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第4話

賭けに負けた翠は、宗助のお願いを一つ聞くことになったのだが、そのお願いと言うのが家でご飯を作ってくれませんかと言うなんとも欲のないざっくりとしたお願いだった。  近頃仕事が忙しく、外食やコンビニ弁当ばかりで家庭料理に飢えていたのだとか。  何でもできそうに見える宗助でも、料理というのは苦手らしく、自分では自炊はほとんどしないのだという。  近所のスーパーで食材と飲み物を買い込んだ。 宗助の家はオートロック付きのデザイナーズ的な真新しい感じのマンションで、1LDKと間取りは翠の家と変わりないが、さすがに広さが違う。  男二人が余裕で行き来できる対面キッチンに、翠の家の倍以上はあるだろうリビングダイニング。  家具類は焦げ茶で統一されていて、窓辺や飾り棚には観葉植物なども置かれているからカフェのようなお洒落な空間とも言えなくもない。  そう言えばカフェのオーナーなんてものをやっていると、自宅のインテリアもそれなりに凝るものなのだろうか。 忙しいという割には結構片付いていた。  宗助の家にお邪魔することになるとは思いもよらず、勝手の分からない他人の家のキッチンで料理をするなんて初めてのことで少し緊張する。 「あれだな、できる男っていうのは部屋も綺麗なんだな」 「え? あ、いや、実は今朝帰ってきた時に慌てて片付けたんすよ。もしかして来るかもー、とか思ったんで」  何の気なしにさらっと言う宗助に、それは翠が今日この家に来るかもしれないということをあらかじめ想定していたということなのか、と内心で驚くも、それ以上に気になるワードがあって野菜を洗う手を止めた。 「……今朝? って?」 「新規でリリースするものがあって、その作業で徹夜だったんです」  翠は目を丸くした。 「言えよ。別に予定ずらしたってよかったのに」 「いや、気にするほどの事でもないんで」  慣れてますから、と笑む。 「慣れてるって言っても、お前……」  自分だったら徹夜なんてした後に、到底どこかへ出掛けて誰かと遊びに行くなんて体力は持ち合わせていない。  世間一般男性の二十代後半と言うのは存外タフなのだろうか。  いや、律儀な男だ。おそらく自分のために多少無理をしてくれたのだろう。  もしそうであれば、申し訳ないと思うと同時に、自分は宗助にとって少なくとも無理を強いてくれるだけの存在ではあるのかなと、思ったら嬉しかった。 「じゃあ、鍋にして正解だな。疲れた体に負担かからないし」  今晩のメニューは家で食べられるのであれば何でもいいと言う人任せなリクエストだったので、翠の独断で野菜と鶏団子のさっぱり鍋に決定した。  時間も手間もかからないし、残暑に鍋というのもアレかと思ったが、一人でいると鍋をやる機会もそうそうないのでせっかくだから鍋にした。  手慣れた手つきで野菜を刻んでいく。  トントントンと包丁が刻むまな板の音が耳に馴染んで無意識に頬が緩んだ。  料理をするのは好きだ。  鎌倉の家では、庭で採れた野菜で祖母とよくこうしてご飯を作ったものだ。  この感じ、なんだか懐かしいなと思いながら、隣の宗助にあれやこれやと適当に支持をだして鶏団子に取り掛かる。  誰かと並んで料理をするなんていつぶりだろうか。  こうして何に急かされることなく没頭しながら時間が過ぎていくというのは、ほっとする。  料理が作れないとは言うものの、宗助はその他の事でてきぱきと働いた。  翠の仕事を見越して皿を出したり洗ったり、テーブルにガスコンロを用意したりと、二人で準備をすると夕飯の支度は一時間程で完了した。  鍋に具材を入れて塩と酒で味を調える。 「これで少し煮立たせたら完成」 「うわっ、旨そう!」 「久しぶりに作ったからどうかな。ま、味に関しては文句なしな」  そう言い捨てると、煮立つまでの僅かな時間まで翠は一服することにした。 「ベランダ、借りるよ」 「あ、いっすよここで吸ってくれて。俺もたまに吸うし」 「いや、なんか、綺麗な部屋で吸うのって気が引けるっていうか」  蛍が気楽なんで、とタバコを銜えてベランダへ出ようとしたら手首を掴まれた。 「じゃあ、俺も吸うんで部屋で吸ってください」  結局しつこく宗助に押し切られて鍋が煮たつまでの間、テーブルでタバコを吹かすことになった。 「お前、よくないよ。たまに吸うっていうのが一番体に悪いんだからさ」 「何言ってるんすか。断然ヘビースモーカーのほうが体に悪いに決まってるでしょ」  お、煮立ったかなぁ。と箸で鍋の具合を確認する。  今日は徹夜明けということもあって、アルコールは控えるという宗助とウーロン茶で乾杯した。 「翠さん、お皿。よそりますよ」  そう言って、翠の皿に湯気が立ち上る鍋から丁寧に野菜と鶏団子を取り分けてくれる。  取り分ける手元を見ながら、知らず知らずのうちに笑みがこぼれる。  祖母ともよくこうしてよそり合って、美味しいねって言い合った。  懐かしい日常と、こうして穏やかに食卓を囲むだけの今が心底幸せだなと思った。  全てに絶望してもう死んでもいいなんて思っていた時期から、こんな時間をまた得ることができる日が来るなんてあの頃は想像もしていなかったから。  不思議だ、と思う。 「うまっ! ヤッバ、凄い旨いっすよこの鶏団子」  子供みたいに大仰に目を見開いて興奮ぎみに鶏団子を頬張る宗助を見て、翠の目が嬉しそうに細められた。 「なんすか、これ。超ぉふわふわ」 「うん、豆腐を少し混ぜたから、普通の鶏団子より口当たりがいんだよ」 「生姜も利いてて、マジ旨いっす」  食の細い翠に比べて、食べ盛りの中学生かと言うほど食欲旺盛な宗助は、足した野菜もその後の雑炊もあっさりとたいらげた。 「食ったぁー。超―旨かった」  食べ終わった物を取り敢えずキッチンに運んで、ソファーに移動すると、コーヒーを飲みながら膨れた腹を擦る。  ソファーに座る宗助の横で、翠はラグの上に腰を下ろすとソファーの足元に背をもたれかけた。 タバコを吸いながら斜め上に視線を投げる。  満足そうな表情を見て、お粗末様でしたと、心の中で呟いた。  自分の作った料理を美味しいと頬張ってくれるのを見るのは嬉しい。  まして、それが好意を寄せる男が相手ならなおさらだ。  一方的に密かに思うだけの関係だけど、こうしてささやかな幸福感を人知れず味わって、生きていく糧にするくらい構わないだろう。  タバコの煙を肺の奥まで吸い込んでゆっくりと天井に向けて吐いた。 「翠さんの恋人になる人は、幸せっすね」  不意にそんな事を言われて、天井を見上げたまま視線だけを宗助に向ける。 「こんな旨い飯、毎日食えるんだから」  羨ましいなぁ、と足を投げ出す宗助をタバコを唇に当てたまま、ジーっと藪睨んだ。 「そんなん、早く彼女作って飯でも作ってもらえよ」 「翠さんは? 恋人作らないんすか」 「俺? 俺はいらない。ってか、もういいって言うか」  灰皿に残るツマをタバコの先でいじりながら素っ気なく答える。 「ま、一生分の羽目も外してきちゃったし、同じくらい人に迷惑もかけてきちゃったしさ。残りの人生は自重しようかと思ってますよ」  と、冗談めかして言うと、身を屈めて覗き込んでくるしごく真剣な表情の宗助と目が合った。 「笑えよ」 「なんで。冗談なんすか」 「冗談じゃないけど、まぁ、本音言えば、もう一人でいいかなって」  新しいタバコを箱から取り出して火をつけると、紫煙をゆっくりと長く吐いた。  その煙の行方を目で追いながら、 「この先さ、俺、多分無理だと思うんだよね。また捨てられたりして一人になるようなことがあれば、多分耐えられない」  と、口端でせせら笑う。 「お酒に手を出しそうで怖いんすか」 「いや、酒にはもう手は出さないよ。さすがに懲りたし。それに、祖母が悲しむことはしないって誓ったから」 「じゃぁ、自殺ぅ……なんてことも」 「しないよっ。馬鹿かお前、怖ぇーこと言うなよ」  顔をほんの少し引きつらせて仰け反った。 「だって、あんたが耐えられないとか言うから」 「耐えられなくても自殺なんてしないよ。それこそ祖母が悲しむし。……ま、そうだな」  と言い置いて、ニコチンを肺一杯に送ると、ゆっくり煙を吐き出してから、視線を正面に向けたまま「消えるな」と呟いた。  宗助の眉がぴくりと動く。 「消えるって、どこへ」 「んー、俺のことを知る奴が誰もいないとこ?」  わざとおどけるように疑問形で返してみせる。 「消えることについては、お祖母さんは悲しまないんすか」 「いんだよ。人に迷惑さえかけなきゃ」  と投げやりに言うと、ソファーに腰掛けていた宗助がそのままずるずると降りて来て、翠の隣に腰を下ろす。 「翠さんて、お祖母ちゃん子なんすね。料理とかも、お祖母さんから教わったんすか」 「まあ、うん。十五歳の時からばあば……、祖母と」  癖でうっかり口に出た「ばあば」をとっさに祖母と言い直すと、宗助が隣でクスッと笑った。 「いいですよ、ばあばで」  と、言い直されて恥ずかしさに思わず俯く。 「変だろ、来年三十になるって男が『ばあば』じゃ」 「そうかな。俺は気にならないですけどね。翠さんが言うと自然に聞こえます」  気遣うでもなく、揶揄うでもない宗助の声は、なんだか凄く優しい。  で、ばあばが何ですか、と先を促され、宗助から僅かに視線をそらすと翠は一つ咳払いをした。 「その、十五の時からばあば……と、一緒に住んでたから、朝飯も夕飯もいつも一緒に作ってて。その内に包丁の扱いも慣れたりしてさ」  人様の前で久々に「ばあば」などと口にして、少々火照る顔を隠すようにコーヒーマグを口許に当てる。 「でも、全然苦じゃなかった。その時間帯が、どっかほっとするっていうか」  流し場の上の小さな灯りだけの、古くて狭い板張りの台所で、カラカラと鳴る換気扇の音を聴きながら祖母と何を話すでもなく並んで料理を作っていた日々をふと思い出して、翠の目の色がフッと和らぐ。 「冬は無理なんだけど、庭で自家栽培もしてたから、その日採れた野菜で今日は何にしようかぁって、相談しながら作るご飯は楽しかったな。こうやって横に並んで、取り留めもない会話をしながら包丁が刻むまな板の音を聞くのが好きだった。派手な料理じゃなかったけど、色々教わったよ。煮物から糠漬けまで。あ、お前、知ってる? トマトで作る糠漬けって結構旨くてさ――……。って、なに?!」  不意に、胡坐をかく翠の足元に片手をついて、身を寄せてきた宗助に驚いた。  正面から顔を覗き込まれて、反射的に体を引く。 「いえ、お祖母さんの話をしている時の翠さんて、すごく良い顔してるなって思って」 「なっなにそれ。ってか近いから、顔」  ドギマギする翠をよそに、眦の下がった男前の宗助は更に鼻先を近づけて顔を見上げるように覗き込んでくる。  至近距離で見つめられて、座りの悪い翠はたまらずマグカップを宗助の額に押し付けた。  そのままグイッと押しのける。 「どけって」  すると今度は素直に従った。  定位置に戻って、もたれているソファーに肩肘を乗せると、おもむろに口を開く。 「嫌なこと、訊いてもいいすか」 「なに」 「その……」  と、珍しく口ごもる宗助をチラッと横見する。  何かと葛藤するかのように眉間に皺を寄せてコーヒーを覗き込みながらゆっくりマグを回す。 「言えって」 「どうして、その、除籍なんてされたんすか」  ああそのことか、と翠は目を細めた。  別に聞かれて今更困るようなことじゃないので、驚きもしないが。  親に除籍されるなんてよっぽどの事だろうと、誰でも気になるのは当たり前だ。  と、言うよりむしろ今まで聞いてこなかったことのほうに驚く。  恐らく、ずっと興味はあっても、翠に気を遣って黙っていたに違いない。 「平たく言えば、俺がゲイだからかな」  でも、だからって除籍は無いでしょ、と言う宗助に、翠は軽く苦笑してみせた。 「ま、今となっては誤解だったって判明したらしんだけど」  と前置きをして、翠は当時の出来事をかいつまんで説明した。  十五歳の冬に自分がゲイだと気づいて、その悩みを告白して神父に襲われたこと。  その状況を目にした両親が、翠が誑かしたものだと誤解して、容赦なく殴りつけたこと。  その後、除籍され追い出されるように家を出て、そんな翠を祖母が引き取ってくれたことなどを淡々と語った。  元々クリスチャンじゃなかった祖母は少し変わり者で、教会に馴染めなかったこともあり祖父の死後周りと距離を置くようになっていた。  横浜の家を出て鎌倉に住み始めたのもその頃だ。  親族もどこか祖母を厄介者のように感じていたようで、引き留める者は誰もいなかった。 「風変りなばあばのお話しはどれも面白かったし、忙しい両親や兄に変わって小さいころからずっと俺の面倒を見てくれていたから、本当に感謝してる」  祖母が体調を崩したのは翠が大学を卒業して間もなくだった。  しばらくは自宅療養していたものの、その内入院をするようになった。  鎌倉から都内の仕事場に通っていた翠は、休日は勿論、仕事が終わると必ず病院に立ち寄った。  面会時間に間に合わない時も多々あって、祖母の病状が良くなかったこともあり病院側も時間外の面会を特別に許してくれた。  けれど、そんな日は決まって祖母は既に眠っていて、翠はその度に祖母の枕元にメモを残した。  庭の野菜や植木の様子など取り留めのない事ばかりだったけど、見舞いに来たということを知っていてもらいたくてメモを置くことが習慣になった。  翌日も時間外になると、前日に書き置いた翠のメモに、祖母から一言添えられたメモが枕元に置かれていた。  そんなやり取りを繰り返すことが多く、起きているときに話せるのは翠の仕事が休みの日くらいだった。  見舞うのは翠ばかりで、祖母は寂しい病院生活を送っていたのではと思うと胸が痛んだ。  自分が毎日見舞うことで少しでも祖母の心が満たされてくれればという思いでいっぱいだった。  正直、社会人になったばかりで、しかも時間帯が不規則な仕事だった上、慣れない事も多く、仕事場と病院を行き来する毎日は大変だったが、祖母が居なくなってしまうかもしれないという恐怖の方が勝って祖母の看病を苦だと感じることは一度としてなかった。  今思えば必死だったなと思う。  自分のいない間に祖母に万が一のことがあったらと思うと、仕事もまともに手につかなかった。  なのに、その一番恐れていたことが起こったのは翠が二十四歳の時の夜勤シフトで仕事をしている時だった。  病院からの知らせを受けてタクシーに飛び乗り急いで向かった病院には、だが既に祖母の姿はなかった。  同時刻に知らせを受けた翠の両親が、タッチの差で祖母を引き取りに来た後だったのだ。  無我夢中で横浜の実家に行けば、玄関先で顔を見ることなく門前払いされた。  深夜ということも忘れて、叫びながらドアを叩いて泣き叫ぶ翠に、痺れをきらした両親がなんと警察を呼んだのだ。  丸一日拘留されて、打ちひしがれた翠は抜け殻そのものだった。 「ばあばの葬儀にも出させてもらえなかったから、もしかしたらどっかでまだ生きてるんじゃねぇーのってたまに思ったりしてな」  と、片頬で笑って見せる。  隣で黙って聞いていた宗助が、一つ大きく息を吐いて天井を仰いだ。 「鎌倉の家はどうなったんすか」 「ああ、あれね、どうだろう売却でもされちゃったのかな。鎌倉の家も追い出されちゃったからその後のことはよく知らないんだよね」 「翠さん……」 「はーい、もうヤメヤメ。こんな話ばっかじゃ湿気る。ほら、そんな顔すんなって」  男前が台無しだぞと、眉間にざっくりと縦皺を刻んだ宗助の頬をパンパンとはたくと、「おっこらせ」と立ち上がった。 「もう二十二時じゃん。洗い物したら俺、帰るわ」  マグカップ片手にキッチンへ向かおうとして手首を宗助にグイッと掴まれる。 「危ねっ……」 「翠さん、明日の仕事って何時から?」 「はあ? なんで、十三時からだけど」 「俺、十時からなんすけど、良かったら今晩泊まっていきませんか」 「え? ……なんで」 「なんでも。俺がもう少し一緒にいたいんです」  ダメですか、と真剣に見つめられて翠は困惑した。  翠は、キッチンで食器を洗いながら大きな溜息を吐いた。  結局、強引な宗助に押し切られて泊まることになったものの、そわそわして落ち着いて座っていられず、やらなくていいと言われていた洗い物をやっている。  宗助と言えば、お風呂を洗いがてら先に軽く浴びてくるのでと言って先ほど風呂場に消えたところだ。  急に泊まることになってしまって、何を期待しているわけでもないのに緊張していた。  飯食って、そのまま成り行きで泊まるっていうのは、世間一般的な男友達なら普通にすることなのだろうか。  翠の性の対象は男であって、果たして世間一般的な男友達という枠には当てはまるのか定かではないが、とにかく、友達の家に泊まるといった経験がないだけに、どうにも落ち着かない。  当初、遊びに誘われた時も不安に感じていたが、二度目のお誘いを受けたということはそれなりに翠との時間を楽しんでもらえているということなのだろうか。  まして家にまで呼んであげく泊まっていってはどうだろう、とまで言うのは、やはり楽しんでいるということなのだろう。  ずっと一緒にいて密かに観察しているが、楽しそうに笑うその笑顔には、少なくとも嘘偽りはなさそうに見えた。  「俺がもう少し一緒にいたいんです」と言われた時は、思わず頬が紅潮してしまった気がして自分自身がいたたまれなかった。  言われ慣れていない事や、経験のない事にいちいち一喜一憂してしまう。  自分はこんなにも顔に出てしまうような人間だっただろうか。  泊まっていけと、どういうつもりで宗助が言ったのかは知らないが、直近で言えばおそらく翠の話に同情して、といったところが妥当ではないかと思う。  翠の気持ちを少しでも元気づけようとしてくれての事なのかもしれないが、今更過去の事を話したところでそうそう落ち込むようなことも無いのだけれど、と思いながら一通り洗い物を終えるとベランダへと出た。  欄干に凭れ掛かってタバコに火をつける。  一度ふっと煙を吹き出すと、それを風が一目散にさらっていく。  残暑が厳しいとは言え、夜の風は大分涼しくなってきていた。  ゆったりと音もなく過ぎる風が、翠のサラサラの髪を静かに揺らした。  遠くの闇を見つめながらタバコを吹かしていると、不意に背後に気配を感じて振り返る。 「洗い物、してくれたんすね」  窓の鴨井に手を掛けて、宗助がベランダを覗き込むようにして立っていた。  紺のTシャツにスウェットといったラフな格好にも関わらず、洗い立ての髪の毛が僅かに額にかかって、それがまたたまらなく格好良いと思った。 「お前さ、格好良いよ。ホント」  素直な気持ちを口にして、翠は再び正面に向き直る。  闇に向かって残りのタバコを吸い終えようと口に運んだその時、不意に背後から両脇に腕を回されて抱きすくめられた。 「――――」  何が起こったのかとっさに把握できず、息を呑むと、次の瞬間、背後から宗助に抱きしめられているのだと分かって、翠は体を硬くした。  驚きと動揺とで硬直した体は、宗助の腕の中で身じろぐこともできず、鼓動が早鐘を打って、体温が上昇する。  どうして、なんで、と目を瞠っていると、 「翠さん」  と、肩口で掠れた声が囁いた。  その吐息の近さに心臓がトクリと鳴る。 「あ、の……なにしてんの」  ようやくの思いで絞り出した声は震えていて、投げかけた質問に応えるように翠を抱きしめる宗助の腕にいっそう力がこもった。  黙って抱きしめられるだけの翠は、硬直させた体をさらに縮こませる。  ドクンドクンとなる心臓の音は、宗助にまで伝わってしまうのではないかという焦りと、息さえ上手にできなくなっている自分に思わず目を瞑った。  タバコの灰が長く伸びてそろそろ限界を迎えようとした時、 「洗い物」  と、肩口から顔を上げた宗助がやおら耳元で呟いた。 「洗い物、してくれてありがとう、のハグです」  ――ありがとう、のハグ?  思考がうまく追いつかないでいる翠の体をパッと放すと、 「俺、布団敷いてくるんで、その間に風呂入っちゃってください」  着替えと歯ブラシは置いときましたから、とポンポンと翠の両肩を軽く叩くと何事も無かったかのように呆気なく離れて行った。  背後から宗助の気配が消えるのを待って、翠は一人大きく肩で息を吐いた。  風呂に入りながら、先ほどの宗助の行動はなんだったのだろうと考えた。  世の男友達というものは、ありがとうの意味を込めてあのように熱いハグを交わすものなのだろうか。  やはり少しばかり行き過ぎた行為のようにも思うのだが、あの男に限ってはそういうことも案外普通のことなのかもしれない。  社交性に優れた宗助は、スキンシップも人よりもしかしたら積極的なのではないだろうか。  とは言え、あんな不意打ちのようなハグを後ろから抱きすくめるようにするなんて、あやうく勘違いしてしまうところだ。  会話もままならないまま呆気なく宗助は離れて行ってしまったが、このまま顔を合わせるのはなんとも気まずい。  翠はタオルを口許に当てて、しばらく沈黙した。  用意されてあった服に着替えて歯を磨いた翠がリビングに戻ると、そこに宗助の姿は無かった。  布団を敷くと言っていたから寝室だろうかと向かえば、布団の敷かれた横のベッドの上で宗助がぐっすりと眠ってしまっている。  翠が風呂からあがってくるまでの間に眠ってしまったのだろう。  まともに顔を合わすのが気まずいと思っていただけに、なんだか肩の緊張が解けた。  近づいてそっと布団を掛ける。  徹夜明けなのに一日中遊んだものだから、きっと疲れもピークだったのだろう。  ベッド脇に膝をついて覗き込んだ顔は、いつかのタクシーの中で見た寝顔と同じだ。  この少し下がった眦が、優しく笑んだり可笑しそうに笑ったり、「んー?」と言いながら大きく見開かれるのが好きだ。  翠さんと呼ぶ少し厚めの唇も低い声も好きだ。  翠に初めての楽しさを教えてくれるこの男の優しさが好きだ。  心の中で、何度も好きだと呟いた。胸に熱いものが込み上げてくる。  この男ともっと一緒にいたい。  願わくば、いつまでもこの男の隣で、こうして穏やかに眠る寝顔を見ていたい。  この男に触れたい。体温に触れて、もっとこの男を感じたい。  翠は、ふと宗助の目尻を指で撫でようとして、伸ばしかけた手を空中で止める。  躊躇するように額の上で震える指先を握り締めたり開いたりしながら、暫く額の辺りを彷徨わせれば、結局そのまま通り過ぎる。  すーっと、僅かに毛先だけを掠めるにとどめた。  触れたいという衝動を寸前で抑えて、毛先だけに触れた。思った通り柔らかい。  宗助が好きかもしれないと、はっきり自覚したのはほんの数時間前なのに、翠の初めてを沢山教えてくれた宗助との時間は、翠の胸を一杯にした。  ベランダで思いがけず強く抱きしめられて苦しくなった。  見ていられるだけで上出来なのだと諦観めいた気持ちでいたものが、いつしか心が欲しいと叫び出す。  叫び出した心を、どう対処しよう。  この想いを知られてしまったら、きっとこの関係は終わってしまう。  終わってしまうくらいなら、いっそ始めてしまう前に消えてしまおう。  失うものがあるからこそ得るものがある。  そんなことをテーマにした古い映画が昔あったような気もする。  あの映画のタイトルはなんだったか。  結局、男は全てを失って過ぎ去った後悔に想いを馳せながら、一人涙するのではなかったか。キスシーンだけが映し出されたスクリーンの前で。  毛先に触れた柔らかな指先の感覚を大事そうに掌に包み込んで胸に押し当てた。  起こさないように静かに立ち上がると、リビングと寝室の電気を消して、自分も敷いてくれた布団へと入る。  目深に掛け布団を被って宗助に背を向ける。  目を閉じると、ふと昨日の真澄からの電話を思い出した。  そう言えば、そんなこともあったなと。  あれほど気持ちが落ち込んでなかなか浮上できずにいたのに、それが今日はどうだったろう。   宗助と一緒に過ごしている間、一度として真澄の事を思い出すことは無かった。  充実した時間が、嫌なことを忘れさせてくれた。  今思えば、昨日の電話の件など、どうでもいい事のように思える。  そうは言っても、やはり習慣といのはなかなか拭えないもので、電気を消した静謐な空間は、かえって目を冴えさせた。  やはり、今日もなかなか寝付けそうに無いなと、息を吐きかけたその時、 「眠れませんか」  と、不意に背後から問われて、翠の肩が反射的に跳ね上がった。  今しがた目を覚ましたであろう宗助が、背後でむくりと起き上がる気配がする。  翠はできるだけ落ち着いて、背中を向けたまま素っ気なく答える。 「お前こそ、寝てたんじゃないの」 「すみません」  表情の伺えない、静かな声だった。 「別にいいよ。徹夜明けじゃ誰だってそうなる」  いいから寝ろよ、と声だけを投げた。 「もしかして、いつも寝る前は本を読んでるんじゃないんですか」 「……なんで」 「以前、桂さんが翠さんにとって、本は精神安定剤なものだって言っていたんで」  眠くなるまで読書するのが習慣なのかと思った、と。  よく気の利く男だと思ってはいたが、桂に言われたそれだけのことで、そこまで察する宗助は、やはり聡いと思った。  翠はじっと目の前の暗闇を見つめながら、どうでもいいことのように答える。 「いんだよ、今日は」 「本なら、俺の家にもありますけど、読みます?」 「いや、いい。電気つけたら迷惑だし、羊でもおスギでもピーコでも数えてりゃ、その内眠れる」  と、冗談めかして言うと、暫く沈黙が流れて、その内にもぞもぞと布団の衣擦れる音がした。  一応翠のことを気遣って提案を投げてみたが、おそらく眠気に根負けして再び横になったのだろう。  余計なことは言わずに、そのまま眠って朝までおきるなよ、と胸の中で呟いて、翠も目を閉じた。  と、その時だった。  行き成り掛け布団を剥がされたと思えば、振り仰ぐ間もなく強引に布団の中へと温かいものが潜り込んでくる。  翠は思わずぎょっとして、まさかまさかと思って目を瞠るも、今しがた眠りに戻ったものとばかり思っていた宗助が断りもなく翠の布団の中へと入ってきて慌てた。  びっくりして身を硬くする。  強張る翠の背中にぴったりとくっついた宗助は、匂いを嗅ぐようにうなじに鼻をうずめてくる。 「そ……宗助」 そっと掌を翠の腕に這わせてそのまま撫で下ろすと、宗助は自分の指先を翠の細い指に絡めた。 「な……っ」  唐突に絡めとられて、翠はとっさに腕を引く。 けれど、ぐっと強く掴み取られた指のせいで身動きが取れない。  さっきのベランダの一件といい、今度はなんだ――。  背中にぴったりと張り付いた宗助の胸板と、うなじに掛かる吐息を感じて、翠は全身がゾワリと毛羽立った。  ドクンドクンと早鐘を打つ鼓動を必死で押し隠すように卵の殻のように縮こまる。  沈黙したまま指を絡めとって抱きしめてくる宗助に、ギュウと目を瞑った翠は溜まらず降参の声を漏らした。 「宗助……っ」  心なしか体温の上がった宗助の腕の中で、翠の頬がカーッと紅潮する。 「エロ……」 「――?!」 「翠さんの指って、細くて白くて、すげぇエロいんすよ」 「なっ何言って……」  エロいってなんだよ、と目を見開いた。  動揺のあまり頭が混乱して、誰の何がエロいのか理解が追いつかないでいると、今度は突然にするりと指が解かれる。  とっさにパッと手を引っこめて胸の前で両手を握り締めた。  バクンバクンと鼓動が爆ぜそうだ。  うなじで囁かれる宗助の声に耳がザワザワした。 「タバコ持ってる時の指とか、マジたまんないって言うか」 「なに、言ってんのお前……。揶揄うのもいい加減にしろよな」 「揶揄ってなんかないですよ」  むしろ称賛してるんです、と翠の肩をぐいっと掴んで仰向かせると、横で片肘をついた宗助がいつもの笑顔で見下ろしていた。  思わず、はっと息を呑む。 「ドキドキしちゃいました?」 「し……ちゃいました」  と、思わず馬鹿正直に答えてしまった翠に、何とも言えない優しい双眸で笑んだ。  カーテンから差し込む僅かな外灯の明かりが、薄闇にふわっと宗助の輪郭を浮かび上がらせる。  微かに見て取れる宗助のいつもの表情に、先ほどまで辟易していた心臓から安堵の息でも漏れそうだ。  同時に、どうしてこんな悪戯ばかりしてくれるのだと、悲痛な面持ちで眉を寄せた。  そんな翠の気持ちを知ってか知らぬか、 「翠さん。俺が、本の代わりに隣でお話ししててあげますよ」  などと申し出てきた。  それは、結構です。と言いかけて、 「俺が勝手にするどーでもいい独り言を聞き流しながら、眠れると思ったら寝ちゃってください」 「お前、なに言って――……」  子供じゃないんだから、と言いかけて、宗助の顔の近さに今更ながら気が付いて慌てて背を向けた。 「……気ぃ遣うなって。少しくらい寝れなくても平気なんだ」 「遠慮しなくていんすよ」  遠慮とかではないのだけど、と背中にぴたりとくっついたままの宗助の体温を感じて、耳が火照る。 「ってか、……逆に寝ずれぇって」  ボソリと呟く。  だが、そんな翠のことなどお構いなしに、宗助は布団を自分と翠に掛けなおすと、子供をあやすようにトントンと腕を叩き始めた。 「…………」  ビリヤードの時もそうだが、宗助は時折こうして人のことなど無視するように先へ先へと強引に進んでいく傾向がある。  いんだか悪いんだか、そういった強引さに翠は結局押し切られてしまうのだ。  黙って身を硬くしていると、宗助がおもむろに話出した。 「血液型って、アメリカとかだとあまり重要視されてないんですよ。血液型占いとか、血液型別性格とか、あれって何かとグループ化したり枠にはまりたがる日本人特有のものなんすよね」 「…………」  ゆっくりと、静かに話し出した内容は、どうやら血液型についての話らしい。  聞き流してくれて良いと言われたので、翠は仕方なく背中が落ち着かないながらも、じっとその声に耳を傾けた。 「なにを根拠としているのか分からないですけど、なんとなく当たってるって思うのはなんなんすかね。一説によると、メディアが一時期テレビやラジオで執拗に取りだたしたものだから、視聴者の脳裏に刷り込まれて、みんながそういうものだと思い込むようになったって言われてるらしいすけど」  集団催眠みたいなものなのかな。信憑性にかけますよね。と、小さく苦笑したようだ。  翠自身、あまり血液型云々に興味がないため、その信憑性がどうのと言われてもピンとこないが、どこで仕入れてきた情報なのか、宗助は女性雑誌にでも書いてあるようなことをその後もゆっくりとのらりくらり話続けた。 「だもんで、統計学的にみても、なかなか血液型別性格については立証が難しいらしいです。医学的根拠についてはほとんど無いって結果がでているらしいですけど」  どうも話が難しい方へと進みだして、翠は理解するより音楽でも聴く感覚でそっと瞼を閉じた。  宗助の低くい声は、思いのほか背中に響いて心地いい。  いつの間にか、強張っていた体から自然と力が抜けていく。 「だから、一概にA型O型B型 AB型の四つで区別するっていうのもどうなのかなって。だって厳密に掘り下げると、A型一つとってもAA型とAO型に分かれるでしょ。AA型のA型とかAO型のA型でも性格って変わってくると思うんすよね」  と、さらに内容が複雑化していく。  それでも宗助がトントン、トントンとあやすように腕を叩くリズムは、翠の脳に安心感を与えた。  ほっとするの一言につきた。  次第に意識がぼーっとしてくる。  いつものハキハキとした張りのある声と違って、静かに絵本でも読み聞かせるような低い穏やかな声は、引き寄せるように翠を深い眠りへと誘っていく。  ――温かいな。と思った。  宗助の腕の中は温かい。  祖母の手の温もりが心底恋しいと思った。ロザリオをそっと抱いて、思い出の中の祖母の温もりを探したのはつい昨晩のこと。  あれだけ欲していた温もりが、今こんなにも近くにある。  無意識に、自分の口許が緩んだ気がした。  そんなことを思いながら、翠の意識は深い眠りへと徐々に落ちていく。 「そうそう、俺の親父がAO型でお袋がBO型なもんだから、四人兄弟全員バラバラで。全種類揃ったって言うか。姉貴がO型、兄貴がA型……」  と、家族の血液型の紹介が始まる。 「俺はB型なんすけど――……」  と、言いかけて、不意に声が止まる。  ……あれ……、どうしたのだろう――……。  と、なんとなく気になりながらも、意識は睡魔に誘われるまま、どんどん薄らいでいく。  ああ、もう寝る――……。  意識を手放すか手放さないかの狭間で、宗助の消え入りそうな呟きを聞いた気がした。 「……O型との相性が良いらしくて」  翠さんが、O型だったらいいな――。  そんな夢のような言葉を消え入る意識の片隅で聞いた気がして、ああ、これは夢か、と幸せな気持ちのまま、翠は深い眠りに落ちた。  けたたましい携帯電話のアラームで目を覚ました宗助は、微睡みながら隣に手を伸ばす。  昨晩一緒に寝た翠の温もりを探すが、どこを探っても布団の中に今朝方まであったはずの温もりがない。 「……あれ?」  間抜けな声を出して、布団の中を覗き込んでみるが、やはりそこに翠の姿はなかった。  トイレか、もしくは先に目を覚ましてリビング辺りでタバコでも吸っているのかもしれない。  昨夜は翠の横で彼が寝付くまでの間、取り留めのない話をして規則正しい寝息を確認した後、自分もそのまま隣で寝入ってしまった。  途中ベッドに移動しようとも思ったが、卵の殻のように縮こまった細っこい体を抱きしめていたら、この温もりを放したくなくてそのまま添い寝してしまったのだ。  宗助は仰向けになると、片腕を頭の後ろにまわして、もう片方の手を天井にかざして眺め見る。  翠の指は細くて綺麗だと、タクシーで寝てしまった次の日の朝、タバコを吸う彼を見てそう思った。  昨晩、翠から家族と疎遠になったいきさつを聞いて、なんだか放っておけなくなった。  一人であの殺風景な部屋に返したくなくて、気づいたら泊まっていけと言っていた。  寝こけてしまった宗助を起こすことなく、布団で息を潜めるように丸くなって背を向ける翠を見ていたらそれがとても寂しそうで、寝れないのかと声をかけた。  大丈夫だと強がる翠がまたいたたまれなくて、抱きしめて安心させてやりたいと思ったら体が動いていた。  断りもなく布団に潜り込むと、強張った細い指を無理やり握り込んで抗おうとする翠を背後から抱きしめた。  その時の感触を思い出して、すっと目を細めると、天井に翳した手の甲を額に押し当てる。 「…………」  正直、酷く気持ちが高揚した。  あのまま翠が全身の強張りを解いて身を任せてしまっていたら、おそらくその先までいってしまったかもしれない。  ふと、そこまで思って、そもそも自分は男が抱けるのかと疑問に思った。  自分がゲイだと思ったことはないが、今でもそうではないと思っているものの、どうも翠といると胸の奥がざわついてしまう。  初めて会った時の印象は、男のわりに線が細く綺麗で大人しそうといった感じだったが、いざ話してみると印象は大分違った。  味も素っ気も無いといのはああいうのを言うのだろうと思った。  無味乾燥というか愛想無しとでも言おうか。  時折みせる諦観めいた嘲い方はどこか俗世間から距離を取ろうとするような、何かを背負い込んだような陰を感じさせた。  けれど、会う回数を重ねるごとに、翠への印象は変わった。  愛想の無さに隠れた翠の陰は、常に独りの寂しさを隠している。  親兄弟に恵まれて、愛されて生きてきた宗助には、到底想像できない孤独だ。  いつだって頼れて無条件に支えてくれる家族がいないというのはどれほど心細いことか。  悲しい時や辛い時に帰る場所がないというのはどれほど不安で孤独か。  心の疲れを紛らわすために読書に没頭するいつかの翠の横顔を思い出す。  おそらく、表情や感情表現は元々乏しい方なのだろう。  ただ、ああいった排他的な態度や投げやり感を含んだ話し方は、きっと翠が今まで生きてきた中で最終的に身に着いたものに違いない。  愛想のない態度も似合わないタバコも自分の過去を淡々と語ってみせるところも、おそらくは自分から周囲の者を遠ざけるための、あるいは近づけさせないための虚勢なのだ。  その虚勢も、本を読むことで現実逃避することも、全て翠が翠自身を守るために執拗に迫られて得た手段だったのだと宗助は思う。  捨てられるくらいなら初めから一人でいい、自分がこれ以上傷つかないために見つけた必要な手段なのだ。  思春期に親に酷い捨てられ方をして、頼りだった祖母も翠を残して他界して、DVを受けた彼からも振られたとなれば、誰かと親しくなることに怖れを覚えるのも分からなくもない。  それに、祖母を悲しませるような行為をしてしまった自分自身をずっと責め続けているようでもある。  こんな自分は幸せになってはいけないと、自分自身を戒めているのかもしれない。  翠の心は表面上の開き直った態度とは違って諸刃の剣だ。  僅かな均衡だけで保っているものの、何かの拍子でそれが崩れれば本当に「消える」かもしれない。  何度か遊んで分かったが、翠は与えられたことには熱心に取り組むし、思った以上に素直なのだということも分かった。  教えられたことは素直に実践して、言われたことには素直に従う。  ツンツンしている割に、投げやりになったり、臍を曲げたりということがない。  育ちが良いのか、それとも面倒を見てくれたという祖母の影響だろうか。  元々ベースは素直で善良なのだろう。そして、きっと凄く優しいのだ。優しいが故に弱い。  根っこから擦れているわけではないのだと、翠に会うたびに感じる。  家庭の事情やDVをされた経験、アルコール依存症と寂しさを紛らわすために重ねた男関係など、正直目を瞠る経歴だと思うものの、宗助のスキンシップにあれほど分かりやすく一喜一憂するところなど見ると、思った以上に翠は純粋だ。  不感症のような仮面を被ってはいても、そせんは仮面に過ぎない。  過去の辛い経験を語る時などがそうだ。  何でもない事のように淡々と表情を変えず話すのに、祖母との思い出話になると途端に穏やかな表情になる。本来の翠は後者だろう。翠がどれだけ祖母のことを好きで、どれだけ彼女の存在が救いだったかが伝わってきて切なくなった。  ビリヤード場で見せたあの笑顔もそうだ。  「楽しい」といって笑んだあのあどけない顔を、宗助は儚いと思った。  彼の大事にしてあげなければいけない部分だと思った。  守ってあげなきゃいけない部分だと思った。  触れたいと思って、込み上げてくる衝動を抑制した。  風呂から上がった宗助に、夜風に当たりながらタバコを吸う翠が、不意に「お前さ、格好良いよ。ホント」と言った時は、翠が消えてしまいそうなほど頼りなく見えて、思わず抱きしめてしまった。  顔をうずめた翠の髪の毛からはタバコの匂いがして、それがたまらなく愛おしいと思った。  この匂いを嗅げるのはきっと今は自分だけなのだと、酷く独占欲にかられた。  これほどまでに誰かに入れ込んでしまうのは初めてではないかと思う。  忙しい仕事の合間を縫って週に二回も足しげく通ったりするのは翠が初めてだ。  行き過ぎるスキンシップは翠を困らせるだけだと分かっているのに、この気持ちがなんなのか、宗助自身持て余している。  男の友人知人を思い浮かべてみても、抱きしめたいかそうでないか以前に生理的に受け付けない。考える余地もないのに、翠にだけは食指が動く。  ツボ、としか言いようがない。  なんでかな……。と心の中でぼやいて、宗助は布団から起きた。が、起きてみるとリビングにもトイレにもベランダにも翠の姿はなかった。  玄関の靴も念のため確認したが、やはりない。  あるのはテーブルの上に丁寧にラップされた朝食と、メモが一枚だけだ。 「うまそ……」  腰に手をあてて、頭をぼりぼり掻きながらボソッと呟く。  昨日の残り物の野菜でつくったであろう大根と豆腐の味噌汁に綺麗な焼き色の玉子焼き、それと海苔の巻かれたおかかのおにぎりだ。  朝食を作る翠にも気づかず眠っていたとは、昨日少々無理をして徹夜明けに出掛けたことが思いのほか体に堪えていたのだろうか。  今朝は一緒に家を出るつもりだった。  一言声を掛けていってくれればよかったのにと少し嘆く。  昨晩、行き過ぎたスキンシップをしてしまったから、顔を合わせづらくて宗助が起きる前に早々と退散したのだろうか。 と、思って「いや」と首を傾ぐ。  翠のことだ、気を遣って寝入る宗助にあえて声をかけることなく帰ったのだ。  でなければ、朝食など作らずさっさと帰るはずだと。  そんな健気なところも宗助の心の琴線に触れる。  テーブルに片手をついて朝食の横に置かれたメモに視線を落とす。  今時どうしてこんなアナログ式をと思う。  子供のころに、時間帯の会わない親とやり取りした置手紙を思い出した。  メールアドレスを交換したのだからメールに送ればすむものをこうしわざわざメモで残すのは、病床の祖母とメモのやり取りをした時の名残りなのか、想像しながらメモを手に取る。  メモにあったのは 『俺は、一度家に戻って用意があるので先に帰ります。適当に朝飯作ったから、食えそうなら食ってください。それから、昨日は久しぶりによく眠れました。ありがとう』  と、普段の喋り口調と違って敬語で綴られた淡泊な文面は、だがこうして文章で読むと、翠の素直な部分がダイレクトに伝わってくるから不思議だ。  そして、必ず末尾には『翠』と添えるのだ。  ――くそ……。  宗助はくっと下唇を噛むと、メモ用紙を握り締めた。 「すげぇ……可愛い」

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