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夏色の宝石 4

「鳴」  名前を呼ぶと振り返る。頬の色はややおさまったが、囓ってみたくなるくらいにはまだ赤い。 「ありがとう」 「どういたしまして――って、なんに対するお礼なの、それ」  怪訝そうな顔つきで雪生を見つめる。  雪生は鳴に再会する日をもう何年も心待ちにしていた。それと同時に鳴と再会するのが怖くもあった。  あの夏の一週間。鳴と過ごした七日間は、雪生がただの子供でいられた最初で最後の日々だった。  雪生の背中には生まれ落ちた瞬間から桜家がのしかかっている。桜家の御曹司であることは雪生にとっての誇りだったし、苦痛に思ったことは一度もなかった。  それでもあの七日間は特別だった。  無邪気な子供として過ごした夏の一週間は、不可視の宝石となって雪生の中に残り続けた。 「おまえが相変わらずマヌケでいてくれて嬉しい、ということだ」 「……雪生はそこまで毒舌じゃなかったよね。子供のころはもうちょっと可愛げがあったのに。いったいどこで落としてきちゃったの。今からでも拾いにいってよ、俺のために」  鳴はグラスを盆へもどしながら雪生を睨みつけてきた。雪生の言葉の本意が鳴に伝わるはずがなかったし、また伝えようとも思わなかった。  会いたかった。雪生をただの子供として扱ったあの無礼な子供に。  あの夏の続きをもうずっと――九年間も待ちわびていた。  でも、再会したところであの夏の続きが果たして始まるだろうか。懸念が雪生の心から消えることはなかった。  雪生の素性を一顧だにしなかったのは、鳴が無知な子供だったから。ただそれだけの理由かもしれない。  さすがに高校生にもなってSAKURAグループの御曹司を歯牙にもかけない人間などいるはずがない。再会したところで桜家の次男である雪生にへつらうか、対等であろうとして虚勢を張るか、そのどちらかに決まっている。  もしも鳴が今まで出会ってきた人間たちのように振る舞ったら、自分はさぞかし落胆するだろう。  いっそのこと再会など考えないで、美しい思い出として大切にしまっておくべきなのかもしれない。幾度となくそう思った。  それでも会いたいという思いを打ち消すことはとうとうできなかった。 「怒ることはないだろ。俺はおまえのマヌケなところが好きなんだから」  雪生は整うだけ整った顔に鮮やかな笑みを浮かべた。 「――褒められてるのか貶されてるのか、喜んでいいのか怒っていいのかわからないこと言うのやめてくれない?」 「鳴、熱が下がったら杉原さんの家のヤギを見にいこう。きっとあのときのヤギの子孫がいるはずだ」 「え、いいけど……なに突然。あ、そういえば九年前も見にいったよね。雪生と俺が家に帰る日」 「チキンヘッドのおまえがよく覚えてたな」  素直に感心したのだが、馬鹿にされたと思ったらしく鳴はムッとした顔で睨んできた。  なんだか先ほどから鳴に睨まれっぱなしな気がするのは気のせいではないはずだ。恋人同士になったはずなのに、なんだかあまりそんな気がしない。キスくらいは今までもさんざんしてきたし。  まあでも、それも悪くないな、と思う。なんだか自分たちらしくて。 「ついさっき思い出したんだよ。言っとくけど俺の記憶力はいたって普通だからね。十四歳で大学を卒業するような変態を基準に考えないでくれる?」 「誰が変態だ。おまえはつくづく口が悪いな」 「それ雪生にだけは言われたくないから」  さんざん迷った挙げ句に果たした再会は、雪生の期待した通りだった。いや、それ以上だったかもしれない。  鳴の態度のどこにも媚びやへつらいは見あたらず、かといって対等でいようと虚勢を張るわけでもなかった。鳴はどこまでも鳴だった。  それがどれほど嬉しかったか。  きっとおまえには永遠にわからないだろうな。 「薬を飲んだらさっさと寝ろ。風邪は寝ないと治らないぞ。まあ、おまえの熱は風邪というより脳が処理能力の限界値を超えたためにオーバーヒートしただけ、という気がするけどな」 「うん、まあ、そんな感じかも……。今日一日でいろんなことがありすぎだもん。シートベルトのないジェットコースターに乗せられた感じ」  ふわあ、と気の抜けた欠伸をすると、鳴は「少し寝るよ」と言って横たわった。薬が効いてきたのかもしれない。 「雪生は他の部屋で寝たほうがいいよ。隣で寝たら風邪が移るから」 「風邪ならな。脳のオーバーヒートは感染しないから安心しろ。それに俺はおまえとちがって心身ともに鍛えているからな。もしも風邪だとしても、そう易々と移ったりしない。おまえに寄生したウィルスならマヌケ色に染まっているだろうから尚更だ」 「……ほんっとひとこと多いよね、雪生って! いつか雪生が口の悪さで自滅しますように」  鳴は横たわったままの体勢で両手を擦り合わせた。いったいどんな神様に祈っているのか、それとも悪魔に祈っているのか訊いてみたいところだ。

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