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月の欠片 5
「え……?」
我ながらマヌケな声が出た。
リュンクスのメンバーはそれぞれの楽器を手に定位置に立った。ギタリストにベーシスト、ドラマー。それにボーカルという四人編成のバンドだ。雪生の双眸はボーカリストにひたと据えられている。
ラフに整えられた髪も、派手な模様の入った紫のシャツも、肩にかけたエレキギターも生まれて初めて目にするものだったが、その顔は見間違えようがなかった。
……そうか、これがサプライズだったのか。
小さく息をついてから隣へ視線を向けると、鳴もまた雪生を見ていた。雪生と目が合うと、少し困ったような顔で笑う。
「月臣さんがライブをやるからぜひ観にきてくれ、ってチケットを送ってくれたんだよ。雪生と一緒に観にきて欲しいって。なんかひとカラをやってたら、いきなりスカウトされたんだって。ちょうどボーカルが脱退して困ってたとかで。あ、リュンクスってインディーズじゃかなり人気のあるバンドらしいよ。CDも何枚か出してるんだって。そんなバンドにスカウトされるなんてすごいよね」
鳴はらしくもなく早口で一気に言うと、雪生の機嫌をうかがうように上目遣いで見つめてくる。
「……えーっと、怒った?」
「いや」
もう一度息をつくと、苦笑とも笑みともつかないものが唇に浮かんだ。
「これくらい驚かせてくれないと、相馬鳴じゃないからな」
いきなり派手な音が鳴り、思わずステージに目を向ける。耳をつんざくような歓声。MCもなにもなく、いきなり曲が始まった。
雪生はぽかんと口を開けそうになった。もちろんプライドにかけてそんなみっともない表情を晒したりはしなかったが。
これはほんとうに俺の知っている兄だろうか。
雪生が大学に入ったあたりから、交流はほとんど途絶えていた。が、それにしても――
月臣はハンドマイクを握りしめて、雪生の知らない歌――恐らくリュンクスのオリジナルソングだろう――を歌っている。はっきり言っていままでのバンドとはレベルがちがう。歌も演奏もだ。
技術として上手いだけじゃない。曲がひとかたまりのエネルギーとなって胸になだれこんでくる。雪崩のようにふせぎようもなく。
観客たちの盛り上がりもいままで以上で、客の身体が何度もぶつかってきたが、それもいまは気にならなかった。
そういえば兄さんは歌が好きだった。
まだ雪生が日本にいたころ、アコースティックギターを弾きながら歌を歌って聴かせてくれたことが何度かあった。
(兄さん、僕も弾いてみたい)
(じゃあ、こうやって持ってごらん。右手はこう)
幼かった雪生にギターは大きすぎたが、月臣は子供には無理だなどと言わずに丁寧に教えてくれた。
ふいに浮かび上がった懐かしい思い出は温かでいて胸を切なくさせる。雪生が成長するに従って、兄の態度は徐々に冷ややかになっていき、やがては敵意を隠さないようになっていった。
兄さんはどういうつもりで鳴に『雪生と一緒に観にきて欲しい』と言ったんだろう。
月臣と顔を合わせたのは、月臣の隠れ家に鳴を迎えにいったときが最後だ。あれからは一度も顔を合わせていない。
弟に対するわだかまりが少しは溶けたんだろうか。それとも企みがあってのことなのか。
ステージ上の月臣は叫ぶように歌い、歌うように叫んでいる。その姿は楽曲を歌で表現することに集中していて、雑念は微塵ほども感じなかった。
雪生は隣の少年に目を向けた。鳴は天井へ向かって拳を突き出し、全身全霊でこのライブを楽しんでいる。
恋人の天真爛漫な笑顔を見ていたら、肩の力がふっと抜けた。唇に小さく笑みが浮かぶ。
少しは鳴を見倣うか。
初ステージを弟に見せたかった。雪生を招待した理由はきっとそれだけだ。いつになく素直な気持ちでそう思った。
雪生は初めて聴く歌に合わせて、高々と拳を振り上げた。
まったく俺らしくないが、兄さんほどじゃないだろう。そう思いながら。
ライブハウスを出たのは二十二時をまわったころだった。
じっとりした夏の空気が、汗の滲んだ肌にまとわりついてくる。不快指数はかなりのもののはずなのに、雪生の心は爽やかだった。
「……月臣さん、すごかったね。まるでプロのミュージシャンみたいだった」
鳴は熱に浮かされたような顔でつぶやいた。ライブの余韻がありありと残っているらしく、頬がいまだ上気している。
雪生は顔色こそ白かったが、胸の中には鳴同様に熱が残ったままだった。
夜の繁華街はにぎやかだ。サラリーマンや大学生たちがそれぞれグループを作って、夏の夜道を歩いていく。
「このままプロを目指したりするのかな」
それはない。確かにプロレベルの歌唱力だったが、月臣がSAKURAにどれほどの情熱を注いできたのか、雪生はよく知っている。
月臣にとってはSAKURAが夢そのものだ。
「今日は満月なんだね」
鳴の言葉に空を見上げると、ビルの上に薄荷ドロップのような月がかかっていた。白々した月は触れたらさぞかし冷たいだろう。
この熱を吸い取ったら、月は赤く染まるのだろうか。ふとそんなことを思う。
雪生は手の平に視線を落とした。そこには銀色のギターピックがのっている。
ラストの歌で月臣が客に向かって投げたものだ。ピックはまるで狙ったように、雪生の手の中へ飛びこんできた。
雪生が咄嗟にピックをつかむと、月臣は笑った。雪生がまだ幼かったときのような、屈託のない表情で。
あの瞬間、確かに目が合った。
銀に光るギターピック。月の欠片のように見えるそれを、雪生はふたたび握りしめた。
「なんだか月も月臣さんを祝福してくれてるみたいだね。月仲間だからかな」
「そうだな……」
口許がふっと緩む。
兄のことでこんなにも柔らかな気持ちになったのは、子供のころ以来だ。鳴と再会しなかったら、いまだに兄とはぎくしゃくしていたままだったろう。
「あー、でも、よかった。歌詞をド忘れしたり、緊張のあまり声がでなくなったりしなくって。月臣さん、ステージに立つのが初めてに見えないくらい堂々としてたよね」
「当たり前だ。俺の兄さんだからな」
雪生が不敵に微笑むと、鳴はきょとんと瞬きした。が、すぐに納得したようにうなずくと、
「そうだよね。雪生とおんなじ血が流れてるのに、そんなに神経が細いわけないよね」
「どういう意味だそれは」
頬に手を伸ばしたが、鳴は慌てた表情で素早く逃げた。
「なんか安心したらお腹が空いたなあ。雪生、どっかで軽く食べていかない?」
立ち止まり、雪生を振り返る。
雪生は呆れた。二十二時なんて食事をするような時間じゃない。夕食だって雪生の倍近く食べていたのに。
言いたいことは色々あったが、
「ああ、つき合おう」
雪生は微笑むと、ありがとうの代わりにそう言った。
「なにがいいかなあ。ハンバーグ、それともオムライス、はたまたカレーライス……。うーん、悩ましい」
「ハンバーグにオムライスにカレーライス? それのどこが軽くなんだ」
「だって、ライブでけっこう体力使ったからさ。しっかり食べて、しっかり体力を補充しないと。夏バテなんかになったら、せっかくの夏休みがもったいないだろ」
夏休みも残すところ三分の二となった。密度の濃い夏休み前半だったが、後半もきっと濃密な日々になるだろう。鳴が傍にいるかぎり平坦な日々などありえない。
確かにしっかり食べて、しっかり体力をつけておくべきかもしれない。どれほどのサプライズが起こっても、動じずに受け止めるためには。
「俺はラーメンがいい。前に祖父といったラーメン店が、この近くにあるんだ。なかなか旨かった」
「雪生とおじいさんがいったラーメン屋って……。それって伊勢エビとかキャビアがラーメンの上にのってたりするんじゃないの。言っとくけど、高級ラーメンなんて俺のおこづかいじゃ無理だからね」
「鳴、その金持ちイコールキャビアという貧困な発想をどうにかしろ」
「じゃあ、伊勢エビはのってるんだ。あ、わかった。伊勢エビとフォアグラだ」
「そういう意味じゃない」
雪生は呆れた視線を隣へ向けたが、それも長く続かず笑ってしまった。
馬鹿みたいな会話を愛しいと思う。自分らしくないこと極まりないが、そんな自分をけっこう気に入っている。
すっかり温かくなったギターピックをポケットに押しこみ、かわりに鳴の手を握りしめる。
「えっ、ちょ、なに――」
雪生は鳴の動揺をきれいさっぱり無視すると、手をしっかり握りしめたまま夜の道を歩いていった。
おしまい
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