5 / 9

第5話

翠を家に招いてから、何度か翠の家で夕食をご馳走になることがあった。  翠の作る料理は素朴ではあるけど、どれもとても美味しかった。  閑散とした翠の家のキッチンに調味料が増えたのは、手料理を欲する宗助のためなのだと思うとなんだか嬉しい。  近頃では本を借りる以外でも会うことが増えた。  仕事で遅くなる日でも、言えば夕食を作って待っていてくれる。  愛想笑いをするでもない、けれど甲斐甲斐しく料理を作って宗助を待っている翠が、年上にも関わらず可愛く思えて仕方ない。  初めて会ったころに比べると、随分と自分に打ち解けてくれるようになったと思う。  大多数のブロック塀が取り払われたような。  距離が縮まったことを密かに喜びながら、十月を目前に控えたある日、宗助は会社に出勤する前に月末処理の関係で自身がオーナーを務める新宿のカフェへと来ている。  宗助のカフェ『リュー・ドゥ・ルポ』は今年の一月にオープンしたばかりの都会のオアシスをテーマにしたカフェだ。  新宿通りに面してある商業ビルの広いワンフロア―を貸し切って、テーブルとテーブルの感覚を少し広めにとり、なるべく自然光を利用しようと全面ガラス張りにしたカフェは開放感溢れる空間だ。  テーブルは円形に拘った。角ばったテーブルは空間を窮屈に感じさせたし、どうもリラックス感に欠ける。  宗助の自慢はフロアーの半分近くを贅沢に窓ガラスで仕切って温室にしたところにある。なんとも斬新だと好評だった。  都会のど真ん中でお茶を飲みながら庭園にいるような気分を味わえるともっぱらの評判だ。  温室内は自由に見て回れるように飛び石の置かれた回廊式になっていて、その一角には一つだけ木製のベンチが置かれてある。  外から見て楽しむ客がほとんどで、中まで入ってと言う客はあまりいないが、目の保養として存分に楽しまれていた。  レジカウンターでオーダーを済ませて先払い、番号札を受け取って自席で待つ流れだ。コーヒーくらいならその場で手渡し出来る。夜はアルコールも豊富に用意していた。  この日のカフェも昼時とあってそれなりに混みあっており、店員の動きも忙しない。  厨房の奥にある事務所で今しがた軽食を済ませた皿を脇に押しやりながら、月末処理に追われているとドアが叩かれる。 「どうぞ」  パソコンに目をや向けたまま後ろへ声だけを投げた。 「失礼します。オーナー、今お時間あります?」  顔を出したのはリュー・ドゥ・ルポの店長を務める三佐和と言う女性だ。 「うん、ちょうどキリがいいから。お疲れさん。なに?」  そう言って、椅子を回転させると三佐和に体を向けた。長い足を贅沢に投げ出して背凭れに寄り掛かりながら右手の指に挟んだボールペンをくるくると回す。  ゆるい巻髪を肩口で束ねて、小柄で可愛らしい三佐和は非常に若く見られがちだが、実のところ宗助より五つ年上で仕事もよくでき既婚の上に子供が二人いる。  以前は宗助が経営するもう一つの銀座のカフェバーで働いていたが、この一月からはリュー・ドゥ・ルポの店長を任せていた。 「来週から出す十月の新作スウィーツ、試食してくれません?」 「例のパンプキンタルト? いいね」  そういうと、三佐和はパンプキンプディングのタルトを一切れ皿にのせて持ってきた。  淡いオレンジ色のパンプキンプディングタルトはカボチャそのものの味を活かしてほんのり甘く、シナモンがいいアクセントになっていて美味しい。しかも生クリームとは違い後味にコクがあって甘い物が好きでない人でもいけそうだ。 「うまっ。タルト、サクサク。豆乳クリーム?」 「あら、分かります?」 「だって、そりゃ使うって告知されてたから。へえ、美味いよ」 「そうでしょう? 普通の生クリームに比べると一段大人な味になりますよね。生地にはバターを通常より多めにしたのでサクサク感も倍増です。バニラビーンズのアイスを添えようか悩んでいるんですが、どう思います?」 「ん、うん。悩むな。あってもいいけど、せっかくの豆乳がって気にもなるしな」 「ですよね」 「うん、無しでいこう」 「賛成です」  とピンク色の唇が朗らかに笑んだ。 「それじゃ、スタッフにそのように指示しておきますね」  と、三佐和は空き皿を下げようとして、「あ、そうだ」と、思い出したように手を打つ。 「例の彼、今日も来ていたんですよ」 「例の? あ、みど……」  翠さん? と言いかけて慌てて口をつぐんだ。 「あの、いつも温室にいる彼?」  と、言い直した。 「ええ、つい三十分くらい前に帰られてしまったんですけどね。今日もいつも通りコーヒー飲みながら本を読まれていきましたよ。温室で小一時間ほど」  ベンチに座ってね、と付け加えた。 「そうだったんだ。残念、久しぶりに来たのに拝めずじまいで」  と、わざとらしく笑ってみせる。  オープンしたてのころ、店の調整を兼ねて頻繁にリュー・ドゥ・ルポに足を運んでいた宗助が温室で本を読む翠を初めて見かけたのは二月の終わりのころ。  週に何度か決まった時間帯に来てはコーヒー片手に温室のベンチで一人本を読んでいく。  時折ぼーっと花や木々を眺めては、また読書に戻り、昼時の混み出す前に毎回一時間ほどで帰るのだ。  温かな外の陽射しを吹き込んだ淡い光に包まれた緑の空間で、ベンチに一人座って本を読む姿は、どこか童話の一篇のようで綺麗だった。  温室でコーヒーを飲む客は珍しく、その上翠は人目を惹く容姿ということもあってスタッフの間でも話題になっていた。  どこかいつも儚げで、線の細い繊細な横顔を遠くで見つめながら、何の本を読んでいるだろう、どんな声をしてどんな風に話すのだろう。どんな人なのだろうとずっと気になっていた。  タクシーの中で寝ぼけて翠に何かを言ったらしいが、何を言ったかなどは本当に覚えていない。  ただ、微睡みの中で温室で本を読む彼によく似た顔を見たような気がした。  夢を見たのだと思っていたが、目を覚ました部屋には相当数の本が本棚を占領しており、置手紙の末尾に掛かれた『翠』と言う名前をみて、なんとなくもしかして、と思った。  ただの勘に過ぎなかったが、どうしても確かめたくて図々しく家主の帰りを待ってしまった。  汗とアルコールの臭いに根負けして無断で風呂まで借りてしまったのは行き過ぎだったと反省している。  だが、待ったかいはあった。 帰宅した翠を見た時、思わず拳を握りしめた。嬉しさのあまり歓声と共に掲げそうになった拳をどうにか根性でねじ伏せなければならないくらいに。  カフェは全面禁煙となっているため、翠がタバコを吸うとは思いもしなかったが、タバコを持つ白くて細い指が無性に色っぽくて男相手にと思いながら目を奪われてしまった。  ゲイだとカムアウトされた時は一瞬思考が停止してしまったが、中性的な翠にはそれがしごく普通に思えてしまったし、初めて話す翠は想像と違って不愛想な物言いで、温室で見る彼とはイメージが随分と違い少し拍子抜けしたのを覚えている。  面白いな、と思った。  もっと話をしてみたいと思った。  これを最後にしたくなくて、あまり読みもしない小説を借りて次に会う口実を作ったのは否めない。 「そうだ」  と、宗助は膝を打つと、 「さっきのカボチャプディングまだ残ってるかな。残ってるなら」 「ええ、残っていますけど」  と、不思議そうに答える三佐和に、 「二切れ包んでくれないか。持って帰りたいんだけど」 「構いませんけど、どなたかにお土産ですか? あ、もしかして恋人にでも持っていくつもりなんでしょう。最近、オーナーなんだか楽しそうですもんね」  ようやく春の訪れですか? と揶揄うように笑う三佐和に苦笑を浮かべながら「違うよ」と答えた。 「ちょっとね、今日友達と会うからその時に」  と言って、無意識に頬が緩む。  今晩、翠の家に行く約束をしている。仕事が遅くなる予定なので夕飯はいらないと言ってあるが、ちょうどいい機会だ。新作のスウィーツを翠と一緒に食べよう。 「とか何とか言って、男前な顔がだらしなく緩んでますよ。まあ、今度こそは振られないようにね。美味しい物でも持参して足しげく通ってくださいな」  それじゃすぐ用意してきますね、と事務所を出て行った。  今までの宗助は仕事や友人の付き合いばかりを優先して付き合ってきた彼女達をなおざりにしてきた傾向がある。そのためか、大概が愛想を尽かされて振られるのだ。  かといって、縋って別れないでほしいと言うことも思うことも一度だってなかった。  自分はどこか希薄な人間なのだと思っていたが、それがどうだ今は。 どうも翠を優先しがちだ。  翠に対する気持ちは明らかに友人という枠を脱してしまっている。  これを色恋だと断定してしまっていいものなのか、翠を抱きしめた夜から宗助はずっと考えていた。 「お、ようやくお出ましだね~、小田桐ぃ」  冷蔵庫にカボチャプディングタルトの箱をしまっているところへ、背後から猫撫で声でそう声をかけるのは同僚であり宗助が籍を置くシステム会社の取締役である湯浅だ。  大学時代から既に才能を開花させていた湯浅に、システム会社『ジーエイト』の立ち上げに手を貸してほしいと誘われたのは大学卒業を間近に控えた冬だった。  湯浅は飄々としていて、どこか食えない感じの男だったが妙に気が合って大学在中からよくつるむ仲だった。  小柄な割に態度だけはでかく、人を食ったような笑い方がよく似合うような男だったが、実のところ結構な常識人で信頼も厚い。  元々カフェ経営をやりたかった宗助は、ジーエイトが軌道にのるまでの間だけという約束で手を貸したものの、軌道にのった今もカフェ経営との両立が思いのほか上手いこと出来ているだけに、ずるずると手伝い続けてしまっている。  大学生活を含めれば今年でちょうど十年の付き合いだ。  カフェでの月末処理を終えて、ジーエイトへと出勤した宗助はオフィスの給湯室にある冷蔵庫へ先ほど三佐和から受け取ったカボチャプディングタルトをしまったところだった。 肩越しから覗き込んで「おや?」と両眉をあげる。 「それってもしかして、俺に」 「違うよ。大事なもんなんだから食うなよ」  絶対に食うなよ、と睨みをきかせれば、尖った唇で「きょぇ~」とよく分からない言葉を発した。 「十月の新作だから、食いたきゃ店来てどうぞ」 「なんだよ。ケチくさいぞ、お前。同じ釜の飯食った中でしょうよ。おごりなさいよ」 「いいよ」  と、快諾されたのがよほど予想に反していたのか、おどけた表情が鳩が豆食ってポーっと言った感じに呆ける。 「おごるよ。おごるから、この冷蔵庫のだけは食うなよ」  と、言いやると、湯浅の顔が途端にニヤついて笑った。 「ほう。興味深い」 「ところで、お前」  両腕を組んでなにやら感慨深げに頷いている湯浅が「ん?」と顔を上げる。 「今って、あれ、マリアナの社長さんと打ち合わせじゃなかったか」  そう横目で問いながら、コーヒーメーカーからコーヒーをなみなみカップに注いでいると、その傍らでわざとらしい大きな溜息が漏れた。 「あのじーさん、まぁーたお得意の気まぐれを起こされましてね。ドタキャンされました」 「それはそれは、毎度ご苦労なことで」  いつものことで驚きもしない。ご愁傷さまとカップに口をつけながら肩をすくめてみせる。 「そんなことよりな、小田桐」 「んー?」  珍しく湯浅が怪訝な表情を浮かべるのへ、カップから口を離して宗助も眉を顰める。 「なに、どうした」 「この後時間あるか」 「あー、うん。十六時からミーティングが入ってるけど、それまでだったら」  何かあったのかと尋ねれば、社長室まで来てくれと言われてついて行った。そもそも給湯室まで湯浅が来たのには理由があってのこと。  ドアに鍵を閉めてデスクに向かうとパソコンを開く。  めったに締めない鍵をかけたとなれば、由々しき事態かと早々に察した。  傍らに立って宗助も一緒にパソコンを覗き込む。 「いやね、俺の勘違いかもーってこともあるんだけどな」  と、前置きをしてマウスで画面のURLをクリックする。 「この我が社が誇る動画投稿サイにだね」  湯浅が仰々しい言い方と共に開いて見せたのは、ジーエイトが運営するゲイ関連の無料動画サイトだ。  主に広告媒体として作っているものだが、素人も自由に動画投稿できるサイトでもある。 「これがなに」 「うーん」  と、椅子を左右に揺らしながら、 「どうもね、気になる動画がアップされてたわけなんですよ。素人投稿だと思うんだけどな」  宗助の眉も訝し気に皺を寄せる。 「気になるってどんな」 「どうも犯罪性あり的な? はっきり言っちゃえばレイプ動画」 「レイプって……本物の?」 「かもーって段階だからなんとも。ただ、俺が見てもそう思うって言うか。幸い運営がユーザーに閲覧される前に抑たけど、調べようがなくてどうしたもんかなって」  警察に連絡しようか悩んでたわけ、と肘掛けに置かれた指をぴろぴろさせてみせる。 「動画って?」 「これだ」  と、マウスで画面をクリックした。  専用プレーヤーで映し出された動画は一見普通の創作レイプ動画に見えなくもない。  ただ、犯され役の男の子たちはいずれも目隠しをさせられており、両手首を手錠でベッドのパイプに括りつけられてあった。  SMプレーの一種だろうか。  ここまでならまだ創作の域でもあるが、どうも抵抗した時につけられたであろう傷や痣がそこかしこに見て取れる。  特殊メイク的なものには見えなかったが、素人判断だけになんとも言えない。  ただ、身動きをとれないように複数人に両足を拘束された男の子の抗いようが、演技とは言い難いほど鬼気迫っていただけに、あまりにも悲惨で見るに見かねる動画だった。創作としてはエンターテイメント性に欠けて楽しめる代物ではなかった。  レイプ役の男達の顔はうまい具合にフレームアウトしていて伺い知ることができない。  犯され役の男の子は、無理な行為に泣き叫びながらもしまいには諦めたように抵抗をやめて、早く行為が終われと言わんばかりに唇を噛みしめて耐え忍んでいる。これがもしノンケだとしたらその衝撃は想像しがたい。d 「と、まあ、こんな動画が他にもあってだな」  と、湯浅は先の動画も早送りして見せた。 「どう思う?」 「ああ……」  けれど、どれも疑惑の域を出ない。  これだけでは何とも、と言いかけた時、思わず瞠目した。 「ストップ!」 「なっ、なんだよ急に」  湯浅は慌てて動画を停止させてから、ああ、これね、と言いたげに眉を上げた。 「この子ね。そう言えば、他の動画とちょっと違ったな」 「――これって……」  宗助は、まさか、とモニターを凝視する。  モニターを両手で掴んで頭まで突っ込んでしまいそうな勢いで。  まさか、そんな、と思いながら目を凝らして一時停止された動画の中の人物に食い入った。  ――翠だ。  間違いない。今よりもだいぶ痩せてはいるが、モニターに映し出されている人物は確かに翠だった。 「そんな……」  と、息を呑む。  モニターから離れてデスクに片手をつくと、もう片方の手で口許を覆った。  あからさまに動揺する宗助を横目でチラっと確認するも、湯浅は再生ボタンをクリックした。  再び流れ出す動画の中には、まだ服を上下着たままの翠がベッドの上で男に組み敷かれている。  目隠しも手錠もされていない。抵抗するでもなく、泣き叫ぶわけでもなく、どこか虚ろな視線は宙を泳いで、男達にされるがままだ。  翠の上に馬乗りになっていた男の手が、翠のシャツをそろりとたくし上げる。  あらわになった白くて華奢な胸を無骨な手で撫でまわすと、身を屈めて首筋に口づけた。 舌を這わせて鎖骨へ胸へと下りていく。  僅かに上向く顎と狭く開かれた唇から今にも吐息が漏れそうだ。 男の舌が乳輪にさかしかかって乳首を執拗に啄み始めると、人形のように生気のなかった翠の頬が僅かに上気する。  身をよじって小さく息を荒げる翠の顔は青白く、眉根を寄せて行為を受け入れる潤んだ虚ろな双眸は例えようがないほど艶っぽかった。 不意に愛撫をしていた男の間延びした声。  聞き取りにくかったが、『翠ちゃ~ん』と確かにそう言ったのだ。  その瞬間、宗助の頭の中で何かが音を立てて切れた。  乱暴にキーボードを叩いて動画を止めるとモニターの電源まで落とす。  暗転したモニターに宗助の苦々しく奥歯を噛みしめる顔が映し出された。  デスクの上で強く握られた両拳は今にもパソコンを叩き壊しそうなほど怒りで震えている。 「これ、お前の知り合いか――」  尋ねた瞬間、宗助の腕がそれ以上言うなと言うように湯浅の襟首をもの凄い勢いで鷲掴んだ。  おいおい、と言いたげの湯浅の顔に、はっとしてすぐに手を放すとそのまま口許を覆って視線を逸らす。  反射的に掴んだとはいえ、宗助からは動揺が手に取るように伝わってきた。 「お前の知り合いなんだな」  再度確認すれば、項垂れるように頷いた。 「見たのか」 「ああ」  致し方なく。頬杖を突きながら、臆することなく答える。 「けど、知り合いなんであれば、お前は見ない方がいい」  その言葉が何を指しているのか容易に分かるだけに、宗助は胸の奥を針先で刺されたような鋭痛を覚えた。  この動画は、おそらくは翠がアルコール依存症の時に撮られたものだろう。始めの何本かの動画に比べて画質も悪い上に手ぶれも酷い。  もしかしたら営利目的ではなく、当初はおふざけ半分で撮影したものなのかもしれない。携帯電話かなにかで。  痩せた体にこけた目許。  青白い顔と虚ろな目は恐らく、いや完全に酔っている。  撮影にも気づいている様子もなければ、男との行為に抵抗している様子もない。  弱っている翠の気持ちにつけこんで体を弄ぶだけでなく、あまつさえこのような動画まで撮って翠を食い物にする男達に堪えようのない怒りが込み上げて、腸が熱く煮えくり返る思いだ。  どうしたらいい。  己の感情のやり場もそうだが、この動画の処遇をどうしたらいいのか。  警察に通報すれば、唯一面が割れている翠のところへ捜査の手は伸びるだろう。  ニュースにでもなれば、いや、さすがにレイプの被害者ともなれば名前まではでないだろうが。それでもどこからともなく情報が洩れて、翠の両親の耳に入らないとも限らない。  忘れたいと思い、悔いている過去の出来事をそんな形で無理やり思い出させたくはない。  この事実を知ったなら、ようやく立ち直った翠はどうなる。 再び傷ついて自業自得とばかりに己を責めて、それこそ本当に姿を消してしまうかもしれない。 「警察に言うのはもう少し待ってくれないか」 「なんで」  ただの確認のためと言った感じに尋ねる。 「この人、俺の大事な人なんだ。少し調べさせてほしい」  素直に答えた。 「じゃ、お前だけ閲覧できるようにIP制限かけとくわ」 「悪いな……」  湯浅は先ほど宗助が落としたモニターの電源を入れ直すと、手際よく閲覧制限の作業を行いながら宗助に声だけ投げる。 「お前のお兄さん、警察官だろ。相談してみたらどうなんだ」 「いや……。それはちょっと」 「じゃあ、二番目のお兄さんは? 確か興信所に勤めてたよな。探偵さんになら相談できるんじゃないのか」 「…………」 「ま、あれだ。俺に手伝えることがあったら遠慮なく言ってくれ」      結局、あの動画の続きは見ていないが、宗助の頭の中はそのことばかりが気になって思うように仕事がはかどらなかった。  仕事に集中できず時間ばかりが過ぎていき、仕方なく今日は早々に仕事を切り上げた。  どうにかして動画の出どころを探し当てたいが、通常業務と並行してとなると難航している。  翠の家の前まで来たものの、どんな顔をして会えばいいのか分からない。  三佐和に包んでもらったタルトの箱を片手に、ドアの前で立ち尽くす。  かつてないほど、心の中がどんよりと重かった。  躊躇いながらもチャイムを押すと、いつも通り応答もなくドアが開かれる。 「お疲れ、入れよ」  ひょいと顔を覗かせた翠に促されて部屋に入る。  いつもと変わらない様子の翠は、宗助の気持ちに気づくよしもない。  後ろ手にドアを閉めながら、 「翠さん、ドア開ける前に誰が来たか確認してます?」 「してないよ。今から向かうってメールよこしたじゃん」 「そうですけど……よくないですよ」  と、いつもは気になっていても口にしないことをつい言ってしまう。  タクシーで寝こけた宗助を家にあげて携帯番号と合鍵まで置いてしまう翠はセキュリティーがかなり甘い。  今だって覗き穴で相手を確認せずにドアを開けてしまっている。  もともと警戒心が薄いのかもしれないが、こんな自分なんていつどうなっても構わないと、どこか被虐的で自身の価値を低く見積もっているようにも感じて、宗助は常に気になっていた。 「次からはきちんと確認するって約束してください」 「なんだよ、今日は随分説教臭いな」  そのセキュリティーの甘さが、あのような動画を撮られる結果になるのだと、翠を責めるような気持ちが沸いてきて宗助は目を伏せた。  翠を責めるのはお門違いだろう。  彼は被害者であって咎められる対象ではない。  分かっているのに、あまりにも無防備な翠を見ていたらなんだか落ち着かなくなった。 「とにかく、約束してください」  思いつめたような表情を浮かべた宗助を、嫌な顔をするでもなく一瞥すると、翠は素直に答えた。 「気を付けるよ」  機嫌を損ねてしまったのではと思ったが、翠の態度はいつものままで、ほっと宗助は胸を撫で下ろす。 「そうだ。翠さん、これ」  とタルトの箱を差し出した。 「何これ」 「俺のカフェで来月から出す新作スウィーツなんす。一緒に食べようかと思って」  キッチンで箱を開けて中を見る翠の顔が僅かに高揚するのが分かった。  喜んでいる。近頃よく見せるようになった何気ない反応が可愛いと思った。  そんな横顔を見て、宗助は胸がザワザワした。  綺麗だ。こんな綺麗なものをなぜ易々とあんな男達に差し出したのだと、再び翠を非難するような思いが込み上げてくる。  過去の辛い出来事から、アルコール依存症から、吐血するまで自分を追い込んで、その後のリハビリを懸命に励み、せっかく立ち直った翠を大事にしたいと思うのに。だっておそらく生半可なものではなかったはずなのだ。  身寄りもなく支えてくれる家族もいない、新宿の一角で何度も挫折しそうになりながらも依存症を克服した翠の努力は相当なものだったに違いない。  回復後もやさぐれることなく、一生懸命社会復帰に勤めようとする姿は胸を打つ。  素直で優しいままの翠でいられるのは、彼が本当は芯の強い人間だからだと宗助は思う。  心が折れそうになりながらも立ち直れたのは、おそらく祖母の存在と祖母の形見だというロザリオが大きい。  それと桂の存在だ。  周囲の視線を思えば、わざわざ居にくい二丁目などに居座る必要もないはずなのに、それでもあの場所から離れないのは、彼にとっての帰る場所が桂のところしかないからだ。  桂の傍が一番安全なのだと。  リハビリを終えて正気に戻ってからの一年間、どんな気持ちで慕恋路で過ごしてきたのか。  周りからの批判も人間関係も翠に優しかったとは思えない。  自分だったら翠を傷つけたり寂しい思いを絶対にさせたりはしないのに。  宗助はぐっと拳を握りしめた。  慕恋路で最初に会った時に、翠の過去を告白されてもこれほど意識などしなかったのに、今は翠を抱いたであろう過去の男達を思うとやるせなさで憤りそうだ。  触れたくて疼く指先を握り込む。 「……甘いもの好きっすか」 「うん、結構久しぶりだけど。俺、実はあんまし酒飲めないんだよね。その代り、甘い物は好き」  サンキューな、と言ってコーヒーの準備をし始める。  一見プライドが高そうで、実のところまったく飾らないところも好きだ。  白くて細い指もサラサラの髪も項も顎のラインも。  今日は、いっそう艶めかしく見えて、宗助は視線を逸らした。 「なあ、今食うよな?」 「はい……」  と答える宗助の顔を覗き込んで、 「何かあった?」  と、素っ気なく訊いてくる。 「あ、いえ。ちょっと疲れて」 「そうなのか?」  と、心配そうに眉根を寄せた。 「ここはいいからソファーで座ってろよ」  言われるままにソファーに腰を下ろし、Yシャツのボタンを一つ外すとネクタイを弛めた。  両膝の上に腕を組むと項垂れた。 うまくごまかし切れていない自分に頭を振る。  翠はきっと人の顔色の変化に敏感だ。それに悲観的でもなる。  宗助の態度が可笑しいと気づけば、もしかしたら自分が何かしてしまったのではないかと勘違いするかもしれない。  いらん不安を植え付けたくはないが、気取られまいと思うのに、今日ばかりはどうしてもスウィッチがうまくいかない。  来るんじゃなかったと今更悔やむ。タルトを食べたら早々に退散すべきだろう。  そんなことを考えていると、ソファーテーブルにタルトとコーヒーを持ってきて、翠もラグの上に腰を下ろした。  宗助もソファーから降りてラグの上に座りなおす。 「美味しそう。これ、カボチャ?」 「カボチャプディングです。俺も試食しましたけど上手いすよ」 「食っていい?」 「どうぞ」  角度を変えながら何度かタルトを観察すると、「いただきます」とホークの先でタルトをちょこっと取ってぱくっと口に入れる。  タルトを頬張ったほのかにりんご色の薄い唇が、昼間見た動画の中の控えめにあげていた吐息を思い出させて、宗助の心臓にチクっと痛みが走る。  長い睫毛を揺らして「美味しい」 と綻ばせるこの唇を、あの男達は何度ついばんだのだろう。  この綺麗な顔も、白くて細い体も、指も全部。  想像するだけでむしゃくしゃした。  腹立たしさに眉を寄せながら、抑えようのない嫉妬に駆られて理性を失くしそうだ。  自分の知らない翠をあの男達が知っていると思うとイライラした。  こうして隣にいて、心を開く相手は自分だけなのだと思い込んでいた。  あの時見せたあどけない笑顔も自虐的に嘲う顔も、儚げな目許も、寂しそうな横顔も、全部自分のものだと思い込んでいた。  今までの男にいったいどんな顔を見せてきたのか。どんな顔してどんな風に抱かれてきたのか。  甲斐甲斐しく世話を焼いて、望まれるままに体を差し出して。  独りが寂しくて、そこらの男達に縋って抱いてくれと懇願して。  純粋無垢な顔をしたこの男は、いったい何人の男とその肌を重ねてきたのだろうか。  宗助は胸の奥がジリリと焦げるような感覚を覚えた。  ああ、そうか。  自分は翠のことをそう言う意味で好きなのだと悟った。  あんな男達に好き勝手にいじられて、この愛想のない綺麗な顔はどんな顔をして喘いだのか。  見たい。自分の下で喘ぐこの男の顔が見たい。  上書きするように抱きしめて組み敷いて茶苦茶にしたい。  そんな浅ましいことを考えながら、翠の口許から目が離せずにいた。 「お酒の後遺症とかって、何もなかったんすか」 「え?」  いきなりなんだと、唐突な質問にホークを持つ手を止めて少し驚いた顔をする。  だが、すぐにいつもの表情に戻ると、 「別に、なかったけど」  と素っ気なく答える。 「タバコやお酒を飲み過ぎた人って、肝臓悪くして肌とか唇とか浅黒くなりがちですけど、翠さん、すげー綺麗すよね」 再びタルトを口に運ぶ手を止めて宗助を見やる。 「そう?」 「自覚ないんすか」 「さっきからなんなのお前。変な事言ってないでさっさと食えって」 「今も言い寄られたりとか、するんすか」  余計なことを口にしている自覚はある。  けれど、気になるから止められない。 「言い寄られるって、何に」 「二丁目なんかに居座って、誘われたりしないわけ」 「お前……なんか今日、変だよ」 「そうですか? いや、そうすね。俺、今日ちょっと変みたいです」 「宗助……」 「やっぱ、俺……帰ります」 「え」  タルトに手を付けないまま立ち上がると、驚いた様子で翠も腰を浮かせた。 「なに。俺、なんか気に障ること言った?」  やはりそうなのだ。  親しい人間に捨て置かれた経験がトラウマになって、相手の態度がおかしくなると、自分の非ではないかと思い込んでしまう。  そうではないのだと思いつつも、どう説明したらよいのか分からなかった。  取り繕うことも作り笑顔を向けることも今はできない。 「違うから、気にしないで」  と言うのが精いっぱいだ。  とにかく、このまま一緒にいたら翠に何をしてしまうか分からない。  宗助は動揺を浮かべる翠の目を見ないように、早々にリビングを後にした。  待ってと追いかけてくる翠を振り払って玄関に向かう。 「――待てって!」  靴を履く手前で、翠に腕を捕まれた。  はずみで振り返ると、見たことのない不安気な表情が宗助を見上げている。  隙だらけで、腕を掴む指の力から必死さが伝わってくるようで胸がトクンと鳴った。  何か言いたそうな顔をして、けれど躊躇するように少し開きかけた唇に、宗助の理性が飛ぶ。  気付けば、細い首の後ろを強引に掴んで引き寄せると口づけていた。  驚いて身を引こうとする細い体を抱き寄せて、腕の中に閉じ込めると、後頭部を抑えて貪るように唇を重ねる。  抗議するように腕を叩く翠から苦しそうな息が漏れると、いっそうそれが宗助を煽った。  喉を仰け反らせて、強引に口を開かせて舌を潜り込ませる。  体液を交えながら上顎を撫で回して、逃げようとする翠の舌を微かなタバコの残香と共に吸い上げた。  ――バンッと翠が渾身の力で宗助を突き飛ばす。  壁にもたれて、苦しそうに顔を歪めながら息を上げる翠を、宗助の感情の読み取れない目が見下ろした。 「嫌でした?」 「な、なにやってんのお前……」  狼狽えたような声で言って、袖で口許を拭うと宗助を睨み付けた。 「なんの真似だよっ」 「俺にキスされるの嫌ですか」 「嫌って……」 「他の奴にさせても、俺にされるのは嫌ですか?」  翠の頭の横に両手をついて囲い込む。 「何言ってんの……」 「あんたさ、二丁目の男をほとんど食ったって言ってたけど、食ったんじゃなくて、食われたんでしょ」 「……なに」  翠の目がゆっくり見開かれていく。  翠を傷つけたいわけではないのに。 「もう恋人はいらないとか言ってたけど」  言葉が止まらない。 「セックスフレンドだったらいいわけ?」 「…………」 「一夜限りの関係だったらいいの?」  翠の顔からみるみる血の気が引いて、表情が消えていく。 「もしかして、今でもそういう相手いたりします?」 「……いるわけ、ない」  どうしてそんなこと聞くのだと言いたげに悲痛な表情を浮かべる。  胸が痛んだ。  自分の感情がうまくコントロールできない。  こんなのは初めてだった。優しくしたいのに、今はできない。  目の前の男を独占したい。  自分だけのものにしたい。  この人の全部を――。 「あんたの、あいつらに汚された体を全部、俺が綺麗にしてあげますよ」  不遜で傲慢な言い方だった。  翠の、あからさまに傷ついた目の奥が揺れる。 「ここも、ここも……」  血の気の引いた翠の頬を首筋を鎖骨を、撫で下ろしながら再び顔を寄せる。 「……そして、ここも」  と、ベルトに指を掛けてもう少しで唇が重なる寸前、消え入りそうな声が掠れて漏れた。 「汚いから……」 「え」  触れかかった唇がビクッと震える。  その一言で宗助は全てを後悔した。  思わず体を離して翠をみやる。  怒りや軽蔑はそこになく、ただ自虐的な力ない嘲いだけがあった。  途端、我に返った宗助は今更ながら焦りを感じた。  なんて酷いことを言ってしまったのか。  汚された体なんて言えば、お前の体は汚れていると言外に言っているようなものではないか。  そんなつもりで言ったのではないのだと、弁解したところで腹水盆に返らずだ。 「翠さん、俺……」 「ずっと汚いままだから。もう……綺麗にする必要なんてないよ」  くそっ、と宗助は己を罵った。  あれだけ自分自身を蔑んでいる翠になんてことを。  ビリヤード場で見えてしまった焼き印の跡をあれほど恥じていた翠に、なんて酷いことを言ってしまったのだ。  後悔しても遅かった。  顔を背けて宗助から離れようとする翠の手首を反射的に掴むが、パンと弾かれる。  はっとしたような表情を浮かべた翠が、 「ご、ごめん。……ちょっと、やること思い出したから、今日はやっぱ帰って」 「翠さん」 「貸してる本、あれだったらやるよ」 「返しますっ!」  平静を装おうとする翠の顔を覗きこんで、 「ちゃんと返しにきますから」 「…………」  そう言っても、固く口を閉じて黙ったままの翠に取り付く島もなく、宗助は後ろ髪をひかれる思いでその夜は翠の家を後にするしかなかった。  宗助がいなくなった無機質な廊下は、静かでとても冷えて感じた。  今しがた閉じられたドアをぼーっと眺め見る。  何も考えないように、感じないように、感じてしまったら多分うまく立っていられない。 「大丈夫……」  翠は周りの空気が薄く感じて、上手く呼吸ができない感覚に胸をぎゅっと掴んだ。  落ち着いて、落ち着いて、ゆっくり息をすれば、何も問題ないから。  何も考えるな。それでいい。 「大丈夫……。大丈夫、大丈夫」  呪文のように掠れた声で「大丈夫」と言い続けた。  何も考えなければ、何も感じなければ、悲しいとか苦しいとか思うこともない。  心が傷ついたって、目を逸らしてしまえば無いのと一緒だ。  ――自分は、大丈夫。  重い足取りで廊下を進んでリビングに戻ると、ふと一緒に食べようと用意したカボチャプディングのタルトと冷めたコーヒーが目に入った。 「…………」  悲しい、辛い、押し寄せてくるそんな思いから目を逸らして通り越して、胸の奥にぽっかり空いた黒い穴だけを見据えるように心がける。  そうだ、もう、これはいらない。  翠はテーブルの上を片付け始めた。  流しに冷めたコーヒーを流して、ほとんど手の付けていないタルトをダストボックスに放り込んだ。  何も無くなったキッチンに視線を落とすと、箱からタバコを一本取り出して火をつける。  ゆっくりと煙を吸い込んで、吐き出した。 「…………」  無心というより、今は頭が上手く働かない。  不意に「なんで」と心中で呟いて、慌てて頭を振った。 「大丈夫だから」  何も考える必要はないし、思い出す必要もない。  タバコを銜えて、調味料の増えたキッチンを眺めながら、銜えたままの口端からモワァと煙を燻らせる。  増えた調味料を見て、込み上げてくる虚しさから視線を外すことでやり過ごす。  いつものように一人、いつものようにタバコを吸って、いつものように本を読んで……。 「……そうだ。本」  翠は吸いさしを灰皿でもみ消すと、本棚に駆け寄った。  本を読めばきっと気持ちも落ち着く。  余計なことを考えることもないし、一冊読み終えた頃には――。  そう思って、文庫に伸ばしかけた指先が、それを拒むようにピクピクと震えた。 「っ……」  ハッと空気を吸い込んで、伸ばしかけた指を胸の前で握り込んだ。 「……駄目だ」  掠れた弱々しい声が口から漏れる。  どうして……。  騙そうと必死で堪えていた気持ちが不意に氾濫する。  辛そうに顔を渋面させて、胸の前で手を握り締めながら俯いた。  本を貸してほしいって言ったのは宗助からじゃなかったか。  それから何度も何度も律儀に返しては借りて、その内、この本はどうのこうのと二人で意見を交換しながら感想を言い合って楽しい時間を二人で過ごしたんじゃなかったのか。  堪えきれず、目頭の奥がツンとするのを感じた。  慌てて胸を叩く。  落ち着け、大丈夫だからと。  宗助もきっと理由があってあんなことをした。  ……理由って、なんだ。  息が上手く吸えなくて、足先に視線を落としながらゆっくり落ち着かせようと呼吸を繰り返す。  汚れた体だと言われたことを思い出して、翠は胸倉をぎゅっと掴んで息を震わせた。  どこか投げやりに奪うようにされたキスはなんの嫌がらせだったのか。  翠に向けられた宗助の冷ややかな目が、優しくない口調が、堪らなく悲しくて胸が張り裂けそうだった。  宗助の胸の奥では、もしかしたら自分自身でも知らない内に翠への嫌悪感が育っていたのかもしれない。  元々ノーマルな男なのだ。翠のセクシャリティに少なからず抵抗を感じていたっておかしくなかった。  知らず燻っていたものが、翠の宗助への気持ちがバレて、それを知って拒絶と同時に溢れ出たのかもしれない。  過去の汚れた男関係が、もしかしたらその嫌悪感に拍車をかけた可能性だってある。  だとしたら、自分で蒔いた種だ。自業自得だと己を嘲笑うしかない。  そもそも何かを望むなんて、自分なんかには過ぎた行為なのだと、今更になって思い知る。  身体も経歴も薄汚れた惨めで孤独な男が辿る末路など、太陽の下を歩けるだけで充分なのだ。  そうだ、そうだった。地道にこつこつと働いて、不幸じゃないと思える程度に余生を過ごせていけたらそれでいいと、依存症を克服した後そう決めたんじゃなかったか。  悟られないように気持ちを押し隠してきたつもりだったのに……、やはり宗助への気持ちに気づいた時点で早々に離れるべきだったのだ。  今後の身の振りについて、いよいよ真剣に考える時期が来たのかもしれない。  宗助と翠とでは育ってきた環境も生きている世界も人種も違い過ぎるのだ。  でも……。  と、翠は苦しそうに目を眇める。  それでも、やっぱり宗助が好きだ。  きっと、あの楽しかった出来事に嘘偽りはないと、先ほどのことを振り返ってもそう思えた。  宗助は本当に心根の真っすぐな気遣いのできる優しい男だと今でも思える。  先刻の帰り際の宗助がそうだ。  酷く動揺した表情の宗助は、おそらく自分が翠に酷いことを口走ってしまったと我に返った途端、激しく後悔したに違いない。  だから、宗助は本当に優しいのだ。  彼もきっと傷ついた……。  それもこれも全部、自分の浅はかな欲が原因だ。  翠は、今一度本棚に視線を向けるが、今はもう本の中に逃避を図ることもできそうにないと諦観を噛みしめた。  本を手に取れば、どうしても宗助とのことを思い出してしまう。  こんな本、いくらあったってもう意味なんてない。  そう思うと、急に煩わしくなって、翠は本棚から手あたり次第文庫を乱暴に落とし始めた。  隙間ができると、手を突っ込んでそこから一気に崩し落とす。  パタパタパタと軽い音と共に文庫が床に散らばるのを無言で見下ろした。  これも、これもと、ただひたすらに本棚から紙の束を無心で落とし続ける。  ふと、ふっと被虐的に片頬で嘲った。  続けて「くくく」と、肩を揺らしてくぐもった声で笑う。  そして、また真顔に戻る。 「あーあ……」  自分の心はきっと少し麻痺している。  どれだけ虚しくとも、どれだけ悲しくても、この程度のことじゃ涙なんてもうでない。  泣きたくないと思ってはいても、実際泣けないのだ。 なんだか、そのことが無性に可笑しくて笑いが込み上げた。  楽しみだった。  宗助が、ただお茶しようというだけで翠の家に来ることが楽しみで仕方なかった。  自分では飲まないビールを冷蔵庫なんかに準備して、つくづく馬鹿だ。  再び手の甲を額に押し当てて、口端で「はは」と嘲った。  その時だった。ズボンのポケットに入れっぱなしだった携帯電話の着信音が鳴った。  携帯を取り出すと、登録していないが誰と分る電話番号がディスプレイに表示されていて、「タイミングよすぎだろ」と、更に笑えた。  今日は厄日だな。  そんなことを胸の中で吐きながら、目を眇めるでもなく顔をしかめるでもなく、ただ無表情のまま通話ボタンを押す。  無言で対応すると、真澄の神経質そうな低い声が聞こえた。 『答えを聞こうか。あれから充分考える時間はあったと思うが』  開口一番がこれか。  この兄は、挨拶の一つもできないのだろうか。  怒る気にもムカつく気にもならなかった。 「……もう、電話してこないでもらえますか」 『なに』  声を張る気にも気負って見せる気にもなれない。  正直、どうでもいい。 「だから、戻る気ないんで。金輪際、もう俺に連絡してこないでださい」 『今の生活で満足しているというのか。ゲイバーなどに入り浸って、しがないタクシー運転……』 「だからっ! あんたらとの関係なんてとっくの昔に切れてんだよっ」  なんだか急に頭に血が上って、通話口で怒鳴りつけてた。 「なんなんだよ。なんなんだよっ」  揃ってみんな勝手なこと言いやがって。  俺の気も知らないで。 「俺のこと振り回すのもうやめてよ……。あんたらが先に俺を切り捨てたんだろっ。今更どんな顔して戻れって言うだよ。戻ったらまた笑顔で和気藹々なんてことが本気でできると思ってんのかっ!」  いい加減にしろっ――。 「いい加減にしてくれっ」  そう言って一方的に通話を切った。  携帯電話を持つ手で額を抑える。  これ以上、胸の中をかき回されるのはうんざりだ。  そう思ったのに、しつこく携帯は鳴り続けた。  何度目かの着信で、ふーっと息を吐いてなんとか己を落ち着かせると、これが最後だと言い聞かせて通話ボタンを押す。 『切らずに聞け。ロザリオはどこだ』  戻ってこいという催促の電話かと思えば何故ロザリオだと、翠の顔が訝しむ。 「……は?」 『いいか、この際お前なんてどうでもいい。ロザリオだけは返してもらうぞ』  何を言っている。  今頃になってなんでロザリオを。 「返してもらうって? なんのこと」  ふざけるなと鼻で笑うと、苛立たしげな真澄の声が返ってくる。 『鎌倉の家で遺品の整理をした時、お祖母さんのロザリオだけが見つからなかった。あの人が生前弁護士に依頼していた遺書にもその記載だけが何故か見当たらない』  遺書――。そんなものがあったのかと、翠はそのことに驚いた。  祖母が、弁護士に遺書を作成依頼していたとは、一緒に暮らしていたのに知らなかった。  でも、そうか。と思いなおす。  自分は香坂家から縁を切られた人間なのだ。遺産相続に関して蚊帳の外であっておかしくない。  そう言えば、祖母が入院中に翠にくれたあのロザリオはかなり高価なものだと昔聞いたことがある。  そんな高価なものを遺産対象と知った上で、祖母は親族に黙って翠に手渡したのか。  であれば、ロザリオを持っていることは内緒にしておいた方がいいのかもしれない。 「返せもなにも、俺は持ってない」 『嘘を言うな。さんざん探して見つからなかったんだ。お前の他に誰がいる』 「俺じゃない。俺は持ってない」 『私は騙されないぞ。あの家から金目のものをと、お前がロザリオを盗んだんだろう』 「な……なに言ってんだよっ」  翠はカッとなって怒鳴りつけた。 「そんなことするわけないだろっ。あれはっ、あのロザリオは……」  ばあばが、俺に生きやすい道を行きなさいって想いを込めて手渡してくれたものなんだ。  そう言いかけて、寸前で思いとどまる。  くっと奥歯を噛みしめると、携帯を握る手がわなわなと震えた。 「だいたい、あんたたちにあのロザリオを手にする資格なんてない」 『そんなもの知ったことか』 「あんたたちは、ばあばに何をしてくれた。ばあばが入院して心細い時に、あんたたちはまともに病院を見舞ったことがあるのかよっ。死んだ時だけ早々に引き取りに来て、そしたら次は遺品あさり? 今頃になってロザリオを返せだ? ばあばが死んで何年経ったと思ってんだよ。ふざけるのも本当いい加減にしろよっ」  悲しくて、頭にきて、絞り出すように怒鳴り飛ばすと再び通話を切った。電源も一緒に落とすと携帯電話を床に投げる。 「なんなんだ……。なんなんだよっ」  本棚に両手を叩きつけると、そのまま本が散乱する床にずるずるとしゃがみ込んだ。

ともだちにシェアしよう!