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第8話

誰かに呼ばれたような気がした。  翠はふっと瞼を開くと、一瞬ここがどこなのか分らず、隣で翠の頭を胸に抱え込むようにして寝息をたてる宗助の鼻先を見上げて、ここが自分の部屋であることと、昨夜の出来事について思い出した。  起こさないように腕を解いてそっと上体を起こすと、ゆっくりと部屋を見渡す。  ――静かだ。  鳥肌が少しばかり立つほどに空気が冷えていた。  十月の朝晩は往々にしてこうだ。  微かにカーテンから覗く窓の外は縹色がかっていて、途切れ途切れに聞こえてくる小鳥の囀りと、通りを通り過ぎていく新聞配達のバイクのエンジン音が静謐の中でそろそろ朝なのだと告げていた。  時計を見れば、六時まであと十数分といったところだった。  昨夜のことを微睡む頭の中で思いだす。  宗助とのセックスは思った以上に心を打つものだった。  どこまでも優しく、本当に翠のことを好きだと想うこの男の気持ちが嫌と言うほど伝わってくるようなセックスだった。  身も心も全てを持っていかれたような、離れ難いと思わせるような時間だった。  優しくて甘い、それでいて切ない時間を、自分は昨夜この男と過ごしてしまった。  初めて本気で好きになった相手と、思い残すことのないようにせめて一度だけ結ばれてから……、などと愚かで刹那的な考えを一晩明けて冷静になってみると馬鹿なことをしたと後悔がよぎる。  翠は自分の身なりを確認すると、わずかに眉を寄せた。  昨日は行為の後にそのまま寝入ってしまったはずなのだが、体も綺麗に拭かれTシャツと下着を纏っていた。  翠の中に放たれた残滓は、それらも含め宗助が全て綺麗に処理をしてくれたのだろうか。  そんなことをされても目を覚まさなかった自分が珍しくて、羞恥よりもそちらのほうに苦笑が漏れる。  隣で案外あどけない顔をして寝入る男の頬に躊躇いがちに指を伸ばしたとき、不意に何かが短く擦れる音を聞いた。  近場から聞こえてくるブーブーブーといった摩擦音に耳を澄ませる。  しばらくして音が止まる。  そしてまた……。  その音が昨夜脱ぎ散らかした服の辺りから聞こえてくるのに気がつくと、翠はそろっとベッドから降りて床に散乱する服の合間をまさぐった。  体は重かったが、頭は少し軽かった。喉が酷く乾いていたが我慢した。  また音が止む。そしてまた鳴りだす。  さっき誰かに呼ばれた気がしたのは、もしかしたらこの音だったのかもしれない。  宗助のスラックスのポケットに突っ込まれた携帯電話が小刻みにブーブーとバイブを刻みながら震えていた。  背後の宗助をちらっと見やりながらディスプレイを覗き込む。  『湯浅』――とだけ表示された画面を見やりながら、こんな朝早くに留守電にメッセージを残さず何度も掛けなおしてくるところをみると緊急な要件なのではないかと思った。  携帯を握りしめながら寝入る背後の宗助に声を掛ける。  だが返事はない。  そろそろと近寄って肩をゆすってみたが起きる気配はなかった。  初めて宗助の家に泊まった時もそうだったが、よほど眠りが深いのか寝つきがいいのか、そんじょそこらではこの男は起きない。  何度となく呻る携帯電話に急かさられて、翠はあまり深く考えずに通話ボタンを押した。 「は――」  はい、と言うより先にいきなり怒鳴られて耳から離した携帯電話を凝視した。 『お前なっ、何考えてるんだっ! こっちが心配してわざわざ朝っぱらから来てみればなんなんだよこれはっ!』  電話の向こうの湯浅という男は酷く怒っている様子だ。  タイミング悪くまずい電話にでてしまったかもしれない。  離していた携帯電話をそろそろと耳に寄せると、 「あの、すみません。俺……」 『…………』  一瞬沈黙が落ちる。 『これ、小田桐の携帯だよな』 「はい。そうなんですが、小田桐くんは今まだ眠っていて、その、起こしたんですが起きないんで俺が代わりに電話にでました。すみません」  なんとなく謝ってしまったが、まだ彼が眠っているという言葉はどこか不自然ではなかったか。  だが、湯浅はふんと鼻を鳴らしただけでたいして気にした様子も無い。 確かに、一度眠ると石みたいになかなか起きないからな、などとなにやらぶつぶつ言っている。 『それで、その大きな石は今どちらにいるんでしょうか?』 「俺の家にいます」 『その俺って言う君は誰なの?』  湯浅の声はすっかり落ち着きを取り戻していたが、あまり友好的な感じはしなかった。  元からこういう話し方なのか、わざと当てつけるような言い方をしているのか判然としない。 「香坂と言います。小田桐くんの……友人で」 『香坂?』  意味ありげに確認すると、湯浅はしばらく電話の向こうで考え込むように黙り込んでしまった。  電話が切れてしまったのではと思うほど長い沈黙に痺れをきらして口を開きかけた時、 『俺は湯浅って言うんだけど、小田桐とは一緒にシステム会社をやっててね。君は、もしかして翠さんって人なんじゃない?』 「え」 『そうなんでしょ?』 「……はい」  宗助がこの男に自分のことを話したのだろうか。  不意を突かれて、なんだか良からぬ予感がして翠は口を引き結んだ。 『小田桐が辞表を出した』 「――――」 『あいつな、この一週間憑りつかれたように毎日徹夜しててさ。家にもろくに帰ってないようだったんで、大丈夫かと心配してわざわざこんな朝早くに来てみれば、なんと俺のデスクにあいつの辞表が出てたんだよ』  苦虫でも奥歯で噛み潰すように少しばかりねちねちと怒りを含む言い方で。 「それは……」 なぜだと、翠はいまだに眠る宗助を振り返った。 『それはね、そう、多分、君が原因なんだ。と言うか、原因は君だよ』 「俺が原因で?」 『なあ、単刀直入に訊くけど。君ってゲイなの?』 「そう……ですが」 『昔に、AVに出たことある?』 「はあ? ありませんよっ」  思わず受話口に強く言い放っていた。  だが、その反応で湯浅が納得したように頷く。 『あるんだよ。見たから、一週間前』 「―――――」 『君が複数の男とよろしくやってるセックス動画がアップされててね、俺や宗助はこの目でしっかりそれを見てるんだよ。あいつが言うんだから、あれは君で間違いないんだろう』  頭の中が真っ白になった。  何を言われているのかにわかには理解できない。 携帯電話が耳から離れそうになるのを湯浅の声が引き留める。 『この件についてあいつは内密に処理したがっていたけど、そろそろそう悠長に構えている訳にもいかないんでね。動画がアップされたサイトの運営側としては責任上ぼちぼち警察に通報しないとまずい。遅いくらいだよ』 「警察……?」  しごく大それたもののように感じて翠の肩が震える。  それよりも宗助が動画を見た? セックス動画を――。誰のだって?  そう言えば、近頃おかしな動画が出回っていると桂が言っていなかったか。  自分には全く関係のないことだと思って相手にもしなかったが、まして、撮られた覚えなどもないというのに。  それを、宗助が――見た。 『他にも同様なレイプ的動画がアップされてはいたけど、どれも目隠しされてたりしてね。面が唯一割れてたのが君なんだよ。この件を警察に通報すれば、確実に君のところへ警察が聞き込みに行く。それを宗助は嫌がったんだ』 「どうして」 『分かるでしょうよ、それくらい』  分かる。痛いほどよく解かる。  ようやく立ち直った翠を気遣って、宗助はこの件を内密に処理しようとしたに決まっている。  警察に通報することなく、翠に悟られることなく。  一週間前と言えばあのタルトの日。宗助の様子が変だったのはこれが原因なのか。自分のせいで、大切な人が苦しんでいたとか思うとやるせない。まして、辞表まで出してよからぬことまでさせてしまおうとしている自分を心底呪いそうになった。 「宗助は……警察沙汰になるようなことを?」 『察しがいいね。そうなんだよ。徹夜続きでどうにかこうにか相手のIPを割り出したあいつが、興信所に勤める兄貴に頼んで居場所を突き止めたわけ』  俺も、その兄貴から連絡を受けて知ったんですけどね、と前置きをして、 『警察に報告する前に、犯人と接触して直談判か、もしくはそいつの家行って、そいつもパソコンもズタズタにやっつけてきちゃうつもりだったんじゃないの? せめて君の動画だけでも消滅させようってね』 「それって……」 『証拠隠滅なんて褒められたことじゃないよな』  はっきりと言われて背筋が冷えた。  辞表を出したのはそう言うことなのか。  そんなことがもしもバレて明るみになるようなことがあれば、会社だって疑われ兼ねない。単独でやったと言えるように辞表を出したのだ。 『ただこれが救いになるか分からないけど、動画の中の君はノリノリって訳ではなかったよ。こうなんていうかな、凄く泥酔してた感じ。なんて言うか。うーん』  携帯電話の向こうで、動画を思い出そうと顔を顰めている様子が伺えた。  泥酔して……。  湯浅の言葉に翠も顔を歪めた。  なるほど。まさに己が招いた過去の過ちの産物そのものなのだと。  そのせいで宗助を逮捕させる訳にはいかない。  自分がこのまま着の身着のまま財布とパスポートだけ持って今すぐにでも消えてしまえば、携帯電話も解約して。  そうしてしまえば、居なくなった者のために宗助がそんな馬鹿げたリスクを犯すこともなくなる。  パスポートはどこにしまったか。脱ぎ捨てたままのズボンを取り急ぎ穿いて、それから、とおよそ冷静とは言えない思考を巡らせていると、唐突に間の抜けた音でピンポーンと家のインターホンが鳴った。  携帯電話を耳と肩に挟みながらズボンに片足を突っ込んでいた翠の肩がビクリと震える。  反動で床に落ちた携帯電話を慌てて拾い上げ、こんな朝早くに訪れる者などいただろうか。  桂か、それとも――まさか警察か。そう思ったら居ても立ってもいられなくなった。  ズボンに足を突っ込んでチャックを上げる。  居間に移動して財布を探していると、 『ねえ、大丈夫? 誰か来たようだけど』 「え、あ、はい」  そうこう言っている内に再びインターホンが鳴る。  動揺して胸がバクバクした。血流が一気に脳天まで上ったようで意識が飛びそうだ。  じっとりと脂汗が額から沸き出た。 『とにかく、明日まで返事を待つよ。警察に協力するか、逃げるのか。君の好きにすればいい。言うなれば君も被害者だし罪に問われることはないと思うしね。だけど、こう言っちゃなんだけど、身から出た錆でしょ? 俺としては自分自身とよく向き合うチャンスだと思うけどね。正直いって君の事情なんて全く知らないし、的外れなこと言ってたら申し訳ないけど』  と前置きして、 『いつまでも、逃げてばかりの人生ってわけにはいかないんじゃないのか』  そんな辛辣な、けれど正論さえもパンクしそうな頭ではうまく整理しきれない。  パスポートを探して引き出しを開けていると、圧力をかけるように再度インターホンが連続して二回鳴った。  引き出しを開けたまま顔を上げて玄関の方を見る。  誰だ。 『ああ、それと、俺さ、あいつのこと気に入ってるんだわ、大学時代からずっと。まさかあいつが男に走る日が来るとは思っていなかったけど。君さ、中途半端な気持ちなんであれば、今回の件が済んだらもうあいつに関わんないでくれな』  動揺して忙しなく手を動かしている割になかなか目的の物が見つからないでいると、そんな湯浅の言葉に頭が急に冴える。 「どういうこと」 『別にあいつと別れてくれとか言ってるわけじゃないからね』  翠は思わず動きを止めて押し黙った。 『でも、君にその気がなくて、ただあいつの気持ちを知ってて振り回しているだけって言うなら、そうだな……俺が、あいつを貰う』  きっぱり言われて翠は言葉を呑んだ。 『それと一週間くらい前に小田桐と喧嘩でもした? ここ最近のあいつはなんだか凄く悄然としてて、ぼちぼち見てらんないのよ』  翠が煮え切らない態度をとっているなら横から宗助を掻っ攫っていくぞと脅しているのか。  何かを言おうとして開いた口を閉じた。 今から消えようとしている自分に何が言える。 再び翠の精神を逆なでするように間延びしたインターホンが連打される。 『じゃ、俺はこれで。話せて本当に良かった』  起きたら小田桐に折り返しくれと伝言を頼んで、翠の返事も待たずに電話が切れた。  何からどう頭を整理したらよいのか、何をどう荷造りしたらいいのか、茫然とした頭では考えられなかった。  携帯電話を引き出しの上に置いて、おもむろに玄関へ向かう。  唯一はっきりしていることと言えば、そう先ほどからインターホンを誰かがしつこく鳴らしているということ。  鼓動が否応なしに跳ね上がる。  こんな早朝に誰かが来る予定などあっただろうか。  息を潜めて玄関の前に立つ。  外の気配を探っていると、ドンドンドンと激しくドアを叩かれて驚きに全身が震えた。  反射的に覗き穴に飛びついて、次の瞬間思わず息を呑んだ。  ――兄さん。  そう言えば、先週の電話以来かかってくる電話を片っ端から無視していた。  とうとう痺れをきらして場所を調べて家まで来たというのか。  しきりにドアを叩く音とインターホンが繰り返される。  玄関を開けたくはなかったが、このままでは近所迷惑になってしまう。  翠は意を決して玄関の鍵を外した。と同時に、翠がノブに触れるより先に外側からドアが勢いよく開く。  挨拶もなく、鬼のような形相で玄関へと入って来た何年ぶりかに見る真澄は、とても老けたように見えた。  どこか疲れているように頬は削げて、目の下は落ちくぼんで髪には白いものが混じりだしている。  グレイの三つ巴のスーツを着込んで襟元にややルーズに締められた濃紺のネクタイがみっともなくゆらゆらと揺れている。  フレームレスの細いメガネがそれらをより神経質にみせた。 「こんなところまで何しに来たんですか。朝っぱらから失礼だとは思わないんですか」  キッと睨み付けて極力平静を装った。  ドクンドクンと激しく打ち鳴らす胸の音を聞きながら出した声が震えていないことにほっとする。 「貴様っ」 次の瞬間、真澄の目がカッと見開かれた。 「貴様っ貴様っ貴様あああ――」  とっさに避けきれず、殴りかかってきた真澄に頬を一発殴られる。 そのまま勢いよく廊下に倒れこんだ。 唐突過ぎて頭がついていかない。 くらくらする頭を振って、どうにか上体を起こそうとしたところを土足で蹴り飛ばされる。 仰向けに倒れ込んだ翠の上に馬乗りになった真澄が、翠の髪の毛を鷲掴むと強引に頭を浮かせてそのまま冷たい廊下に叩きつけた。  頭を強く打って思わず呻く。  翠に覆いかぶさって、目の前で興奮に肩を上下させながら髪を振り乱す真澄はまるで悪魔の使いみたいだ。  何の言われがあって出会い頭にこうまでされなくてはならない。思いもよらな過ぎて、翠は言葉もなく後頭部の痛みと息苦しさに耐えながら真澄を見上げた。  また何かされるのではと、反射的に両腕をクロスに翳す。 「ロザリオをどこにやったっ!」 耳を塞ぎたくなるほどの怒声に翠は顔を歪ませた。 ロザリオのことでここまで常軌を逸するとは、遺書の中にロザリオの記載がなかったからと言ってどうしてここまで執着する。しかも今更なぜ。 「いいか翠、よく聞けっ。あのロザリオはな、金に換えれば二千万はくだらないんだぞっ。あのダイヤは、お前のような低俗が持っていていいものではないんだっ」 「だから、知らないって言ってる」 「嘘をつくなーっ」  感情的にがっと首を掴まれてあろうことか締め上げられる。苦しさに悶えながら必死で抗った。  ロザリオの価値が二千万だと言ったか。  遠のきそうになる意識を振るいながら目的はそれだったのかと悟る。  真澄はお金に困るような生活はしていないはずだろうに、この男はなぜだか今酷く困窮しているようだった。  待て、金に換える――? 「あん、た……あれを、売る……つもりで」 「ああ、そうだ。今すぐにでもまとまった金が必要なんだよ。もう遠回しにお前を懐柔している時間はないんだ。さっさとロザリオをよこ――っ!」  言い終わる前に真澄の体が勢いよく玄関のドアまで吹っ飛んだ。 途端解放された器官が空気を吸い込もうとして激しく咳き込む。  すっと肩を温かいものに支えられる。  見ればTシャツにスラックスを穿いただけの宗助が、鋭い眼光を今しがた吹っ飛ばした真澄に向けたまま翠の横で膝をついていた。  威嚇するように真澄に視線を向けたまま、宗助が静かに、だか確実に怒りのこもった声音で尋ねる。 「大丈夫ですか」 「あ……ああ」  なんとか声を振り絞った。 「誰なんすか、この男」 「俺の、兄だよ」 「お兄さん?」  そう言うと、初めて宗助の顔が翠に向く。  赤らんだ翠の頬を見て宗助の口許が僅かに引き攣ったのが分かった。  再び怒りの目を真澄に向けた。 「あんた、この人に何をしようとしたんだ」  凪る水面のように、その静かすぎる物言いが逆に怖いほどだった。 「そういう君は誰なんだね」  翠以外に人がいたことにいささか動揺を露わにしながら少しばかり正気を取り戻した風だ。  乱れた髪の毛を手で払いながら、だらしなくぶら下がったネクタイを無意識にきつく締めあげている。 「なにしようとしてたんだって聞いてんだよ」 「部外者には関係のないことだ」 「ロザリオを売るとか売らないとか? 話は途中からしか聞こえなかったけど、金に困ってるならさっさと消費者金融にでも行けばいい」 「知ったような口を」 「あー、なるほどね。借りちゃった後ってわけだ。ヤクザの高利貸に」  くっ、と図星をつかれたかのように押し黙って口許を歪ませると、血管が切れないかと心配になるほど顔を憤慨させた。  そんな、まさか、と翠も真澄を注視する。  本当にヤクザなんかに借りてしまったのか。 「ギャンブル? それとも女? この人の顔殴ってまで欲しい金ってなると、あんた手ぇ出しちゃ駄目なとこまで出しちゃったってことだろ。暴力団にでも借りたか」  将来をみんなに期待されていたあの兄が、まさかそんなことで借金を作ったのか。 にわかには信じられずに真澄と宗助を交合に見やった。  宗助に支えられながら翠はふらつく足で立ちあがる。  肩を支えていてくれる宗助の腕の温度を感じながら、窮屈になった器官を開くように一度大きく咳払いをする。 「兄さん」  宗助を睨み付けていた真澄の目がジロと動く。土気色した死体みたいな顔だった。  頭がよくて常に冷静沈着だった兄が、ここまで変貌を遂げてしまうとは。  自分の知らない時間の流れを感じてどこか物悲しくなった。 「こんなことしないで、父さんに話してみたら」 「煩い」 「でも、もし本当にヤクザなんか――」 「黙れっ!」  激昂した真澄が拳をドアにドンっと叩きつけた。 「お前がロザリオを素直に渡せば済む話なんだよ。あのロザリオさえあれば、私はなんとか凌げるんだ――」 「凌げる?」  宗助が一瞬苦笑したようだった。 「あんた、一体どんだけ金を借りたんだよ」 「なんだとっ」 「いっそ破産宣告でもしたほうが身のため――」 「黙れっ! 今日という今日は無理やりにでもロザリオを持っていくからなっ」  と、どれだけ我を忘れてしまっているのか、土足で上がり込んできた真澄を宗助が遮る。  翠を庇うように前に出ると、これ以上は通さないと言わんばかりに真澄を上から見下ろした。 「どけっ」 「住居不法侵入すよ」 「なに?」 「警察呼ぶ前に帰ってもらえませんか」 「警察だと? 私はこいつの兄だぞっ」 「元、お兄さんですよね。だいたい、翠さんがお祖母さんの亡くなった時、一目会いたくて行った夜に、家の中にも入れず警察を呼んだのはどこのどいつだったかな」  淡々とした喋りの言葉尻がわずかに苛立ちを込めて強くなる。  蛇に睨まれた蛙のような表情で、何かに圧されるように後ずさると玄関の敲に戻る。  真澄は、じりじりと追い込まれながらも喉ぼとけをゴクリと動かすと、やおら口端を吊り上げて下品な笑みを浮かべた。 「貴様は知っているのかな。こいつはな、お祖母さんが亡くなった後、ロザリオを盗んで逃げたんだぞ。金目のものを根こそぎ盗み出してとっとと姿を消した薄汚い盗人なんだよ」  宗助が、ちらと翠に横目を向けてくる。 「違う。俺はロザリオを盗んでなんてない。宗助、俺は盗んでない」 「いいや、お前は盗んだんだよ。ダイヤの価値を知ったお前は、息を潜めてお祖母さんが死ぬ日を指折り待ちわびて……」 「なに言ってっ、そんなわけあるはずないだろっ」  指折り数えていたなどあるわけがない。思ったこともない。想像すらしたことないのに。 「いい加減なこと言うなよっ。何言ってんの? なに言ってんだよ! 俺がばあばの死を望むなんて、絶対にあるわけないだろっ――」  刹那、心臓を鷲掴みされたように胸がグッと詰った。  近頃よく翠を襲う息がしづらくなる感覚。  胸元を掴んでどうにか苦しさをやり過ごそうとしながら、目の前の真澄を睨み付ける。  この兄は金に目がくらんだ愚かで醜い人間に成り下がってしまっている。  ばあばのことも、ばあばを思う自分のことも根こそぎ馬鹿にされているようで悔しかった。  呼吸を落ち着かせようと小刻みに息を継ぎながら、できる限り感情的にならないように努めた。 「そうだよ、ロザリオは俺が持ってる」 「ふん」 「けど、兄さんには絶対に死んでも渡さない。例え、父さんに言われても絶対に渡さない」  沸騰したように顔面を真っ赤にして腕を振り上げる真澄を宗助が一歩踏み出すことで制した。  忌々しそうに唇を噛しめながらも大人しく下がって、皮肉げに口端を吊り上げると肩を揺らしながら嘲い出した。  耳障りな嘲い声だった。 翠の頭の中にうっすらと靄を掛けていくような。嫌な声に霞みかける目を瞬かせる。  着々と速くなる心臓の音を無視して、翠は奥歯を食いしばった。 「なにが……可笑しい」 「いや、まさかとは思ってな。哀れな奴だよ。まさか本当に信じていたのか? 父さんがお前を許したと?」  真澄の顔に小馬鹿にして楽しむような笑みが浮かぶ。 「馬鹿が。父さんも母さんもお前のことなど口にすることすらない」  そう吐き捨てる。  翠の前に立つ宗助のぶらりと下がった拳がギュッと握り込まれるのが見えた。  その拳にそっと手を添えながら翠は唇を噛みしめた。  どこか腑に落ちないとは思っていた。でも、信じていなかったわけではなかった。  汚名が晴れたのであれば、そういうこともあり得ることなのだと心のどこかでそう思っていたのも確かだ。  まさか、汚名が晴れたことさえ嘘だったのだろうか。  ようやく父に信じてもらえたのだと思って多少なりとも救われた気持ちでいたのに、それが全て嘘だったなら今にも泣いてしまいそうだった。  期待して浮足たっていたわけではなかったが、真澄の言葉を馬鹿みたいに信じていいように騙されていたと思うと情けなくなって腹の底が真っ黒になりそうだった。  くくく、と品の無いくぐもった嗤い声を洩らしながら、真澄が神経質そうにメガネのブリッジを中指でくいっと上げる。 「お前だって言っていたじゃないか、今更どんな顔して戻れと言うんだと。和気藹々なんていくわけないと言っていたじゃないか。その通りだ。いくわけないだろっ!」  かっ、と目が見開かれる。  翠は思わず一歩後ずさんでいた。  手足の先がチリチリと痺れ始める。酸素が更に薄くなったと思うほど息がしづらい。 「ロザリオ欲しさに都合のいい話をでっちあげただけだ。母さんなんてお前があんなことを起こして以来、周囲からの目を気にし過ぎたあまり精神を病んだ。とうとう家から一歩も出られなくなって、鬱病がなかなか治らない母さんとの生活に辟易した父さんは、別にマンションを借りて出て行ったよ。仕事にかこつけてめっきり横浜の家に帰ってこなくなった」 「…………」  そんなことになっていたとは知らなかった。  身体の先と言う先から凍りついていきそうだ。 「お前のせいで家族はバラバラだ」  寒くもないのに、今にも体がガタガタと震えだしそうになる。  顔色は最悪に真っ青だった。  肩越しに振り返った宗助が、翠の顔色に目を瞠る。 「翠さん」 「翠。お前の名前は、我が家では禁忌でしかない」  お構いなしに話を続ける真澄に、そろそろ黙れと宗助が目で威圧しながら翠の顔を覗き込んでくる。 「翠さん、どうしたんすか」 「それなのに、どうしてお前の話題なんかでると思うんだ」 「黙れっ」  宗助が低く怒鳴った。真澄の顔が苦虫を噛んだように歪む。  目の前がチカチカとなりはじめ、それを拭い取ろうと瞬きを繰り返す。 「翠さん、大丈夫? 気分でも悪いんすか?」  心底翠を心配している声だった。  宗助が肩を抱いていてくれていたが、その手の感覚さえ薄れていきそうだ。 「翠さん、しっかり。どうしたんすか」  切羽詰まった宗助の声が耳元で聞こえる。  視界が霞んで何度も目をしばたたかせると意識をはっきりさせようと頭を振った。  そんな状況下でも真澄は懲りずに口を開いた。 「今日のところは引き上げるが、いい機会だ。最後に一つ教えておいてやろう」  今度は何を言うつもりなのか。 「母さんが昔からお前に冷たかった訳を」  いい加減黙れと拳を握りしめて体を翻そうとする宗助の腕をとっさに掴んでいた。  相変わらず息苦しくて頭痛までしてきたが、霞かける意識の中でその訳を聞きたいと思った。  どうして兄と自分との愛情の掛け方にあれほどまでに差があったのか。  なぜ母と自分との間にあんなにも隔たりがあったのか。  母に無償の笑顔を向けられていた兄が幼い頃からどれほど羨ましかったか。  どうしたら笑いかけてもらえるのか子供ながらに頭を悩ませて、母の気を引きたくて一生懸命明るく振る舞った。  それなのに、家族の中にいながらいつだって寂しいと感じで、なぜ取り残されたような孤独感を味合わなければならなかったのか。  不意に、その理由が知りたくなった。 「お前は」  真澄の口がゆっくりと開かれる。  開かれた口が、そのまま片方の口角を上げるように嗤った。 「殺人犯の子供なんだよ」 「――――」 「強盗殺人で逮捕された女が、獄中出産した子供だ」  苦しくなる胸を握りしめながら息も思考も止まったかと思った。  そんな事実、どう受け止めたらいい。 「たまたま刑務所を慰問で訪れたあの神父が、二人目の子供をなかなか授かれずにいた父さんと母さんに養子としてお前を薦めてきた。だが、赤子とは言え犯罪者の子供。予想外に父さんは乗り気だったが母さんはお前を養子として引き取ることに最後まで反対していたよ」  一瞬の静けさがその場に落ちる。  誰も何も言わなかった。  目の前が真っ白になりかける中、ドアノブを回す音が聞こえた。  カツカツと妙に頭の中に響く靴音と共に、真澄の声が遠くで嗤う。 「獄中の女は赤ん坊などいらないと言ったそうだ」 お前は一度ならず二度までも捨てられたのだよ、と。  ――あれ、この光景を知ってる。  白い壁と白い天井に覆われた無機質でガランとした部屋を。  パイプベッドの奥の窓は冬の朝陽を受けて外気温と室温の恩度差のせいで水滴がついてうっすらと曇っている。  窓から差し込む陽射しに目を細めていると、なぜかとても懐かしい気持ちになった。  ――静かだった。  その部屋には自分以外誰もいないのではと思うほど静かだった。  ふと、両手で握っていた皺だらけの細い指がピクピクと動く。  はっとして視線をベッドに戻すと、祖母がちょうど目を覚ましたところだった。  そうだ、ここは祖母が入院している病室で、朝から見舞うために病院に来ていたのだった。  ベッドサイドに置かれた折りたたみの椅子に腰を下ろして、祖母が目を覚ますのを手を握って待っていたところだ。  夢だ、と思った。  自分は今夢を見ている。  二人のやりとりを第三者的な立場から俯瞰しているのではなく、まるで、同じ日を二度繰り返しているような夢だった。  これは、祖母が亡くなる前日の朝に、夜勤シフトの前に久しぶりに起きている祖母に会いたくて早起きして来た日の出来事だ。  そうと分かっていながら、自分の口はあの日と同じように同じ事を同じ声で同じ言葉で祖母と会話をする。 「おはよう。ばあば」  ふわっと笑って朝の挨拶をかける。  入院する前よりも随分と痩せこけてしまったしわくちゃな祖母の顔を覗き込む。  ベッド脇の翠の顔を見て、おはようと寝起きの掠れ声で小さく応じた。  それから窓の外を見やって、陽射しを吸い込むように大きく深呼吸すると、今日も寒そうだと目蓋の垂れ下がった小さな眼で笑った。  翠は何度も点滴を打たれて内出血で青くなってしまった痛々しい腕をさすりながら静かに頷く。 「今日は特別寒いよ。ほら、玄関先に置きっぱなしのバケツ、あったでしょ? あの中の水が今朝はちょっとばかり薄氷がかってたよ」 「そうかい。そりゃ難儀やね」 「うん、本当に。ばあば、お腹空いてない? 看護婦さんに言って朝食持ってきてもらおうか。それとも、もう少し後にする?」  首を動かして翠の方を向くと、まだいらないと小さく首を振る。  擦っていた翠の手をギュッと握り返して、 「翠よ、お前は食うてきたんか」  滋賀の出身だという祖母の喋り口調は、関東の言葉も入り交ざって長い年月の中で祖母独特のイントネーションを形成させてきた。  その独特の喋りが耳に馴染んで心地よくて大好きだった。  懐かしい響きだ、と思った。久々に聞く、大好きなばあばの声だ。 「起き抜けにね。大丈夫だよ、ちゃんと食べてきたから」  優しく穏やかな時間が流れる。  懐かしい時間。  たわいもない会話をしながら、病室でいつもこうして祖母と二人で過ごしていた。  翠はいつでもそうであったように祖母に微笑みかけると、 「そう言えば、もう庭の山茶花(さざんか)が満開なんだよ。今年も凄く綺麗に咲いた」  鎌倉の祖母の家の庭には、庭をぐるっと囲むように翠の背丈ほどもある山茶花が何本も軒を連ねていた。  この時期になるとピンクの色鮮やかな花をつけて、庭一面に山茶花の壁ができる。 「今年もよう咲いちょるかいな」  そうかいそうかいと頷きながら、その目で本当は見たいだろうにそうできない寂しさが祖母の口許に少しばかり影を落としたようだった。  少し体を起こしたいという祖母を、ベッド脇のハンドルを回して少しだけマットの角度を上げると、頭の下にあった枕を背中の辺りに直して状態を整えてやった。  サイドボードの上に置かれた水差しからコップに水を注ぐと、一口祖母の口に含ませてやる。  コップをサイドボードに戻して洗面所に行ってタオルをお湯で濡らすと、それで祖母の顔と手を優しく拭ってやった。  再び椅子に腰を下ろして手を握ると、祖母を励まそうとなるべく暗い顔を作らないように普段通りの笑みを浮かべる。 「ねえ、ばあば。次に先生から外出許可がもらえたら庭で焚火をしようよ」 「お前、まだせんとかね、今年は」 「やる時はばあばと一緒じゃなきゃ。毎年そうしてきただろう?」  祖母と暮らすようになって、毎年冬の時期、山茶花が咲くと決まって庭先で焚火をしながら二人で焼き芋を作るのが恒例になっていた。  それを今年はまだやれていなかった。 「だから、今年も一緒に焚火をしようよ。ね。秋に収穫したサツマイモも沢山あるんだよ。ぷっくりと太った少しばかり不細工なサツマイモだけど」  と言ったら祖母は肩を揺らして笑った。  その笑顔を見ていると、ほっとする。  ほっとした気持ちを今でも覚えている。  夢の中とは言え、変な感じだった。  同じ日をやり直している。一語一句間違える事無く。  正直、この後に起こる出来事があまりにも辛すぎて、この日の祖母とのことを今の今までほとんど忘れていた。  次来るときはサツマイモのレモン煮を作って持ってきてあげるね、などと言っていると、ふと、祖母が翠の手をトントンと叩いた。 「そこの引き出しを開けなされ」  指だけでサイドボードの引き出しを指しながら言うのへ、翠は言われるままに引き出しを開ける。 「これ――。ばあば、これって」 「取りなさい。はあ、ばあばのロザリオや」  小さなロザリオだったが、総ゴールドで誂えたロザリオは手の中にずっしりと重く感じた。  クロスの中央に1カラット程のブリリアントカットされた煌びやかなダイヤモンドがはめ込まれている。亡くなった祖父から送られた婚約指輪についてあったダイヤを埋め込んだものだと聞いたことがある。  クロス全体には細かな装飾が施されていた。  小さな無数の花が散りばめられたような。 「いつ見ても綺麗だよね。ばあばのロザリオは」  掌の上にのせてまじまじと眺めている翠に、 「お前が持っとれ」  と、言った。 「え」  驚いて顔を上げる。 「そらお前にやるけん、お前が持っとれ。老い先短いばあばには、はあ、もうぼちぼち用済やで。そやからお前が持っとれ」 「ばあば」  そんな不吉なこと言わないでくれと、翠の顔がさっと青ざめる。  不安と悲痛に眉を寄せて、唇を引き結ぶ。 「ばあば、そんなこと言うのは止めて」  笑顔で過ごそうと思っていたのに、そんなこと言われては笑ってなどいられない。 「いらないよ。俺は、ばあばが元気なら何もいらないから」  祖母の手にロザリオを握らせるとその手ごと両手で包み込んだ。 「お願い、ばあば。俺を一人にしないで」  包み込む手を額に押し当てる。 「ばあばはどこにも行かんよ。あの世に行ってもお前の傍におるけんね」  手を振り解いてロザリオを翠の手に押し戻した。 「これは、ばあばの後悔の塊ぃや」 「後悔の……塊って?」  そんなことを祖母は言っただろうか。  夢の中で忘れている断片を記憶の中に追う。 「そこに描かれておるんは山茶花の花や。ばあばの遠くにおっても近くにある想いを込めとる」 「遠くにいても近くにある想い?」 「ばあばは、山茶花が忘れられのうてとうとう死ぬまで手放せんかった」 「まだ死んでないよ」  幼い子供のように寂しさのあまり今にも泣き出しそうな翠の頬を指で軽く叩く。 「よう聞けよ、翠。お前の人生、お前の行きたいと思う道に向かって行け」  ああ、そうだ。  確かに祖母は『行きたいと思う道に向かって行け』と言っていた。  『生きやすい道を行きなさい』と想いを込めて手渡してくれたものだとずっと思い込んでいた。いや、知らぬうちにそうだと頭の中ですり替えてしまっていたのかもしれない。  自分が傷つかない道ばかりを探して全てと向き合うことから逃げるような人生ばかりを送ってきた。  違うのだ。祖母はそんなことを容認したのでもなく、まして薦めたのでもない。 「これは、このロザリオは戒めじゃ。お前にとっての戒めにせえ」 「戒め」  ――そう、確かに祖母は戒めと言った。  パアッと視界が開けるように記憶が蘇る。胸の中に熱いお湯を注がれたような、冷え切って長い間枯れたままだった井戸に湧き水が溢れたような、急速に巻き戻されるように記憶が意識をすり抜けて、抜け落ちてしまっていた断片が今かちりとはまった。 「ばあばのように後悔を抱いて死ぬような人生はしなさんなよ」  自分の心の赴くままに着き従って諦めることなく行きたいと思う道をひたすら突き進め。  勇気がもてず一歩を踏み出せなくなったら、ロザリオを見て後悔を抱いて死んでいったばあばを思い出せと。  忘れていた。  今の今まで忘れていた。  暫く黙って翠の手を優しく撫でてくれていた祖母が、ふと室内外の温度差で曇った窓ガラスの外をどこか懐かしむように眺めながら、独り言のように呟いた。 「山茶花は、故郷に置いてきたばあばの想いそのものやった。傍にいて咲いとったかった」  それがどう言う意味だったのか、なぜかその時は問えずにいた。  今尋ねてはいけないような気がして、一緒に窓を眺めやりながら黙っていた。  祖母は長い間ずっと何かを悔やんで生きてきたことを知って、はたして祖母は幸せだったのかと思うと胸が痛んで何も言えなかった。  死を目前にして、自分の人生なんだったんだろう、なんてあまりにも恐ろしい言葉を祖母の口から聞くのが怖かったのかもしれない。 「ばあば」  翠は恐る恐る声を掛けた。  ん、と返事だけを返す祖母の声は穏やかで口許にはうっすらと笑みが浮かんでいた。  その表情がとても幸福そうに見えて戸惑ったのを覚えている。  だから、怖かったけど思い切って聞いたのだ。「幸せ?」って。  窓からようやく翠のほうへ顔を向けた祖母は、少し驚いたような表情をみせて、それからしわくちゃな顔を更に皺だらけにして笑った。 「お前がおるに。不幸なわけなかろうて。何言っとる」 「でも後悔してるって」 「後悔しとるが、生涯変わらず想い続けることを貫いてこれたことは幸せなことじゃけ。はあ、それで満足しとる。上等や」 「上等?」 「人生、帳尻が合いさえすれば上等やろ」  頑張ったからといって全て上手くいくとは限らない。でもやった分だけ帳尻が必ず合うのだと、祖母はそう翠に言って聞かせてくれた。 「それがあったから、ばあばは強くいれたと思うとる。ばあばにとってはロザリオは励みや。イエス様なんて知らんが、帰依した覚えもないけん。せやけど、このロザリオはばあばの励みやった」 「うん」 「お前はこれを戒めにせえ」  それは、道を違えることなく元気に幸せにという思いを込めてのものだった。  それを忘れて愚かにも道を踏み外してきてしまった自分は本当に親不幸者ならぬ祖母不幸者だ。  このあと、どんな会話をしたのか、きっととりとめもない話をして出勤までの時間をすごしたのだろうと思う。  祖母は、自分の命がわずかな時間しか残っていないことをどこかで分かっていたのかもしれない。死に目に翠に会えないことも予感していたのだろうと思う。  この時の会話が、祖母なりの別れのやりとりだったのかもしれない。  一人になっても、お前ならちゃんと生きていけるよと、自信を持って前を向いて歩いて行けと、ばあばが保証する。そう言外に翠に告げていたのかもしれなかった。  そうだと解っていたら、もしくは、あるいは自分は道を踏み外すことなく、もっと強い人間になって今とはまるで違う人生を歩んでいたかもしれない。  この祖母との会合の後、十数時間後に目の前の彼女が死んでしまうなんてことを露にも思っていなかったために、その急すぎる訃報と大事な人の死に目に会えずお別れもできなかったことへのショックで祖母が本当に死んだのかすらずっと信じることができずにいた。  今だから分る。一人で寂しく死なせてしまった祖母への負い目が翠の心を冷たく凍らせて不安定なものにさせてしまった。  年月が流れた後も、祖母の死を自分は長いこと受け入れることができずにいたのだと。だからきっと逃げるばかりの人生を歩んできてしまったのだと。  大好きだった祖母の死から立ち直るということ以前に、その死ときちんと向き合って受け止めることができずにきたから、自分を責めて自暴自棄になり、期待や希望から目を逸らして下ばかり向いて生きてきてしまった。  祖母の死を乗り越えて、祖母が愛情をいっぱい注いで育ててくれた自分自身を信じることができていたなら、戒めとともに後悔のない人生をしっかりと前を向いて歩いていたかもしれない。  かもしれない、がたくさん翠の意識を通り抜けていく。  後悔先に立たず。やらぬ後悔よりやる後悔。  なにもやらないままの後悔は悩みや苦しみが増えていくばかりだろう。  ならば、やって後悔して少しでも悩みや苦しみを減らしていくことのほうがより豊かな人生だとは言えないか。  いずれにせよ後悔することが人生なのだとしたら後者のほうがいいに決まっている。  そして、最後に帳尻が合えば上等なのだと。  そう、ようやく気付けた。  やり直すことに遅いなんてことはないと信じたい。  自分が変わりたいと望めば、世界は色彩をがらっと変えると信じよう。  『楽しいは作れる』と言った愛しい男の言葉を思い出す。  この夢もそろそろ終わりが近い。薄々そう感じながら、翠は胸に込み上げてくる熱いものを感じた。  夢の中だと知りながら、翠の口はこの日には発することのなかった言葉を紛れもない今の翠自身の意思で綴る。  それは、言いたくても言えなかった祖母への感謝の言葉とお別れの言葉ではなく、希望に満ちた未来の言葉だった。  「好きな人がいる」  涙で目が霞んで祖母の顔がはっきり見えなかったが、 「凄く、好きな人がいるんだ」  自分がどうしたいのか、素直にそれを口にするのは初めてで、それを躊躇いなく恐れることなく声に出して言えることがたまらなく嬉しくて涙がこぼれた。 「俺は、そいつと幸せになりたい」  涙と白い光に霞んで見えなくなっていく中で、確かに見えた気がした。  祖母の口許が賛辞と共に笑ったのを。

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