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夏色の宝石 5
「安心しろ。自滅するときはしっかりおまえも巻きこんでやる」
「少しも安心できないことをいい笑顔で言うのやめてく――」
言葉が途切れたのは雪生がキスしたからだ。
「い、いきなりキスするのもやめてくれる!? こっ、こっ、ここここ」
「鳴、おまえ鳥頭の割りに鶏の真似が下手だな」
「鶏の真似じゃないよ! こっ、こ、恋人同士になったからって、いつでも好き勝手にキスしていいと思ったら――」
ふたたび言葉が途切れたのは、雪生がふたたびキスしたからだ。
唇の感触なんて誰でも似たようなものだろうと思っていた。なのに、鳴の唇だけはちがう。離れた瞬間、また感触を確かめたくなる。柔らかさも温かさも他の唇と似たようなものなのに。何度触れても満足することがない。
「俺の言葉ちゃんと最後まで訊いてくれる!?」
鳴は耳たぶまで真っ赤にして怒鳴った。肘をついて身体を起こし、雪生をギッと睨んでくる。
いつまでたっても慣れない奴だな。キスなんて再会してから数え切れないほどしてきたのに。
呆れと愛しさが同時に湧き上がる。
「怒るとますます熱が上がるぞ」
「誰が怒らせてると思ってんの!」
「ほら、もう寝ろ。風邪は寝ないと治らない、とさっきも言っただろ」
「風邪じゃなくって脳みそがオーバーヒートしただけ、とも言ってなかった? っていうか、俺はさっきから寝ようとしてるんだけど!?」
鳴の反論はスルーして、なだめるように手の平で胸元を叩く。鳴は雪生を睨みながらも雪生に促されるままに横たわった。
赤く染まっている耳朶にキスしたい衝動に駆られたが、さすがにそれは自重した。
「……疲れた。人生でもっとも疲れた一日だった」
鳴はほそく長い溜息とともに吐き出した。
「大袈裟な奴だな。初恋の相手が判明した。ただそれだけだろ」
「雪生にはただそれだけレベルの出来事なんだろうけどさ、俺にとっては天地がひっくり返るくらいの出来事なんだよ。ずっと隣にいた人が初恋の相手で、おまけに男だとか。彼女のひとりもいたことがないのに彼氏ができちゃったとか。じいちゃんにずっと騙されてたことも知っちゃったし……。波瀾万丈すぎない?」
二度目の溜息は重々しかった。
脳細胞の数が少なそうな鳴にとっては、処理しきれない出来事が怒濤のように押し寄せた一日だったようだ。
「安心しろ。これからもっと波瀾万丈になる」
雪生はにっこり微笑みかけた。己の微笑ひとつにどれほどの威力があるか、これまでの人生でよく知っている。鳴には少しも効果のないことも。
案の定だ。他の人間ならうっとり見蕩れるところだが、鳴は険悪は表情で雪生を睨みつけてきた。
「もうさ、何度も何度も何度も言ってるけど、雪生の安心しろは安心どころか不安にしかならないからね! ……あー、でも、そうか。アメリカかあ。俺もそのうちアメリカにいくんだよね……。英語……勉強しないと……」
目を閉じたかと思うと言葉が途切れ途切れになり、やがて寝息が聞こえてきた。
雪生は鳴が深い眠りにつくまで寝顔をじっと見つめていた。
もしも街で鳴とすれちがったとしても決して振り返ることはないだろう。特徴のない姿かたちは街の背景同然だ。
どこにでもいそうなこの平凡な少年が、雪生にとって世界でたったひとりの特別だ。九年もの時間をかけてやっと手に入れた。
二度と手放すつもりはなかったが、そのためには乗り越えなくてはならない壁がこの先いくつも待ち受けている。なにせふたりは同性だったし、雪生はあと数年もすればふたたび渡米するつもりでいる。
これからもっと波瀾万丈になる、と鳴に言ったが、あれは己に向けた言葉でもあった。
「おやすみ、鳴。熱が下がったら、またたくさん遊ぼう」
九年前のあの夏のように。
雪生は鳴が目にしたら心臓発作を起こしかねない笑みを浮かべると、鳴の額に口づけをひとつ落とした。
*** おしまい ***
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