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月の欠片 4
「えっと、今日のライブについて少し説明しておくね。今日のライブは対バンっていって、複数のバンドが出演するんだよ。雪生、対バンって言葉知ってた?」
「いや、初めて聞いた」
「この世の中には俺が知っていて、雪生の知らないこともあるんだ。なんか知的レベルがアップした気がするなー」
そんなものはいくらでもあるだろう。十円で買える菓子だとか、から揚げ入りのおにぎりだとか、五百円以下のエスカルゴだとか。鳴と出会わなかったらきっと死ぬまで知らなかった。
「俺の好きなアーティストのバンド――あ、バンド名はリュンクスっていうんだけど。リュンクスは四番目に登場するんだって。インディーズじゃ、けっこう人気あるらしいよ」
リュンクス。ラテン語で大山猫という意味だ。
「いわゆるロックバンドなんだけど、雪生はロックなんて聴くの? なんかクラッシックとかオペラのイメージしかないんだけど」
「そうだな、特に好んで聴くわけじゃないけど、苦手というわけでもない。気に入ればジャンルに拘らないし、ロックバンドの曲をよく聴いていた時期もあったな」
「へえ、なんていうバンド?」
何気ない質問だったのに答えにつまった。雪生がよく聴いていたロックバンドは、兄の月臣が愛したバンドだったからだ。雪生があのバンドの曲を聴くようになったのは兄の影響だった。
もう長いこと聴いていない。あのバンドの曲を聴くと、どうしても兄に想いを馳せてしまうから。
「雪生?」
鳴は黙りこんでしまった雪生を不思議そうに見つめた。
「クイーンだ」
ひとつ呼吸してから答えると、鳴の口から「えっ!」と驚きの声が洩れた。
「クイーンを知っているのか」
「えっ、あっ、う、うん。最近ちょっと聴く機会があって。いいよね、クイーン。歌詞の意味はぜんぜんさっぱりこれっぽっちもわからないけど、俺も好きだよ。……そっかあ、、雪生もクイーンが好きなんだ。へええええ」
鳴は嬉しそうににこにこと笑っている。雪生と趣味が合ったのを喜んでいるように見えるが、なんとなく違和感がある。
「あー、初ステージ楽しみだなー。なんだか心臓がバクバクしてきた。初ステージが無事に成功するといいんだけど」
「ほんとうにバクバク言ってるな」
薄いTシャツ越しに胸に触ると、心臓の動きがはっきりと伝わってきた。
「ちょっ! どこ触ってんだよ! あっ、す、すみません……」
鳴は慌てて身をよじったが、その弾みに隣の客へ肩がぶつかってペコペコと頭を下げた。
「なにをやってるんだ、おまえは。狭い空間で暴れるな」
「誰のせいだと……。すぐ近くに人がいるのにおかしなことしないでくれる?」
鳴が睨んでくるのを、雪生は涼しい顔で受け流した。
アナウンスが注意事項を告げてからしばらくすると、フロアの照明がふっと落ちた。客たちからざわめきと拍手が起こる。有名なSF映画のテーマソングが流れたかと思うと、ステージの袖から出演者らしき男たちが姿を現した。
歓声がどっと上がり、前のめりになった客に背中を押される。
「こんばんはあ。トップバッターのシフルです」
ステージはボーカルのMCで始まった。
うるさい。
雪生の忌憚なき感想はそのひと言に尽きた。
下手くそとまでは言わないが、プロレベルにはとても及ばない。サイレンのような楽曲にもまったく魅力を感じない。雪生だって流行の歌をまったく聴かないわけではないし、ランキングに並ぶ歌を気に入ってスマートフォンに落とすことだってある。
が、ライブが始まってから耳にした歌は、どれひとつとして雪生の琴線をくすぐらなかった。情熱は伝わってくるがそれだけだ。
雪生の感想とは裏腹に、客たちは異様なまでに盛り上がっている。ときどき隣の客の腕があたるし、後ろからは押されるしで不愉快極まりない。
雪生は無の表情でどうにか堪えた。態度に出せば鳴が気にするだろうと思ったからだが、盛りあがっているふりをすることまでは無理だった。
鳴は心配そうな視線をちらちらと向けてきたが、
「俺は音楽は静かに聴き入るたちなんだ」
そう説明すると納得したらしい。それからは不動の雪生を気にすることなく、周囲の客と同じく拳を振り上げてノリにノッている。楽しそうでなによりだ。
三番手のバンドがステージを去り、いよいよ鳴がファンだというボーカリストの番がやってきた。
ステージから人の姿が消えると、フロアの空気が弛緩する。客たちは束の間の休憩にドリンクを取りにいったり、友人と感想を言い合ったりしている。
「……雪生、いよいよだよ。いよいよリュンクスの出番だよ。どうしよう……気持ち悪いくらい緊張してきた」
雪生たちもカウンターへドリンクをもらいにいったのだが、鳴は青い顔でミネラルウォーターを両手で握りしめている。
「おまえが緊張してどうするんだ」
「だって、初ステージなんだよ。初ステージってことは初めてのステージなんだよ。きっとすごーく緊張するよね……。俺だったら逃げ出したくなってるもん。頭が真っ白になって歌詞をド忘れしたりしたらどうしよう」
「安心しろ。きっとおまえほどは緊張していないはずだ」
「子供の発表会を見守る親の気持ちってこんな感じかな。……なんだか胃がキリキリしてきた」
鳴は青い顔で鳩尾のあたりをさすった。
どれだけファンなのか知らないが、いくらなんでも心配しすぎだろう。雪生は呆れた。
「のんびりしてると演奏が始まるぞ。いまのうちにペットボトルを空にしたほうがいいんじゃないのか」
そう言って、雪生自身もペットボトルを空にする。鳴も慌ててそれに倣った。
ふたたびステージの中ほどへもどると、聴き覚えのある洋楽が流れてきた。流れてきた音楽に触発されたかのように、わっと歓声が上がる。どうやらバンドには登場時のテーマソングのようなものがそれぞれあるらしい。
雪生はハッとした。知っている曲だ。クイーンの『地獄へ道連れ』――
ついさっきクイーンの話をしたばかりなのに。奇妙な符合を感じる。
ステージの袖からメンバーが姿を現すと、歓声はひときわ激しくなった。
さあ、今度はどのくらい聴くに堪えうるものなのか。雪生は熱のない目でステージをながめていたが、その目がふいに大きく見開いた。
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