と勝負魂に火が付いた。 「いいよ。入んなかったら俺のお願い絶対きけよな」 「うっす」  それじゃ、と仕切りなおして白ボールに標準を合わせる。  翠はニヤニヤしながら、祝詞のように「入るな入るな入るな」と繰り返した。 「姑息な真似を」 「入るな入るな入るな」 「入りますよ」 「入るな入るな」 「無駄っす」 「入るな入るな入るな入るな入るな」 「俺、本気で入れますから」  ムキになる宗助が面白くて、翠は肩を小刻みに震わせながら、懲りずに「入るな」を唱え続けた。  翠の手に重ねられた宗助のそれに力がこもる。  お互いにボールを見やって、宗助が一瞬右手に力をこめればリズミカルに素早くキュウをストロークさせた。  カンッカンッと強めの木音がしたかと思えば8番が9番に、弾かれた9番はポケットへと、カンカンスコーンと消える。 「あ――っ」  一瞬の出来事に、翠は目を丸くした。  次の瞬間、パッと顔を輝かせると宗助を振り返る。 「凄い! 入っちゃったよ、宗助!」  翠から状態を起こした宗助も満足そうだ。 「あんなん入るんだな。お前すげぇよ。俺の呪文効果無しじゃん」  と、宗助の肩をグーで突っつくと、今しがた9番が吸い込まれたポケットをしみじみと見やりながら、 「……楽しいな」  と、呟いた。 「え?」 「すげぇ、なんか楽しかった」  と、宗助に笑んだ。  その笑顔に、ほんの一瞬目を奪われる。  めったに心から笑うことのない翠の笑顔に、宗助は何か込み上げてくる衝動を抑えながらそっと笑い返した。 「俺もっす」 「連れて来てくれてサンキューな」 「また楽しいことしましょうね」 「うん」 「俺の座右の銘は、楽しいは作れる、なんで」 「なんだよそれ。『可愛いは作れる』ってシャンプーのCMのパクリじゃん」  と、また笑う。 「冬はスキーもいっすね」 「俺、やったことない」 「なら絶対に行かないと」 「絶対ってなんだよ」 「翠さんの楽しいこと、俺が全部作りますよ」  そのどこか真剣な口ぶりに、翠の顔から笑顔が消える。  しばらく黙って宗助を見上げると、奥二重の綺麗な切れ長の目が、やおらふっと笑った。 「うん、期待してるよ」  それが例え社交辞令だったとしても、お前との他愛もないやり取りが楽しいから。  この先に、まだたくさんの楽しみがあるかもしれないと可能性を期待するくらいはタダだ。 相手がストレートで翠に友達以上の感情を持っていなかったとしても、宗助といる時間は楽しい。 ――きっと好きだ。 翠は悟った。 一生、友達も恋人もいらないと思ったのに。 恋なんて二度としないと思っていたのに。 一人に慣れて独りになっても寂しいと感じることのないように一人でいようと決めたのに。 ばあばが、悲しむようなことはもう二度としないと決めたのに。 まったくもって最悪だと、感傷めいた滑稽な自分が無性に可笑しかった。

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