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第9話
「泣いているのかい?」
目が覚めて、初めに聞こえた第一声がそれだった。
見慣れない白い天井をうっすらと開けた瞼の奥で仰いで、それからゆっくりと横を向く。
知らない男だった。
品の良さそうなスーツを着込んで、利発そうな大きな目の、小柄な若い男だ。
どこか楽しそうに、人を食ったような笑みを浮かべながらベッドの傍らの椅子に腰かけ翠を覗き込んでいる。
けれど、不思議と嫌な印象を与えない男だった。
泣いているのかい、と問われて、言われてみれば目の下がなんとなく湿っているような気がした。何年ぶりの涙だったのか。
体はまだ重かったし、寝起きとあって頭もまだどこか朦朧としている。
窓の外を見れば、陽も暮れかかってもうじき夜の帳が下りるころだった。
見て察するに、自分は今、病院のベッドの上で点滴に繋がられている。
しかし、覗き込んでくる男の表情からするとおそらく状況はさほど深刻ではなさそうだと判る。
朝早くに真澄が家に来て、散々なことを言って出て行ったところまで思い出す。
そう、あのあと息が苦しくなって、頭痛と眩暈とで倒れた翠を宗助が支えてくれたのだ。
遠のく意識の中で、宗助の必死の呼びかけだけが最後の記憶として残っていた。
「過呼吸症候群だってさ」
男は翠の頭の中でも見えるのか、そう先に言ってよこした。
「ただの過呼吸じゃなくて、過呼吸症候群な」
と、二度同じことを言って詳細を加えてくれた。
「心因性の過呼吸なんだと。要は過度のストレスと貧血と寝不足ね。退院したら肉でも食ってよく眠ってちょうだいよ」
そうか、この男を自分は知っている。
この独特な言い回しにはきはきした声を。
どうしてここにいるのかは分らなかったが、翠が目を覚ますまで横に居てくれたことは確かだ。
「ありがとう、湯浅さん」
名前を呼ばれて一瞬両眉をひょこっと上げた湯浅は、すぐにまた笑顔に戻ると全て理解したように一つ大きく頷いてみせた。
「気分はどう?」
「凄くいいよ。体は重いけど、気分は最高にいい」
「経過観察で明日まで入院だって聞いて、今さっき小田桐が君の着替えを取りに戻ったところ。それと、桂って人もいたけど店があるとかで帰ったよ。明日の朝また来るってさ。気遣ってくれる人たちがいて、幸せだな」
「うん、本当に」
心からそう思って、そっと天井を見上げた。
「動画の件、まだ間に合うかな。俺で協力できることがあるなら警察に行こうと思う」
横目で見やると、湯浅がゆったりと腕を組んで大きく頷く。
「ああ、間違いなく間に合うよ」
「――それと」
「ん?」
「宗助は、あげられない」
その言葉に、湯浅の飄々とした顔がポカンと数秒呆けると、突然ベッドサイドのパイプ柵に突っ伏して、押し殺した笑い声とともに小刻みに肩を震わせ始めた。
人が真面目な話をしているのに急になんだと怪訝に眉を寄せると、涙目の顔をばっと上げて「悪い悪い」などと言いながらなおも笑い、ようやく一呼吸おいて「はぁー」などと溜息を吐いた湯浅が、居住まいを正すと神妙な面持ちで左薬指を翠の前に翳してみせた。
「いやいや、ホント悪いな。俺、こう見えて既婚者なんだわ」
「え?!」
「いやぁ、なんか弾みっていうか流れっていうか、なんとなく言ってみたくなっっちゃった、みたいなね。ゴメンっ」
と、欠片も詫びている様子などない笑顔の前で両手をパチンと合わせてみせた。
「じゃあ……」
「やめてくれ。俺はいたってノーマルだし、君ならまだいざ知らずあの図体のでかい岩みたいな男なんて世界がひっくり返っても無理」
本当に嫌そうに煙でも撒くような手つきで空を何度も払ってみせながら、最高にいい奴ではあるけどな、と付け加えた。
「ま、でも。ともあれ、なんだか色々と向き合う決心がついたようで何よりなんじゃないの?」
この人は、本当は超能力者で、翠の考えていることが映像のように見えているのではないかと思ってしまうほど言っていることがいちいち的を射ていて、自然と顔が警戒心を帯びてしまう。
そんな翠のことなどおかまいなしに、湯浅はパイプ柵に両腕を乗せて翠を覗き込むと、年下なのにどこか大人びた優しい眼差しで穏やかに言った。
「ゲーテだって言ってるでしょうよ。反省はするべきだが、後悔はしなくていい。ってね。後悔は今も未来も不完全なものにしてしまうけど、反省は将来に幸福を与えてくれる。うじうじしてないでさ、ちゃっちゃか反省してケリつけて幸せになってちょうだいよ」
翠は少し困ったような顔で、でも、その通りだなと小さく頷いた。
「達観してるんだな、湯浅さんは」
「頭がいいだけ。ほら、お喋りはおしまいだ。小田桐が戻ってきたら起こしてあげるから、もうひと眠りしたらいい」
その言葉に遠慮なく甘えることにした。
無事に退院してから、例の動画の件で二度ほど警察を訪れた。
動画の中で男が翠のことを『翠ちゃん』と呼んだこの呼び方に心当たりのあった翠は、そのことを警察に伝え、次に形式的なものだからと面通しで再び警察を訪れた。
警察の対応は迅速で、十日と経たずに犯人たちは逮捕され、その後の捜査については何も知らされてはいないし、別段知りたいとも思わなかった。
警察に被害届を出すかと訊かれたが、その必要はないと断った。
宗助とは退院してから短いメールのやりとりをするぐらいで一度も会っていない。
かれこれ三週間近くが経とうとしている。
避けているというわけではない。宗助も動画の一件で色々と忙しく、単純に会う機会が無かっただけだ。
動画の件もひと段落して、辞表も撤回したと連絡をもらったのがつい数日前だ。
季節は冬に突入してカレンダーも十一月に変わった。
翠は今、吹き曝しの湖畔に一人佇んで湖面からの冷たい風に髪の毛を揺らしながら、目の前に広がる日本一大きな湖――琵琶湖を眺めている。
既に携帯電話の時刻は十六時二十分になろうとしている。
東京駅始発の新幹線で滋賀県米原駅まで行き、そこからタクシーに乗って琵琶湖の湖岸に到着したのが今朝の八時半ごろ。
そこで堀切港から通船に乗り沖島まで行って半日かけて祖母の生まれ育った島を見て回ってきた。
あまり知られていないようだが、沖島は琵琶湖にある島の中で唯一人の住む島だそうだ。
もっと言えば、日本で唯一の淡水湖に浮かぶ有人島とも言える。
本土からの架橋は無く、沖島に行くには堀切港から船に乗るしかない。
それでも、十分も乗っていれば沖島に着いてしまうほどの近い距離だ。
その歴史は保元・平治の乱で敗れた源氏の兵が沖島に逃げ延びて、山裾を切り開き漁業を生業として島に居住することから始まるらしい。
二つの山が連なってできたような島で、島民はみんな山裾で暮らしている。
信号は無く、車も無い。その代り漁業で生計を立てている人たちがほとんどで、およそ一人一隻は舟を持っているとか。
石材産業もかつては盛んだったようだが、昭和中期頃に組合解散と共にその歴史は幕を下ろした。
人口約四百人の小さな島で、一周七キロほどしかないため数時間も歩けば島内をぐるっと観光できてしまう。
年寄りばかりの昔ながらの古い家々とただ目の前に広がる琵琶湖があるだけの、他には何もない場所ではあったが、七人の落ち武者から始まったこの島の暮らしは、住む人みなが親戚のようなもので、お互いにお互いを支え合いながら千年もの長い間共に過ごしてきた島なのだ。
ゆえに、島民の沖島に対する愛着はとても強いのだという。
港を降りて左右に伸びる一本しかない道にそって家屋が並び、家の前にはごろごろと生活用品などが転がって古き良き時代の家並みが続いていた。
そこでは笑顔の島民たちが日々の営みを刻み、三輪自転車などが行き交って、年寄りばかりとは言え、うらぶれた様子など一つもなかった。
今もなお、穏やかな時間が流れている。
祖母はこの島で生まれてこの島で育った。
病院で夢を見て以来、祖母の生まれ故郷がとても見たくなりほとんど思いつきで計画を立てたようなものだ。
祖母の後悔がなんだったのか、遠くにいても近くにある想いとはいったいどういう意味だったのか。それはもしかして、好きな相手を残して島を離れなければならなかった若かりし頃の祖母の想いだったのではないかと翠は思う。
ロザリオの山茶花に込めた想い。傍で咲いていたかったと呟いた、生涯変わらず想い続けることを貫いてこれたことは幸せだと呟いた、それらの言葉が示すものは、おそらく。
本当にそうだったのか、確かめたいと思ったわけではなかったが、一度でいいからこうして祖母が死ぬまで想い続けた故郷を自分の足で歩いて見てみたかった。
来て良かったと思う。
その家は直ぐに見つかった。
何本か裏の細い通り道を歩いていた時、小さな庭先で色鮮やかなピンク色の山茶花を見つけた。
鎌倉の古民家の庭をもっと小さくしたような、それでもまるで同じ情景かと見紛うほどによく似た庭だ。
ああ、ここだ。と思った。
ここに、祖母の想い続けた人がいる。結ばれることのなかった、自分たちの気持ちを山茶花に見立てて、人知れず互いを想い続けた者同士の、遠くにいても近くにある気持ちというものが、ここに確かにあったのだと感じた。
それは翠が生まれるよりもずっと昔の、育まれずに終わらされてしまった切ない恋だ。
物悲しくも何も言わず寒さに耐えながら毅然と咲く山茶花の花を見て、じわっと目頭が熱くなるのを感じた。涙がこぼれるのを必死で堪えた。
ああ、本当に祖母は死んでしまったのだ。ようやく、長年胸につかえてきたものが取れた気がした。
しばらくじっとその庭を眺めていたら、不意に後ろから声を掛けられた。
振り向くと、祖母と同じような歳のお婆さんが、片手に買い物袋ともう片手で杖をついて立っていた。
どこか不信顔で首を傾げる。
「何かご用やろか」
「いえ……山茶花が、とても綺麗だったので」
とっさに出た言葉だったが嘘ではない。
確かに、人の家の前で見ず知らずの男が立っていれば怪しまれて当然だ。
「観光でこの島を見て回っているんです。お婆さんは、この家の方ですか?」
それとなく観光客を装って問うてみれば、カツカツと杖を突きながら翠の前をゆっくり通り過ぎ、庭の入口まで来ると立ち止まって、曲がった腰を伸ばすように山茶花を仰いだ。
「はあ、ほーか。綺麗やろ」
「この家にはお婆さんだけですか」
変な質問だったかもしれない。
「そうや。爺さんはもうとうの昔におらんなったき、今はわし一人じゃ。あんた、どこから来やぁた?」
「東京から」
「……ほーか」
「山茶花はご主人が? 生前に?」
山茶花を見上げたままのお婆さんに尋ねたが、お婆さんは体制を戻すと杖を持つ手で軽く腰を叩いてそのまま答えなかった。
耳が遠くなっているのかもしれない。もしかしたら少し痴呆も混じっている可能性も。
長居は無用に思えた。
お婆さんの話が本当なら、祖母の想い人は既に他界している。
少なくともここへ来た目的は果たせた。
祖母の生まれ故郷を見て周り、山茶花に込めた想いをこの目で見て感じた。
励みでもあり戒めでもあり後悔でもあった山茶花。
遠くにいても、互いに無言に咲き誇る山茶花に想いを寄り添わせることでしか遂げられなかった二人の運命は、やはり哀しいと思う。
目に焼き付けようと鮮やかなピンク色の山茶花を眺めていたら、お婆さんがカツカツと杖をついて庭の中へと入って行った。
翠もそのまま背を向けて、来た道を歩き出す。
さようなら、と胸の内で言いたかったが、今は呼吸を整えるので精一杯だった。
引き結んだ唇が小刻みに震えて、ひとたび隙間でも開けば喉元まで込み上げた感情が一気に溢れだしそうだった。
拳を握りしめて唇を噛みしめた時、ふと、目の端に、いや、気配が、はらりと落ちる花の気配を感じて釣られるように振り返った。
お婆さんが、立っていた。
垂れ下がった目蓋を大きく見開いて、その顔がみるみるひしゃげる。
同時に翠の顔もぼろぼろと零れる涙と共にひしゃげた。
「しのちゃんは……逝ったんか?」
「…………」
ああ、こんなことがあるのだろうか。
今、目の前で、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたお婆さんを見て、翠の顔もたまらずにぐちゃぐちゃになる。
しゃくりあげて言葉が出せなかった。
「逝ったんか?」
お婆さんの必死の問いかけに辛うじて頷いて、そしたら嗚咽が止まらなくなった。
「ほうか。……ほうか」
祖母の想い人が、今にも崩れ落ちそうなほどぼろぼろと子供みたいに泣いていた。
沖島から堀切港に戻ると、近くのコンビニで冷たい缶コーヒーを買って泣き腫れた目を冷やしてから、しばらく湖畔を歩いた。
ぼちぼち時刻は十七時になろうとしている。
冬の夕方とあって、さすがに湖水浴を楽しむ者もいなければ、湖岸を散歩する人もほとんどいなかった。
紅葉の季節はいつの間にか終わりを告げていて、今は葉衣を脱ぎ落した木々が寒空の下その枝をさらしている。
途中途中幾度か足を止めては、夕陽を浴びて蛇の鱗のようにさざめく湖面を見つめながら、憑き物が落ちたように軽くなった胸にひんやりと冷えた空気を吸い込む。
沖島に行くと決めた直後に知ったことだが、目の前に広がるこの琵琶湖に祖母は眠っている。
真澄の件で、ここに来る数日前に横浜の父に電話を掛けたのだ。
数年ぶりの、祖母が死んで以来の電話だったが、てっきり取り合ってくれないものと思っていたが、父は黙って翠の話を短い相槌を挟みながら聞いていた。
十分そこらの会話だったと思う。
真澄の借金に関しては、父も薄々気づいていたところがあったらしく、翠のところまで迷惑行為が及んでいたことまでは知らなかったようだった。
父は、ロザリオについては何も触れずに真澄の件についてだけきちんと対応すると約束してくれた。
そこで会話はいったん終わり沈黙が流れた。
聞きたいことは色々あった。真澄から聞かされた自分の生い立ちについても、その後の神父が実際はどうなったかなども。
けれど、全ては今更のような気がして、聞いたところでなんの意味もないように思えた。
気が付けば、「沖島に行こうと思ってる」となぜか言う必要もないのに言っていた。
「そうか」と、どこか考え込むように相槌を打った父は、それからしばらくして、「お祖母さんの骨は、お祖母さんの希望で琵琶湖に散骨した。お前が何度教会墓地に足を運んでも見つけられなかったのはそのためだ」と、長いこと隠し通されてきた真実をなぜだか父は翠に教えてくれたのだ。
それは罪悪感からだったのか、それともほんの僅かでも残っていた親心からだったのか、なぜ今になって教えてくれる気になったのかは分らなかったが、その上、翠が何度も教会墓地を訪れていたこともなぜ父が知っていたのかも分らなかったが、翠は素直にただ「ありがとう」とだけ返した。
そのあと、どちらも何も言葉を発することなく数分の沈黙を共有して、しばらくして父の方から電話を切った。
なぜだかその時、父も後悔しているのではないかと思った。
電話を切るまでの長い沈黙が、父からの翠への今の気持ちを代弁しているようだと、そんなことあるはずもないのに、どこまで自分はおめでたい奴なのかと自分で自分を嘲いたくなるけれど、けれど、そう思えるような沈黙だったのだ。
湖岸のはずれにある小高い岩山に上ると、ジャケットのポケットに手を入れて凪る琵琶湖を遠くまで見渡した。
風が止んで辺りがしんと静まり返る。
時折後ろの国道を走る車の音が遠くから聞こえてくるだけだ。
「そんなところに登って、何してるんすか」
そう声を掛けられて、翠は口許に微笑みを浮かべると一呼吸おいてからゆっくりと向き直る。
「ちょっとな。お別れを言ってたんだよ」
少し見下ろす位置に濃紺のタートルネックにモスグレーの厚手のカーディガンを羽織った宗助が、いつもと変わらない人好きのしそうな笑顔で翠を見上げて立っていた。
「早かったじゃん。十七時までにはまだ時間がありそうだけど」
「思いのほか道が空いてて。お邪魔しちゃいましたか?」
と、腕を組んで首を傾げる宗助に、「いや」と短く答える。
そのまま小岩を下りることなく正面の湖に視線を戻すと、夕陽が反射して眩しい湖面に目を細めた。
「ばあばにお別れをしてたんだ。父さんに電話して、……あ、父さんに電話した件はおいおい話すから。その電話でさ、ばあばの遺骨はこの琵琶湖に散骨したって教えてもらったんだ」
「散骨?」
「うん、ほら、あそこに見える小さな島。沖島って言って、ばあばの故郷なんだよ。今日は朝からその沖島を見て回ってきた」
僅かに目を丸くして驚きを露わにする宗助に、「沖島でのこともあとでゆっくり聞いてよ」と付け加えて先を続けた。
「俺さ、ようやくばあばにさよならが言えそうだよ」
「翠さん」
「急に呼び出したりしてごめんな」
「いや、別に。まぁ、確かに昨日メールもらったときは多少なりとも驚きはしたけど」
と、苦笑を浮かべる宗助に笑みを返しながら、
「どうしてもばあばに返したいものがあってさ。一人だとちゃんと返せるか不安だったから」
「なにを返すんすか」
翠はジャケットのポケットの中から総ゴールドの祖母のロザリオを取り出して一度ぎゅっと握り締めると、鎖の部分を掴んでぶら下げるように「これ」と宗助に翳してみせた。
「これを、ばあばに返す」
「……返すって。ロザリオすよ。どうやって――」
「――こうやって!」
鎖を掴んだまま遠心力を使ってロザリオをくるくる回すと、翠は短い助走とともに湖めがけて勢いよくそれを投げ飛ばした。
「あっ」と宗助の慌てたような悲鳴が聞こえたけれど、宙高く舞い上がったロザリオは、夕陽をめいっぱい浴びてキラキラと輝きながら一瞬ののちに数十メートル先の湖面に吸い込まれるように姿を消した。
終わった。これで、ようやく終われた。
込み上げてくるものがあったけれど、代わりに小さく笑った。
湖面を凝視して言葉もでないほど愕然としている宗助に向かって勢いよく小岩を駆け下りる。
そのまま宗助の手を取って「行こう」と引っ張った。
顔は自然と微笑んでいた。
すごく気分がよくて、同時にぐずぐずしていたらこのまま泣き崩れてしまいそうだった。
なんで、と言いたげな宗助の目を見やりながら、
「もう俺には必要ないから」
と、言ってやる。
それでも宗助は眉をひっつめて、翠が正気なのかどうなのか見定めているようだった。
「行こう、宗助。お前さえよかったらさ、どっかで一泊しない?」
その提案に、宗助の表情がますます困惑する。
翠はくすくす笑いながら、
「どうせ車で来てるんだろ? 夕飯でも食べがてらどっか泊まれるとこ探そうよ」
「……いんすか。その、それで」
どこか戸惑いを隠せない様子の宗助の手をぐいぐいと有無を言わさず引っ張って歩き出す。
「名古屋辺りまで戻ってそこで探すか」
会話が噛みあわないのに、なんだか浮かれているような気分だった。
手を引っ張って歩く背後で、やおら溜息が漏れ聞こえる。
宗助も、この突飛な状況にあれこれ考えるのを放棄することにしたらしい。
「名古屋いっすね。ひつまぶしでも食いますか」
お供しますよ、と苦笑しながら歩幅を合わせて翠と肩を並べた。
宗助の運転してきた黒のSUV車に乗り込んで、琵琶湖を後にしてからの翠と宗助は、車中で今までにないほど饒舌だった。
確信に触れることを互いに無意識にやり過ごそうとしているような、まったく違うところに関心をもっていこうと躍起になっているような、なんとも異様なほどテンションの高いやりとりを繰り広げた。
まずは病院で見た祖母の夢について語った。主に山茶花や焼き芋についての話をかいつまんでした。SFよろしくまるで同じ日を二度繰り返しているような奇妙な夢だったと面白おかしく少し脚色を加えながら話した。
それから警察でのことや、父との電話のことを話して、その後、今朝見て回ってきた沖島のことを話して聞かせた。
宗助は運転しながら、時折翠の方をちらちらと見ながら合いの手をいれて話を聞いていた。
沖島で見た山茶花についても話した。
けれど、そこで出会ったお婆さんのことはなんとなく伏せた。ばあばとお婆さんの大事なことのように思えてひっそりと胸の奥にしまっておこうと決めたのだ。
宗助にはその家の既に他界したご主人が想い人だったのではないか、と推測する風を装って話しておいた。
そうこうしている内に車は三重県の木曽川にさしかかる。
あと十分も走らせれば愛知県に入って、三十分もしないうちに名古屋に着くだろう。
ひとしきり話終えた翠は、なんの気なしに宗助の家族について話題を振っていた。
湯浅から少し聞いた話では兄貴が興信所に勤めているとの話だったか。
その辺りを投げると、宗助も色々と小田桐家について話をしてくれた。
最初は普通に家族構成を説明された。
その中で色々と謎となっていた部分も解明されていくのだが、それが驚くことばかりで翠はそれらについてにこやかに話す宗助の横顔を名古屋に着くまでの間凝視したままとなる。
まずは宗助と知り合うきっかけとなったタクシーでの寝言について。
『警察だけは……』の真相はなんとも宗助のお粗末な部分が露呈するものだった。
聞けば、タクシーの中で寝こけたのはあれが初めてではなく、その上警察に届けられたことも両手の指では足りない程だと言うから、翠は驚くのを通り越して呆れるしかなかった。
その度にその報告がちくいち警察官である長男の元へいくことから兄の我慢も限界に達し、次に警察に届けられるようなことがあれば宗助が後生大事にしていると言う原辰徳の直筆サインボールお焚き上げのうえ、ご近所公開丸刈りの刑だと最終通告を突きつけられたのだとか。
傍からしてみればなんとも幼稚で無害にも等しい刑罰ではあったが、宗助にしてみれば原辰徳の直筆サインボールを人質に取られたうえ、いい歳して丸坊主にさせられるとあって、無意識に防衛本能が働きあのような寝言を吐いたのではと推測しているらしい。
「…………」
サインボールが無事で良かったな、とでも言ってやるべきなのか。
それとも、いっそいっぺん丸刈りにされてこいよ、と言ったほうが彼のためなのか。なんと言うべきなのか考えあぐねている内に、とっとと話題は次男のことへと移っていく。
「初めて慕恋路で会った時、こういう場所に抵抗ないのかって翠さん俺に訊いたの覚えてます?」
と、言われて覚えていると頷いた。
確かその時宗助は「多少免疫があるんで」的なことを答えたのではなかったか。
天井を見上げながら思い出していると、その後の宗助の説明に翠はまたも驚きのあまり言葉を失う。
「興信所に勤めてる二番目の兄貴なんすけどね、なんて言ったらいいのかな。俗っぽい言い方になっちゃうんすけど、『おねえ』ってやつなんすよ」
「…………」
たっぷり時間を置いてから、ようやく「え?!」と翠は仰け反った。
てっきり宗助は仕事でゲイサイトを扱っていることから、なんとなくそれで免疫があるのだと思っていたのだが。まさかの次男おねえ。
「ゲイとおねえってニアリ―イコール?」
と、両眉をくいっとあげて、横目で問いかけてくる宗助に、
「ノ……ノットイコールです」
と辛うじて回答を返した。
次々と発覚していく小田桐家の真相にお腹がいっぱいになりかけると、何事もなかったかのように宗助の経営するカフェについて話が飛んでいく。
宗助がカフェを経営することになった経緯を話してくれた。
一番上の長女が銀座でクラブのママをやりながら幾つもの飲食店を持つ企業グループを経営しているやり手らしく、その税金対策といて大学卒業後に雇われオーナーをしてみないかと姉に言われたことがきっかけらしい。
もともと、経営学を勉強していた宗助はカフェなどが好きだったこともあり姉の誘いを受けることにしたのだとか。
その辺りでなるほど、と合点がいった。
この若さでしかもシステム会社との二束草鞋で、週に二回も翠の家に通いながらカフェを二店舗経営して更に来年もう一店舗出すなどということがはたしてどうしたらできるのかと、ずっと頭の片隅で疑問に思っていたのだ。
なるほど、バックにお姉さんがいるのだとしたら納得がいく。
「姉貴は元々銀座のクラブでママやってたんすけど、爺ちゃんが隠居する時に爺ちゃんの会社を姉貴がそのまま引き継いだんすよね」
「お爺さんの?」
「うちの爺ちゃん昔極道やってて」
「…………」
「お袋は極道なんてやる気なかったし、爺ちゃんも自分の代で終わりにしようって思ってたみたいだったから、俺が小学生の頃に解散申請だして堅気に戻ってはいるんすけどね」
「へー、すげー」などと軽く返して言い物なのか測りかねて口をパクパクしていると、
「その名残りっていうのかな。現役の時にいくつか持ってたクラブをそのまま解散した後も飲食グループとして続けてたんすよ。で、八年前に隠居して今ではハワイで第二の人生満喫中っす」
ああ言うのを生涯現役って言うのかな、などとけたけた笑いながら話す宗助の横顔をもはや胡乱な眼差しで見やりながら少々混乱している頭を整理しようとヘッドレストに頭を預けた。
「あ、ちなみにお袋も今ハワイに旅行してるんすよ。親父が死んでから結構落ち込んでたけど、今は若い恋人と年甲斐もなくラブラブしてるみたいで。確か年は二十九歳だったかな。 あ、ちょうど翠さんと同い年っすね。いやぁー、そう考えるとなんだか犯罪めいてるな」
などと言いながら屈託なく笑う宗助に、それはいったい何歳差なんだと気にはなったがなんとなく訊けないまま、翠はだらしなく口を開けたままになった。
「ま、そんなんだから、多少のことじゃ動じないんすよ、俺」
過呼吸症候群で気を失った翠を見て動転したあまり救急車ではなく湯浅に電話してしまったと聞き及んでいるが? と頭のなかだけで呟いて、実際には「良い家族だな」と言った。
実際、宗助の話しぶりからは家族の仲の良さが伝わって来たし、色々複雑な事情もあるようだったが逞しく支え合いながら生きてきたんだろうことがその笑顔ににじみ出ていた。
羨ましいとさえ思いながら、心から良い家族だなと言葉にした。
そんな風に言っている自分の頬がほっこり緩んでるのが分かった。
自分の知らないことや知らない場所なんて山ほどあるのに、全て悟って分かった気になっていたことが恥ずかしく思えた。
地球からしてみたら自分なんてちっぽけな存在で、その悩みなんて飢えや紛争で苦しんでいる国の人々や子供たちに比べたらきっと屁でもない。
自分の知らない楽しいことだってこの世界にはまだまだ、それこそやりつくせない程に溢れている。
同時に同じくらい、いやそれ以上に苦しいことも悲しいことも多いに違いないが、けれど、それが生きていく上での醍醐味なのであればそれも含めて楽しめたら最高だ。
名古屋市内に入って、携帯で夕食処を検索して口コミの良いひつまぶしの店で夕飯を取ることにした。
取り留めも無い会話をしながら、それこそ天気の話なんかをしながら初めて食べるひつまぶしを堪能して会計を済ませると再び車に乗り込んだ。
たいした会話もしないまま、二人とも泊まる用意など何もしてきていなかったから、とりあえず途中のコンビニで下着だけを買った。
車中の中は、先ほどまでの饒舌ぶりが嘘のように二人そろって口数が減ってどことなく緊張感が漂っていた。
お互いどこかよそよそしく、翠は窓の外に顔を向けたきり黙りこくっている。
宗助もまた両手でステアリングを握って正面を向いたまま無言でネオンに照らされた夜の街に車を走らせていた。
土曜日の夜に泊まれるホテルがあるだろうか。
黒のSVU車は名古屋の街をあてどなく走って、ラジオだけが流れる車中に長い沈黙が落ちる。
このまま夜通しドライブし続けるのかと思うほど長い時間に感じられた。
実際には夕食後小一時間走らせた時点で、翠が窓の外を顎で指しながらボソリと呟いた。
「なあ、……あそことかどう」
適当に言った先にシティホテルが見える。
「空いてますかね」
「行ってみたら分かんだろ」
幸いにも部屋は空いておりツインベッドルームを取ることができた。
シティリゾートホテルと謳っているだけあってエントランスが全面ガラス張りのお洒落な作りになっており、一階にはカウンターだけのクラシカルなバーが併設されていてそこからライトアップされた中庭が見渡せる。
最上階には洋食のレストランがあり、朝食バイキングはそのレストランで食べられるとのことだった。
翠たちの部屋は七階の一番奥の角部屋だ。
受付で手続きを済ませた後、エレベーターに乗って部屋の前に来るまでの間、どちらも一言も発さず、宗助がカードキーでロックを外すと先に部屋へ入った。翠も後に続く。
部屋はそこそこ広く、手前の壁にツインベッドが置かれ、奥の窓際に安楽椅子が二脚と丸テーブルが置かれていて男二人でも窮屈さを感じさせないゆったりとした清潔感のある部屋だった。
ぼーっと突っ立つ宗助を通りこしてさっさとベッドに腰掛けるとリモコンでテレビをつけてチャンネルを回し始める。
ベッドの上に用意された寝巻用の浴衣をちらと見て、
「風呂入る?」
チャンネルを回しながら声だけで訊けば、
「そうすね。翠さんは?」
「入ろうかな。お前先に入ってこいよ」
部屋に入って早々、風呂に入ってこいよというのもおかしな気がしたが、宗助も異論を唱えるつもりは無いらしい。
「じゃあ、お先に」
と、言いながら用意された浴衣を手に取るとバスルームへ消えて行った。
消えたのを確認してリモコンを膝の上に置くと、ふっとひと息ついてようやく肩の力が抜けた。
三週間ぶりに会う宗助は少し痩せたようにみえた。
仕事が忙しかったせいもあるだろうけど、なんとなくそれだけじゃない気がして、でもその割りには元気そうでほっとした。
入院中もほとんどまともに会話をしないまま、湯浅に連れられるように帰ってしまったし、翌日の退院の日も平日だったから迎えに来てくれたのは桂だった。
その後は警察だのなんだのとお互いバタバタしていて、簡単な報告メールを数回交わしただけだった。
昨日無理を言って琵琶湖まで来てほしいなんて言ったものの、本当に来てくれるのか、どんな顔して会えばいいのか正直不安だったが、勢いに任せて一泊しないかとまで言ってホテルまでなんとか行き着いた。
車中の中では少し緊張した。
隣りにいる宗助を意識しすぎて変に喋りすぎてしまった感が否めない。
宗助もどこかいつもと違って少しテンションが高かったように思えた。
過呼吸で倒れた朝の前日の夜のことについて、もしかして何か訊かれるかと思っていたがそんなことはなく、けれど夕飯を食べた辺りから落ち着かなくなってきて変な空気になったのは確かだ。
宗助にきちんと伝えなきゃ、と思えば思うほど座りが悪くなってついには顔もまともに見れずに車中で黙り込んでしまった。
自分の気持ちを伝えることがこれほどまでに緊張するとは思わなかった。
今思えば、自分から好きになった相手なんてもしかしたら宗助が初めてではないだろうか。
未熟で数少ない恋愛経験らしきものを記憶の奥に探してみるが、やはり初めてだと思う。
そもそも大学卒業するまで恋愛に関する経験はゼロだったし、なし崩しで付き合ったDVの彼だって寂しさから付き合ったもので本当に好きだったわけではない。
初めての恋人という存在で初めてのセックスの相手ではあったけど。
両膝に腕を乗せて前かがみで見る気もないテレビをただ眺めながら、緊張を解そうと所在投げに両指を揉み合わせる。
その時、バスルームのドアがカチャと開いて、思わず肩をびくつかせてしまった。
頭をタオルで拭きながら浴衣を着た宗助がゆっくりと近寄ってくる。
上背のある宗助には規格サイズの浴衣はやはり短いのか、やっと膝が隠れるくらいの長さだ。
「お先しました。翠さんすぐ入ります?」
「あ、うん」
そうしようかな、と言いながら浴衣を手に取るとリモコンを宗助に渡しながらバスルームに向かう。
その背後で付属の冷蔵庫を覗き込んだ宗助が、そのままの姿勢で、
「飲み物ないすね。俺、そこの自販で何か買ってきますけど翠さん何にします?」
「水」
と、端的に応えてバスルームのドアを開ける。
ハッとして、翠はとっさに宗助を振り返った。
濡れた前髪から覗く男前な眦と合う。
「今日はビールなしな」
「へ?」
目の前でお菓子を取り上げられてしまった子供のように情けない顔をした宗助を残して、さっさとバスルームに逃げ込んだ。
風呂から上がって浴衣を着込むと、その場で適当に髪の毛を乾かした。
バスルームから出ると、言われたことをきちんと守った宗助が、安楽椅子に深く座ってペットボトルのコーラを飲んでいる。
風呂から出てきた翠に、テーブルに置かれたペットボトルの水を指さして、
「まだ冷たいすよ」
「おう。サンキュ」
翠も向かいの安楽椅子に腰かけると水を手に取って一口飲んだ。
水を飲む翠の顔をじっと見つめてくる宗助に、眉を傾げながら「なに」と聞けば、
「翠さん、タバコどうしたんすか」
と、不思議そうに聞いてきた。
「琵琶湖で会ってからずっと吸ってないすよね。もしも、俺がこの間取り上げたのを気にしているなら、遠慮しないで吸ってください」
「いや、止めたんだタバコ」
「……な、え? マジで?!」
一瞬固まったかと思ったら、物凄い勢いで前のめりに叫んだ。
その想像以上の驚きように、翠は思わず吹きだす。
「なんだよその顔。ってか驚きすぎだろ」
これだけ驚くくらいだ。それだけ自分のヘビースモーカー振りは酷かったのだろう。
「そりゃ……て、本当に止められたんすか?」
猜疑心溢れる眼差しに、
「多分、まだ分かんないけど。お前に取り上げられてからは吸ってない」
「……本当に」
「本当に」
宗助の顔から波が過ぎ去った湖面のようにすっと表情がなくなる。
急に真面目な顔をされて、翠も思わず姿勢を正した。
「体の調子はどうなんすか。あれからよく眠れてます?」
「まあ」
と、曖昧な返事を返して手の中のペットボトルをくるくると落ち着きなく回す。
「お前は? 風邪とか引かなかった?」
「サイトのリリースなんかも続いて何度か徹夜はしましたけど、いたって健康すよ」
「そうか」
気詰まりな空気が流れる。
会話がなかなか続かない。車の中であれだけ喋っていたのに、今は何を話していいのか分らなかった。
世間話がしたいわけではないのだ。
翠はペットボトルをコトンとテーブルに置くと、腰を上げて宗助の前に歩み寄る。
上から見下ろす体制で、コーラを飲みながら見上げてくる宗助からボトルを奪い取るとテーブルの上に置いた。
黙って成り行きを見ている宗助の膝の上に、向かい合うように跨ると、まだ湿り気のある柔らかい髪に指を絡めてくしゃくしゃとと揉む。
それから肩から腕をゆるゆると擦った。
至近距離で、肘掛けに腕をのせたままじっと見つめてくる宗助の視線を感じながら伏し目がちに親指で宗助の厚い唇を軽く撫でると、そっと口づけた。
宗助の冷えた肉厚の舌からは、甘ったるいコーラの味がした。
「ビールは無しって言ったのは、このためすか?」
唇を重ね合わせる隙間から尋ねてくる声にキスで答えて、そっと顔を引くと額を宗助の額にくっつけた。
「なあ、エッチしよ」
息を吸うように口を開いた宗助が、直ぐには何も答えずその代りに翠の腰に腕をまわして優しく抱き寄せた。
「いんすか」
コクンと頷く。
体を放して宗助の視線をまともに見られないまま立ちあがると腕を取って「来いよ」と引っ張った。
あの日の夜もそうだったが、照れ隠しというより自分が緊張しているのを悟られまいとつい虚勢を張って毎度色気のない誘い方になってしまう。
部屋の電気を消して小さなベッドランプだけを点けると、無言のまま付いて来る宗助をベッドの端に座らせた。
宗助の膝の間にかがみ込んでカーペットに膝をつく。
「……翠さん?」
宗助の戸惑いの声を無視して目の前の浴衣の結び目を解いて開くと、厚く張った胸筋と長い足が露わになった。
内腿にそろそろと手を這わせて下着の中心に触れる。
「ちょ、待って――」
慌ててみじろぐ宗助をよそに、愛おしむようにゆっくりと中心を下着の上から撫でまわす。
「お願い。今日は、俺にさせてくれ」
どんな顔をしたのか分らない。息を呑むように喉を鳴らした宗助はそのまま後ろに両手をついて素直に口を閉ざした。
今日は自分から宗助に与えたかった。
翠の気持ちを宗助に伝えるために、精一杯の奉仕がしたい。自分の口で、体で宗助に感じて欲しかった。
中心を撫で回していると、下着が先走りでじわっと湿ってくる。
張りつめて布の下で苦しそうにしているそれを、下着をずらして外に出してやる。
雄々しく勃ち上がったものが飛び出して翠の鼻先で弾んだ。
男独特の臭いを放つ性器に躊躇いなく吸い付いた。
舌を這わすように先だけを咥え込むと括れまでの浅い部分をゆっくりと何度も口腔に出し入れする。
そのまま滾った屹立を根元まで咥え込むと、大きくてむせ返りそうになるのを堪えながら舌を使って啜り上げるように頭を上下させた。
「……、……っ」
宗助が苦しそうに唸る。
眦の少し下がったあの色っぽい目は、今どんな風に快感を露わにしてどんな顔で翠を見下ろしているのか。
想像すると翠の下半身がじりと熱を帯びたように疼く。
角度を変えて吸い上げて、裏筋を唇で食むように舌先を使って執拗に舐め上げていくと、口の中のものが更に硬さを増していく。
宗助の息遣いを頭の上で聞きながら、感じてくれていることが嬉しくて夢中でしゃぶりついた。
鈴口をちろちろといじめると、先端から溢れだした蜜で濡れそぼったそれを啜り上げるように舐める。
そこが放つ独特の雄臭を嗅ぎながら翠は強く張りつめた性器をちゅぱちゅぱと淫らな音を立てて深く貪った。
「ま、待った……」
宗助の手が翠の動きを封じるように髪の毛を鷲掴んでそのまま押しとどめる。
「ってか、ヤバい。俺……今日、ちょっと早いかも」
このままではイッてしまいそうだと言外に訴えて、翠の顔をやんわりと髪の毛を掴み上げるように中心から持ち上げさせた。
ずるりと口の中から長根を抜き取ると、濡れた翠の唇にツーッと唾液の糸が垂れる。
髪の毛を掴まれて上向かせられると、余裕のない熱を帯びた眼差しが翠を艶然と見下ろしている。
整った顔を歪ませて「くそっ」と呻った。
「そんな顔……なんかすげー悪いことしたくなる」
宗助の両膝に手をついて上体を起こす。
「気持ちいいか?」
「物凄く。……ねえ、確かバスルームにボディーローションあったよね。俺、取ってきますよ」
「いいよ」
「いいよ?」
「必要ない」
立ち上がろうとする宗助を押しとどめると、翠はそそくさと浴衣と下着を脱いでカーペットに放った。
ベッドに上がって宗助に向き合い腕をついて身を寄せると、眉を顰めて戸惑いぎみの宗助にそっと口づけた。
唇を離すとすぐに視線を逸らしてトンと肩に手を置くとそのままベッドに押し倒す。
「翠さん」
「準備してきたから、……ローションはいらない」
「準備……って、自分で? 風呂場で?」
恥ずかしいから聞いてくれるなと思うのに、驚いた声音で翠の肩を掴むと顔をまじまじと覗き込んでくる。
紅潮している顔を見られたくなくて、その手から逃れるように上体を起こすと宗助の上に跨った。
「今日は俺にさせてって言ったろ……」
「…………」
何か言いたげに口を開いた宗助は、けれど翠の様子を窺うようにそのまま枕に頭を預けた。
萎えることのない宗助の性器を一度大きく扱いて、腰を浮かせると自分の後孔に押し当てる。
その大きさに「……くっ」と歯を食いしばって顔を歪めてしまう。
規格外のサイズで、亀頭を飲み込むにも入口が狭すぎて難航する。
自分で準備をしてきたものの、やはり慣らしきれていなかったのか飲み込もうとすると痛みと圧迫感に弱音を吐きそうで思わず唇を噛んだ。
「……翠さん。無理そうなら」
「無理……じゃない」
心配気な宗助の声を跳ねのけるように、大丈夫だからと何度も頭を振った。
今日はどうしても自分から宗助に奉仕をしたかった。
自らの意思でこの男と繋がりたかった。
もう逃げないって決めたから、目の前の男から逃げないって決めたから。
目を背けてばかりの後悔はしたくない。
幸せを掴もうとするのは怖いけど、これから先どこまで宗助と一緒に居られるのか分らないのも怖いけど、でも、それでも。
「……好きだ」
痛みに耐えながら、掠れる声で呟いていた。
「宗助が、好き」
内壁に押し入るように迫りくる嵩の増したそれを、半ば強引に腰を沈めてなんとか根元まで飲み込む。
痛みに身体が強張って、息を詰めた。
俯いて、その痛みを逃がそうとそのまま動けなくなる。
でもきっと痛いぐらいがちょうどいい。この瞬間を、初めて心から好きになった男と自分から繋がったこの一瞬をどんなことがあっても一生忘れないために、痛みを伴うぐらいがちょうどいいのだ。
翠の中に納まった宗助は熱く張りつめていて、その熱さがひしひしと翠の心を満たしていく。
この瞬間をどれだけ望んでいたのか、どれだけ焦がれていたのか。
目の奥がじわっとしてきたかと思えば目の前が霞んで、気が付けば込み上げてくるもので翠はしゃくりあげていた。
嬉しいのに涙が出る。
手をついた宗助の腹にぽたぽたと大粒の涙が落ちた。
こんな体制で宗助を咥え込んだまま情けないと思うのに、溢れ出てくる涙を止められない。
どうしたらいいのか分らなくて両拳で目許を拭っても拭っても止めどなく溢れて、くしゃくしゃに破顔した泣き顔を宗助に晒すしかなかった。
慰めるでも心配するでもない、ただ包容力に満ちた真摯な眼差しが翠をまっすぐに見つめ返してくる。
子供のように嗚咽しながら恥ずかしさも恐れも全てかなぐり捨てて、
「だから……」
宗助から目を逸らさず堪えようのない涙を流しながら食いしばるように口を開いた。
「……だから、俺とずっと一緒にいて」
宗助の口が何か言おうと開きかける。
「ずっとが無理でも、いつかお前が……誰かと結婚して子供ができても」
「…………」
「俺が死ぬときは……側にいてよ」
語尾の方まできちんと言い切れたかは分からなかった。
とにかく言い終わらないうちに再び俯いて両手で顔を覆うと肩をひくひくさせながら泣いてしまった。
もぞもぞと宗助が上体を起こす気配がする。
そのまま温かい腕の中にゆっくりと抱きしめられた。
耳元に宗助の息を感じながら、小さい子供を宥めるように背中を優しく擦られる。
宗助が大きく息を吐いた。
「まいったな」
ボソッと呟く低い声を聞きながら、不安が胸の奥に込み上げてくる。
もしかして困らせるようなことを言ってしまっただろうか。
翠の肩に顎を乗せたまま黙り込んでしまった宗助に、急に不安になる。
「……宗助」
身じろぎして宗助の顔を見ようとした瞬間、片膝の裏を持ち上げられたかと思ったら次の瞬間くるんとベッドにひっくり返された。
「うわ――っ」
予想だにしていなくて、ショック療法的に涙が止まる。
「そ、宗助……っ」
驚いて頭をもたげようとして、深いキスに押し戻される。
何度も繰り返し角度を変えて唇を重ねられ、その内にどちらのものともつかない体液で唇は濡れそぼり吸い付くように舌を絡めて求め合った。
キスの合間に宗助が呟く。
「ごめん、痛かったらごめん」
「え……」
刹那、ズンと身体の奥を突き上げられた。
「はぁっ……っぁ…」
咥え込んだままの宗助のものが急に律動を開始して思わず仰け反った。
長い時間咥え込んで慣らされたせいか痛みはない。けれど、いきなり強く穿たれた翠の中は唐突に湧き上がった快感に身体を震わせた。
下腹部がカッと熱くなって一瞬にして快楽に溺れる。
宗助の頭を抱え込んで、翠は甘い吐息を漏らしながら腰をくねらせた。
カリ首まで抜かれて、再びずるりと根元まで熱の塊を飲まされる。その繰り返しに腰を揺さぶられて堪らず嬌声が零れた。
待ったなしに急き立てられて、緊張でいっぱいだった頭の中が脳内麻痺したように痺れ、身体の奥までじわっと蕩けてしまいそうだ。
宗助の硬く屹立した剛直を容赦なく奥まで穿たれる。
繰り返し何度も奥の敏感なところを責められて、我を忘れたように後頭部を枕に擦りつけながら甲高い声を漏らした。
「あぁっ…ぁぁ……ぁっ……」
宗助の律動は止まることなく容赦なく大きく滾ったもので翠の内壁を執拗に突いて急速に追い立ててくる。
背中を仰け反らせてその痺れるような快感に自らも腰を振りながら胸を喘がせた。
今まで感じたこともないくらいに気持ちがいい。
宗助の体と深いところで繋がったほかに、お互いの心までもシンクロしてしまったような不思議な陶酔感だった。
眉間に血液がじわっと充満してきて、頭が緩んでくると得も言えぬ気持ちよさに全身が溶けてしまいそうなくらい体が感じすぎて目許が熱を帯びて赤く染まる。
潤んだ瞳でせがむように宗助に何度もキスをねだった。
男のものを突っ込まれながら甘くて淫らな口づけを繰り返す。
堪えることのできない喘ぎ声を漏らしながら翠はどこまでも宗助の与える快楽に翻弄された。
「ぁっ……き、も、ちいいっ……はぁっ……んん……」
官能な声に煽られたように身を屈めた宗助は、荒い息を吐きながら既に敏感になって硬くなった乳暈を唇で弄ぶ。
弄ばれてぷっくりと隆起した乳首を舌先でさらにコリコリと責められ、もう片方の乳首も指で挟むように摘みいたぶられると痛烈な気持ちよさに胴がぶるぶると震えた。
「やぁ……ぁっぉ、かしくなるっ……」
「いいよ、おかしくなってよ」
吐息が掛かるほど近いいつもは乱れることのない眦も、今ばかりは余裕のない切羽詰まった劣情を浮かべて荒々しく火照った下半身を前後にゆすり続けた。
気持ちが良すぎてどうにかなりそうだった。
どうにかしてほしくてたまらなくて、我を忘れ感じすぎる身体をよじりながら髪を乱して懇願する。
「もっとっ……もっと、してっ……ぁ……ぁぁっ」
もっともっとと宗助の胸の下で身悶えながら喘ぐ翠に、一瞬獲物を狩る獣のような目を向けたかと思えば、快楽に溺れてみっともなく開いた翠の口を噛みつくように深く貪ると、身を起こして翠の両膝を抱え上げ激しく腰を打ちつけた。
「ひぁっ……あっ……ああっ……そ……っ……ぁ、ぁっ……」
これ以上になく激しく熱を打ち込まれて、顎を仰け反らせたまま嬌声をあげた。
脳内が痺れて、生理的な涙が視界を覆い、四肢は痙攣して腰をびくびくと震わせた。
揺さぶられるたびに自分の腹で弾む熱くなってきつく反り返ったものが先走りを滴らせた。
切なくて堪えきれず、乱れた吐息とともに艶然と見下ろしてくる宗助を涙で滲んだ睫毛で見上げながら、掠れた声で懇願した。
「触って……俺の……触ってっ」
「……くそっ」
理性をふっ飛ばさないように一瞬顔を背けて苦し紛れに吐くと、
「あんたさ……エロすぎんだよ」
精いっぱいの理性を掻き集めて、翠の育ったものに長い指を絡ませ握り込むと奥に剛直を激しく穿ちながら強く扱き上げた。
感じすぎてシーツを必死に手繰り寄せながら顎を上げて目を潤ませる翠に宗助の律動がいっそ激しさを増す。
どちらの息遣いとも知れない淫らで湿った荒い呼吸に興奮を煽られながら、絶頂へと急き立てられる。
内壁が収縮し、飲み込んだ宗助をぎゅうっと締め上げた。
きゅんと窄めてしまった場所で愛しい男を感じながら、階段を駆け上るように高見を目指して無我夢中で快楽を追った。
突如、前も後ろも極限まで責め立てられて、迫りくる絶頂に頭が真っ白になる。
腰を痙攣させて宗助の手の中に白濁したものを勢いよく放つと、残滓まで絞り出されるようになおも執拗に扱き上げられ翠は声もでないほどの絶頂を迎えた。
と同時に、宗助の熱く滾ったものが翠の奥で爆ぜる。
低く呻きながら二、三度腰をビクつかせると、まるで一滴残らず翠の中に収めようとゆっくり幾度か抽挿を繰り返したあと、脈うつ杭をずるりと引き抜いた。
充溢した時間を過ごした後で、緊張が緩んだせいか少し眠ってしまったらしい。
目を開けると、目の前に肘をついてこちらを見つめてくる宗助の顔があった。
その口許が、翠が目を覚ますやいなやふっと和らぐ。
瞬きを何度か繰り返して、翠も引き寄せられるように微笑んだ。
「起きてたのか」
「はい」
「俺、どれくらい寝てた」
「ほんの三十分くらいすよ」
「そっか」
そう呟いて、目の前に置かれた宗助の手を取った。
長くて骨ばった男らしい手を眺めて、ゆっくりと指を絡ませると頬に引き寄せる。
「ボランティアの件だけど、書類審査が通ったんだ」
「……そうなんすか」
一瞬強張った宗助の指先を両手で包み込んで頬に当てると目を伏せた。
「全部断ったよ」
宗助が僅かに息を呑む気配がした。
「タクシーのバイトを辞めようと思って」
目を開けて顔を上げると、宗助が両眉を上げて目を丸くしている。
「バイトを辞めてきちんと就職する」
そう告げると、目の前の優しい眦に賛同の意を見て取って翠の口許がふわっと緩んだ。
「俺さ、一生懸命働いてお金貯めるから。そしたらさ――」
――来年の冬、俺をスキーに連れてってよ。
と、昔の古い映画のセリフみたいなことを言ってみせれば、宗助が見たこともないほど嬉しそうに笑った。
ああ、こんな笑顔を見られて幸せだ。
「俺の楽しい、全部作ってくれるんだろ」
長い腕が伸びて来て温かい胸に抱きしめられる。
「もちろん」
と、囁かれた甘い声にくすぐったさを感じながら、この瞬間の幸せを胸いっぱいに吸い込んだ。
了
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