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第6話

「翠、……おい、翠っ」 「――!」  はっとして顔を上げた。  見れば眉をしかめた桂がカウンターから身を乗り出している。 「あ、なに」 「ったく、なに呆けてんだ。飯、飯だよ。何度声かけりゃ気づくんだ」  そう言われて、自分が上の空だったことに気づく。  いつものように慕恋路に来ていつものようにボックス席を陣取っているが、本を読まなくなってからといい、タバコを吸いながら物思いに更けることが多くなった。  どれだけそうしていたのか、目の前の灰皿が吸い殻で山盛りだ。 「で、今日は何にするよ」 「飯はいらない」 「はあ?」  カウンター越しの桂が顔を歪ませる。  探るように目を細めて、 「なんだ、体調でも悪ぃのかよ」 「お腹減ってないだけ。コーヒーのお替りだけちょうだい」  宗助にキスされた夜から一週間が過ぎた。  本を読まなくなって一週間。  夜は寝つきがいっそう悪くなった。  悪いというより、眠れない。  目を閉じて体をただ休めているだけの毎日だ。  朝方ようやく少しうっつらうっつらしてくると、出勤までの時間までほんの数時間眠るだけ。  食欲もめっきり落ちた。  極力摂るよう努力はしているが、一口二口あたりで箸を持つ腕が重くなってテーブルに貼り付いたまま動かなくなる。  それなのに、気持ちは怖いくらい落ち着いていた。  あれこれ思い悩むのをやめて、これからどうするかだけを具体的に考えて実際に行動しはじめたらあっ気ない程に腹も座った。  なにも望まなければ、諦めてしまえば何に煩わされることもない。  誉められた考え方ではないことは分かっていたが、ただ、それが難なく生きていくためのものなら、間違っていないようにも思える。  自分がこれでいいと思うのなら、いいのだ。  何もない壁を眺めながらタバコを吸って煙を細く吐き出した。  宗助とは、あれから連絡を取っていない。  向うからは一度電話がかかってきたが無視した。  謝罪のメールも一度届いたけれど、返事は返さなかった。  翠からの返事がなくて、宗助は落ち込んでいるだろうか。  だとしても、どう返事を返せばいいのか悩むのにも疲れた。  このまま、もう連絡を取らず顔を合わさないでいるほうがお互いのためだと、翠が返信しなければそのうち宗助からのメールも来なくなる。  それで、そのまま関係が終わればそれが一番いい。  と、そこへ、「ほらよ」とポット片手にコーヒーを持ってきた桂が、翠の手元のカップに淹れたてのコーヒーを注いでくれる。 「サンキュー」 「何があったか、訊いたほうがいいなら聞くが」  注ぎながらそう言う桂を横目で仰いだ。 「いや、聞いてもらう話なんて何もないよ。ただ、太陽が沈んだだけってくらいのこと」 「太陽だぁ?」 「大したことないって意味」  と、今しがた淹れてくれたコーヒーを口に運ぶ。 「ふん」  腑に落ちないと言いたげな目をして腕を組む。 「なんだかな。愛想の無さに一段と磨きがかったな、お前」 無言で肩をすくめてみせる。 「妙に冷静な感じもなんだか物騒だぞ」  と言われて、ふっと苦笑する。  冷静かどうかは分からない。桂が知ればきっとこれから翠がやろうとしていることは衝動的なものとしか思えないだろう。  そう、きっとこれは衝動に近い。  深く考えてしまったら、沼地に足を捕らわれた野兎のように身動きがとれなくなってしまう。  冷静であったらもっとまともな考えをしただろう。  背もたれに深く寄り掛かって吸い先から上がる紫煙の行方をうっつらうっつら眺めていると、「そういや」と桂が顎髭を突き出して首を傾げた。 「お前、本はどうした」 「読むのやめたんだ」 「……なんで」 「読みたくないから」  嘘ではない。心をざわつかせるだけの本などもう必要ない。  読めなくなったと言ったほうが正しいのだろうが、それでは桂の心配を悪戯に煽るようで読みたくないと答えた。  深く追求しようかどうしようか思案顔の桂は、だが、溜息一つ吐いただけで今日のところは取り敢えず追及を諦めたようだ。 「何があったか知らねぇが、とにかく飯はちゃんと食え。それと、寝れねんならコーヒーは控えろ。それから、何があっても酒だけには手ぇ出すんじゃねぇぞ」  と念を押されて、タバコを灰皿に揉み消しながら、「分かってるよ」と短く答えた。  心配には及ばないと口端で笑って見せれば、シュッとタバコに火をつける。 「そうか? ま、……分かってんならいい」  桂はそれ以上何も言わず、店が混んできたからと厨房へ戻って行った。  テーブルに両肘をついて組んだ指に額をうずめると、「はぁ」と溜息と共に煙を吐き出す。  指に額を預けたままテーブルをじっと見つめていると、周囲の会話が不思議とよく聞こえてくる。 「気づけばもう十月だよ。早いよねー」と、客の誰かが言う。 「本当だよな。今日なんて夕方過ぎたら結構寒くてさ、もう一枚羽織ってくればよかったって思っちゃった」と、連れらしい客が応えている。  そんな何気ない会話を聞きながら、時間の流れの速さを感じた。  宗助と出会ったのは、忘れもしない七月最後の金曜日で蒸し暑い夜だった。  世間はもう秋だ。  日中はだいぶ乾燥してきて、夜にもなれば肌寒い。  冬だってもう目前だ。  そう言えば、いつかのビリヤード場で冬はスキーに行こうと宗助が言っていた。  言われた時は舞い上がりそうなほど嬉しくて、ウェアーをどこで調達しようとか考えていたりしたけれど、もうその必要もなさそうだと小さく溜息を吐く。 テーブルの縁を焦点が合わなくなるまで眺め、そのままおもむろにタバコを口に持って行こうとしたところで、視界の端に誰かがボックス席へ近づいてくるのを捕らえる。  ほどなくして、テーブルの上に影が落ちる。  また桂か、と思い面倒くさそうにのろのろと顔を上げて固まった。 「…………」  横に立つスーツ姿の宗助を見上げて、翠は僅かに眉を寄せた。 「よう」  驚いた様子もなく、素っ気ない挨拶だけを投げる。  どうも、と軽く頭を下げる宗助に、「座ったら」とタバコの吸いさしで向かいの席を指した。  言われるまま腰を下ろした宗助は、テーブルの上に長くて骨ばった指を組む。 「突然、連絡もなしにすみません。電話もメールも返ってこないんで、直接会いに来ました」  そうだろうと思っていた。  想定内だ。来なければいいと思っていたが、律儀な宗助のことだ。連絡を無視されたくらいでないがしろにするような男ではない。  遅かれ早かれ直接会いに来るだろうとは薄々予感はしていた。  だからたいして驚きもしないし、むしろ、ああ、やっぱりと言った心境だ。  まだ一週間しか経っていないというのに、なんだか凄く久しぶりな気持ちになる。  楽しかった出来事が遠い昔のようだ。 「迷惑でしたよね」  自虐的な問いかけに、「いや」とタバコの煙越しに宗助を見やりながら短く答える。  相変わらずいい男だなと、こんな時にも思ってしまう自分は本当にどうしようもないと胸の奥で苦笑した。 「今日はなに」  冷たい言い方だと自分でも思う。  けれど、笑顔で取り繕う気にはなれない。  翠のいつも以上に素っ気ない態度に、だが宗助の顔に気を悪くした様子はない。  むしろ、どこか訝しむような伺うような視線を向けている。  不意に、突然腕が伸びてきて、挟んでいた指からさっとタバコを取り上げられた。 「なにす……」 「吸い過ぎですよ」  吸い殻で山盛りになった灰皿に取り上げたタバコを消し込みながら宗助がぴしゃりと言う。  翠の顔が僅かにムッとした表情になると、なおも続けて言った。 「目の下の隈も。ちゃんと眠れてないんすか」 「元々不眠症なんでね」 「飯だって、ちゃんと食ってませんよね」 「食ってるよ」 「頬、少しこけた感じしますよ」  そう言われて、宗助を見やったまま思わず「はは」と片頬で苦笑する。 「なんだそれ。たった一週間でそんな些細な変化まで分かっちゃうの」 「分かりますね。翠さんの顔と指は、綺麗なんでよく観察してるんすよ」  どこかふざけた言いようなのに、顔は真剣そのものだ。  翠の顔から苦笑が消える。 「説教しに来たんだったら帰れよ」 「謝りに来たんです」 「謝らなきゃいけないようなこと、何かしたか?」 「したと思うんすけど」  宗助も一歩も引かずにくらいついてくる。 「知らないな」  新たにタバコを出そうと箱に手を伸ばして、けれど触れる前に箱ごと宗助に奪われる。  ついでにライターまで取り上げられてしまった。  箱を奪い取られて、目的を失ってしまった指先をぐっと握り込むと、思わず宗助を睨み付ける。 「ふざけんなよ」 「ふざけてないすよ。吸い過ぎだって言いましたよね」 「お前には関係ないだろ。いいから返せって」 「駄目です」  と、頑なな表情で言えば、取り上げた箱とライターを自分の席へと置いてしまった。  それを恨めしそうに見る翠に、 「本はどうしたんすか」  と、尋ねてくる。  お前のせいで読めなくなったとは言えず、 「飽きた」  と短い嘘を吐く。  宗助 の眉尻が僅かにピクリと動いた。 「なんだよ、飽きたら悪りぃのか」 「いえ」  そうではないのだけどと、何か言いたげに口を開きかけて閉じる。 宗助は翠に謝りにきたと言っていたが、正直なところ謝られるようなことは何一つないと翠は思っていた。  自分が与えてしまった不快感であれば、宗助は何も悪くない。  この一週間、この律儀で真面目な男は、翠に酷いことを言ってしまったと自分を責めて胸を痛めてきたに違いないのだ。  謝罪を受け入れて、もう気にしていないからと言ってやれば、宗助の胸のつかえもとれるのだろうか。 「お前の謝罪って、この間のキスのこと?それとも俺のこと汚れてるって言った ことに関して?」  この重苦しい時間を早くやり過ごしたくて、翠は単刀直入に質問を投げた。  問われた宗助は、神妙な面持ちで「両方です」と答える。 「それなら、謝罪には及ばない。俺、ゲイだからイケメンとキスできてラッキーって程度だし、汚れてるって言われたところで事実だから否定のしようがない。気にしてたんなら言うけど、謝られても困る」  頬杖をついてどうでもいい事のように視線をテーブルの角へ投げた。  宗助は悪くないから気にしないでくれと、素直に言ったらこの男は受け入れるのだろうか。  いや、きっと食い下がって自分が悪かったと頭を下げるだろう。  少し悄然とした宗助の表情を眺めていると、胸が切なく疼く。  ああ、このきりっとした眉に少し垂れた愛嬌のある眦が好きだな、と懲りずに思う。  ツンツンしているわりに案外柔らかい髪の毛も、寝付くまで語り掛けてくれた優しい声も、背中に感じた温もりも。  この唇に貪られるようにキスをされて抱きすくめられた。  自分が望んでいた優しいキスとは言えなかったけど、何かを求めるような荒々しいキス。  強引に口を押し広げられて侵入してきた温かいものに、ぬるりと舌を吸い上げられたあの生々しい感覚を、今でも鮮明に覚えている。  自分の体が汚れていなかったら、宗助はもう少し一緒に居てくれただろうか。  この間の一件で、衝動的な行動をとってしまった自分を責めて、宗助自身も傷ついたに違いない。  気を病むことなんてない。早く忘れてしまえ。  こんな男のことなど早く忘れて、翠と会う前の生活に早く戻ってくれたらいい。 「なあ、もう会うのやめよう」  しごく自然に、思い悩んでいたよりも驚くほどあっさりと別れの言葉が口からついて出た。  虚をつかれたように、宗助の目が見開かれていく。  もう謝る必要なんてない。  無理してまで俺と一緒にいる必要性もメリットもお前には無いだろう。 「お前は、お前の道に戻れよ」 「なんすか、それ」 「俺と会う前の道に戻れって」 「だから、なんすかそれ」  宗助の眼差しが険しくなる。  その眼差しをまっすぐ受け止めながら、 「俺も、俺の道を……」  俺の道を行くから、と言いかけた時だった。  バタバタと騒々しい足音と共に、賑やかな声を撒き散らしながら男が一人、分け入るようにボックス席へとやってくる。  翠の顔が心なしか曇った。 「あらぁやだ、翠じゃないのよぉ。超ぉー久しぶり。元気してた?」  と、おねえ言葉でやってきたのは、桂の知人で六本木でクラブを経営するカズと呼ばれている男だった。  月に一度かそこら桂のバーにひょっこり顔を出してボトルを二、三本入れていく。  アーミー坊主頭を金髪に染めて、耳に複数のピアスと首に太いゴツゴツしたゴールドのネックレスをしていた。  身長は宗助と同じくらいだろうか。  おねえ口調に似合わず、弓月型の目で笑む顔はかなりの男前だ。 「カズさん」 「なーによ、その顔。久しぶりに会ったって言うのにごあいさつよね」 「そんなに久しぶりでしたっけ?」 「あらヤダ。また少し痩せたんじゃないの? 痩せても綺麗なのは変わりないけど、あたし的にはやっぱり健康的な翠の方が好きよ」  と、強引に顔を寄せてきたかと思えば、あろうことか頬にフレンチキスをされた。 これには翠も少しばかり驚いた。  いつもはこんなことしないのにと。  宗助の鼻の上にザックリと川の字が刻まれる。  気持ち悪いものでも見たかのように。  不機嫌にも怒りとも取れるような表情ではあったが、翠には前者のように思えた。  沈みそうに――これ以上沈みようはないのだけれど――なる気持ちをどうにか海上に保ちながら、重苦しい空気の中で、滑稽なほどテンションの高いカズに苦言を呈す。 「今、ちょっと取り込み中なんで。後にしてもらえませんか」  と、カズにそれとなくこの場からいなくなってくれと遠回しに言ってみるが、 「だから何よ。別にいいじゃない久しぶりなんだし。あたしと翠の仲じゃないのよぉ」 「カズさん……」 「それよりさ、さっきっから気になっちゃってるんだけどぉ、こちらのイケメンリーマン君は翠のお友達か何か?」  興奮気味に宗助を指さされて、「あ」と、一瞬口籠る。  少々毛嫌いされていて、友達ではもういられなくなった友達なのだとは言えない。しかも先ほどのフレンチキスで更に毛嫌いされた。  そんなことはつゆ知らず、宗助を無遠慮に覗き込んで、 「なんだか割って入ってきちゃったみたいで、ごめんなさいねぇ~」  おほほほ、と笑うカズに、宗助が珍しくあからさまに辛辣な視線を向ける。  少々焦って翠はカズに離れるよう腕で制した。 「カズさん、そいつに構うのやめてくれませんか」 「なによ、あんた。なんなの、そのカラスでも食わなそうな愛想のなさ。もう、昔はもっと可愛かったのにぃ~」  と、大仰に落胆の眼差しをよこされて翠は溜息と共に目を伏せた。  けれど、機嫌の悪そうな宗助をちらっと見やって、ふとカズの登場はあながち悪いタイミングではなかったかもしれないと思いなおした。  自分をとりまく環境は、宗助が思う以上に綺麗ではないということを分からせるにはいい機会かもしれない。  失言をしたからといって、汚れているというのは紛れもない事実であってお前が胸を痛める程のことではないのだと。 「カズさん。昔の俺は、そんなに可愛かったですか」  矛先を少し変えて、カズの会話にのってみる。 「そりゃね」  と、うっとりした眼差しで、 「あたしに抱かれている時のあんたなんて、もう本当最高に可愛かったわよ」  宗助の眉尻がぴくぴくっと跳ねた。  目を眇めて、黙って会話に耳を傾けている。 「どれもこれも泥酔しててあたしとの情事なんて覚えていないんでしょうけどね!    次は是非、素面のあんたを抱かせてちょうだいよ」  人差し指で翠の鼻頭をピッと押すカズの手を「遠慮しておきますよ」と、軽くいなした。 「まあっ! だってあんた」  と、テーブルに両手をついて前かがみになると、ニヤリと笑う。次の瞬間、耳を疑うようなことを言ってよこした。 「男解禁したんでしょ?」  思わず目を瞠って、カズの顔を仰ぐ。 「なに、それ」 「なに、ってヤダ。あんたまさか気づいてなかった? ご覧なさいよほら。その噂聞きつけて、最近ここのバー、あんたの元セフレでいっぱいじゃないのよ」  その言葉に一瞬胸が冷える。 「ま、いっつも本ばっか読んでいるから、気づかなくて当然よね」  と、呆れたように肩をすくめる。  根も葉もない噂を真に受けて、翠と今一度関係を持とうといきり立った男達が慕恋路に集まってきているとは……。  本当に? もしそうなら「笑える」と、翠はやおら肩を震わせた。  そもそもどうしてそんな噂がたったのかと、思い当たる節を思案する。  向かいに座る整った顔の男前をみて、不意に冷静に、そうか、とその噂の根源にはたと気づいた。  宗助の目色が怪訝そうに揺れる。  ――宗助だ。  宗助と一緒にいたことで、そんなふざけた噂話がたったのだと。  ある時ぱたりと男遊びをやめて長いこと色ごとから遠ざかっていたそんな翠が、突然宗助と頻繁に会うようになったりしたから、それを周りが勝手に男遊びを解禁したと誤解したに違いない。  同時に、新たなセフレなんていう不名誉なレッテルを知らず知らず宗助に与えてしまっていたのだと思うと、どうしようもなく自分が嫌になった。  いつかの、宗助に言い寄ってきていた若い常連客が、宗助が翠の連れだと知って軽蔑の眼差しで「ご愁傷さま」と言ったことを思い出す。  振り返ってバー内の客達の顔によくよく視線を走らせれば、確かに、いつもの客にまじってこの店ではあまり見ないような面子が妙に多い事に気づく。  翠はその中に確かに何人か覚えのある男達を見つけて、眉を顰めた。 「ねぇ、いるでしょぉ?」  どうやら、カズの言っていることは嘘ではないらしい。  なぜこうもタイミングが悪いのだと己を呪う。宗助がいるときに限って浅はかだった過去の産物が後をついて回るのだ。  不意に、「お前がロザリオを盗んだんだろ」と、一週間前に真澄に言われた言葉が頭をよぎった。  いわれの無い手前勝手な疑いに、今回の男解禁云々と言うあずかり知らぬところで一人歩きする噂が、頭の中をザーッと流れていく。  ブラウン管の中の砂嵐を眺めているようで、後味の悪い笑いが込み上げる。  「ははは」と、乾いた声が口端から漏れた。  ここ最近、ようやく心の中でケリをつけた過去を自分の意図しないところで掘り返されてばかりだ。  自分を捨てた家族のことも過去のアルコール依存症も男関係も、どれもこれも足元を覆い隠すように芽を生やして翠の行く先をしつこく塞ぐのだ。  これが因果というものなのかと、達観めいたものがよぎると、なんだか笑うしかないなと、はにかみながらくぐもった声で笑うのへ、宗助が心配そうに身を乗り出す。 「どいつもこいつもおめでたい奴らばっかで。笑えるよ」  背もたれに深く寄り掛かって天井を仰いだ。 「全くもって、売れない三文ドラマみたい」  そうおどけた口調で言えば、急に真顔になってじっと天井を見上げた。  若気のいたりを悔やむのは、これで何度目だ。  ――本当に、あんなこと、しなければよかった……。  後悔の溜息を吐こうとして、不意に翠は息がうまく吸えないことに焦った。  吸うと息が詰まるような気がして、翠はとっさに胸元をぎゅっと掴んだ。 「翠さん? ……どうしたんすか」  宗助の少し慌てた声に、構うなと頭を振る。  なんだかここ最近、息が詰まるようなことが増えてきた気がした。  空気が凄く薄く感じて、呼吸がしづらいような、そんな感覚が。  年かな、と思うと、途端情けなくなった。  情けなくなると、宗助からの連絡を頑なに無視していた自分が、ふと馬鹿々々しく思えた。  結局、顔をつき合わすことになるくらいなら、適当にメールに返信でもしてやり過ごしておけばよかった。  返信していれば、下手に顔を合わすなんてこともなったかもしれない。  顔を合わさずに終わりにできれば良かったのに。  気分が少し悪くなってきて、翠はのろのろと立ち上がる。  とにかく、今はもうこの場にいたくない。 「翠さん」 「翠?」  困惑顔の二人から目を逸らして、 「俺……帰るわ」 「みど……」 「お前も、もう来んな」  そう早口で言い捨てると、翠は逃げるようにその場を離れる。  呼吸が心なしか荒い。  客達の合間を顔を伏せて足早に通り抜けると、重い黒檀のドアを押しのけて外にかけずり出る。  ひんやりした空気がすーっと胸の奥に入ってくると、立ち止まって少しくらっとする頭を押さえながら大きく息を吸い込んだ。  ビルの合間から僅かに見える三日月が、滑稽なくらい綺麗だ。  しばらく、慕恋路には来られない。  本も読めない、唯一の拠り所だった慕恋路にも行けない。  ここいらで、この辺りに居座り続けるのも本当に潮時だな。  と、目を伏せたその時、突然背後から腕を捕まれてぎょっとした。 「――宗助っ」 「翠さん、頼むから逃げないでよ」  翠の後を追いかけてきた宗助が、怖いほど真剣な眼差しで見下ろしている。  その視線の強さに一瞬どきりとした。  掴まれた腕を解こうと抗うも、宗助の手の力が強すぎてびくともしない。 「どうして、放せよっ」  なぜそんな強い力で掴むのだと抗議の目を向けるが、宗助が翠の腕を解放することはなかった。 「放せっ」 「嫌です」 「もう会わないって言ったろ」 「嫌です」 「いい加減、目ぇ覚ませよ。お前だって聞いてたろ、さっきの話。俺といたって碌なことないんだってば。分かれよ」 「それってどの話のこと言ってるんすか」 「は?」  掴む手にいっそう力を込められて、思わず「いたっ」と顔を歪ませる。 「あんたが、カズって男と寝てたってこと。それとも男解禁してたってこと。元セフレがあんた目的にこぞってバーに集まって来てるってこと? それ以外になにかあるって言うなら教えてくださいよ」 「ええ? ……お前分かんない? 俺といると、お前まで同類に見られちゃうって気づけよっ」  悲痛に眉を歪ませて絞り出すように言えば、いきなり掴まれた腕にぐいと引き寄せられる。  「あっ」と、驚く間もなく鼻先が触れ合うほどに顔を寄せられて、翠の鼓動は跳ね上がった。  目を逸らすことすら躊躇われるほど真剣で真っすぐな眼差しにたじろぐ。 「翠さん、俺のこと嫌いになりましたか」 「それは……」 「俺は好きですよ。翠さんのことが大好きです」 「……大好きって?」  何を言っているんだと眉を寄せる。  無理してまで翠に気を遣って友達を続けてくれる必要なんてないのに。  むしろ、憐憫からそのようなことを言われても逆に辛いだけなのに。  同情ならいらないと、口を開きかけて、 「誤解しているようなので言っておきますけど」  と、遮られる。 「俺の好きは、ライクじゃなくてラブの意味での好きですから」 「――――」  え、と声にならない声をあげた。 「これでも分からないようなら、もっと平たく簡潔にいいましょうか」  ぐっと掴む腕に力を込められて鼻先が翠のそれに触れる。  射抜かれるかと思うほど見つめられて息を震わせた。 「俺は、あんたを抱きたい」 「……な、に」  一瞬、頭が真っ白に飛ぶ。  言われた内容が信じられなくて、驚きのあまり宗助を凝視したまま息を止めた。  思考回路がショートしたまま目を見開いていると、不意に慕恋路のドアが勢いよくバンッと開かれる。  一瞬ビクリと肩を震わせて、慌てて宗助の鼻先から顔を離した。  腕を掴かまれたまま、宗助の肩越しに恐る恐る目を向けると、仏頂面の桂が短いタバコを口に銜えながら無精髭の顔を覗かせたところだった。  宗助も半身で振り返る。  桂は二人の状況に目を細めながら、口許からタバコをつまんでフーッと煙を撒き散らと、「宗助っ」と大声を張り上げた。  凄みのある熊男の低い声に、冷静な声で「はい」と返事をする。  もう一度タバコを噛むように吸うと、紫煙をモワッと吐き出しながら言った。 「そいつ、家まで送ってけ」 「桂っ」  抗議の意味を込めて名前を叫ぶが、宗助にぐっと抑えられて失速する。  仰げば、桂に顔を向けたままの宗助が頷いたところだった。 「お前も、本当にバカが付くほど過保護だな」  そう苦笑交じりにカウンターに頬杖を突きながら戻ってきた桂を出迎えるのは、おねえ言葉を低い声の男言葉に戻したカズだ。  おねえ言葉は言わば営業向けの顔であって、本来のカズはこっちになる。 「お前の弟も、あの世でその変貌ぶりに今頃脱帽しているだろうな」  桂の弟は今から十五年前に急性アルコール中毒で亡くなっている。  その弟と友人だったカズは、その頃の桂を思い出して、随分丸くなったと可笑しそうに笑った。  桂はカウンター越しにカズの正面に戻ると、今の発言を鼻息一つでやり過ごす。 「なんでもいいが、あんましあいつを揶揄ってくれるな」  グラスを二つ並べてスコッチを浅く注ぐ。  その一つをカズの前に置くと、もう一つをくいっと一気に飲み干した。 「揶揄ったんじゃなくて、俺はあいつに忠告してやったんだ」  そう言って、出されたブランデーを一口、口に含む。 「噂は嘘じゃない。お前も知らないわけじゃないだろ。店の客もどこまで本気か知らないが、翠目当ての奴らがいるって言うのは間違いない」  これで、翠も当分は慕恋路には近寄らないだろう、と付け加えた。 「どっちが過保護なんだかな」  けっ、と毒づきながらタバコに噛みつく。 「ま、変な動画が出回ってるって言う噂もあるしな。お前の言う通り、警戒心の薄い翠にはちょうどいい忠告だったかもしんねぇな。ま、それはさておきよ……」  眉を顰めてカウンターに片肘をつきながら身を乗り出すと、すまし顔のカズをじっと睨み据えた。 「いつまであの糞みてぇな冗談言い続けるつもりだよ、お前」 「糞って?」  グラスの淵を上から吊るすように指で持って、くるくる回しながらニヤリ顔を桂に突きつける。 「宗助のいる前で、あんな冗談言うことたぁねぇだろうがよ」 「無粋よねぇ。当て馬になってあげたんじゃない。フレンチキスまでしてあげて」  大サービスよ、とおねえ言葉にスウィッチしたカズが、 「あんただって気づいていたんでしょぉ? あの重苦しい空気。見てたらこっちが息詰っちゃって気づいたらこのお口が勝手に動いちゃってたの」  と、唇を尖らせて人差し指で「こーこ」と指してみせる。 「やめろ、気持ち悪ぃ」  苦虫でも噛み潰したような顔の桂に、男声に戻したカズが、 「やだね、これだからゴリゴリのノンケは」  と、肩をすくめてみせた。 「いつか翠に、ちゃんと言ってやれ。お前が翠と本当は寝てねぇってことをよ」 「気が向いたらな」  と、悪戯に眉を吊り上げて笑う。 「酔いつぶれたあいつをこの俺がただ介抱しただけなんて、沽券にかかわるんだよ。もうしばらく、抱いたってことにしといてくれ」  お・ね・が・い、と人差し指で空をポンポンポンと弾いて見せた。  「だから気持ち悪ぃんだよ」と、あからさまな渋面の桂に、「はぁー」と深い溜息を吐くと、 「本当に残念だよ。お前がノンケで」  と、ぐいっとグラスの中身を飲み干した。

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