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月の欠片 3

「いやー、それにしてもすごい眺めだったよね。三千円を払う価値はあったよね。三千円あったらうまい棒が三百本買えるけど……それくらいの価値はあった……のか……? いやいやいや、あったあったあったはず!」  スカイツリーを出たふたりは、そろそろ夕食時だということでファミリーレストランに入った。スーツを仕立てたときに入ったのと同じチェーン店だ。  さすがに二度目なのでメニューを見ても価格に驚きはしなかった。が、どうしても価格の安さに胡散臭さを抱いてしまう。  鳴は天望のチケットが三千円以上したことをいまだに引きずっているらしい。自分で自分を納得させようとぶつぶつつぶやいている。  庶民な高校生にとって三千円は決して安い値段ではない。それくらいは雪生にも想像がつく。ぶつぶつ言うくらいなら素直に奢られればいいものを、と思ったが、それを良しとしない鳴に恋したのだからしかたがない。 「庶民はうまい棒に換算して考えるのが習性なのか?」 「庶民っていうか俺の習性なだけだけど。うまい棒何本分って考えるとわかりやすくない?」  雪生にしてみれば逆にわかりづらいが、いちいちツッコんでいるとキリがないのでやめておく。  慣れない味の食事を食べて、店の外に出た。 「雪生、まだ時間いいよね。もうひとつだけ雪生といってみたい場所があるんだ」  鳴は雑踏を歩き出しながらそう切り出した。  きた――  思わず身構える。鳴と出かけて何事もなく終わるはずがない。きっとこれからとんでもないことが起こるのだ。いまから東京湾でスキューバーダイビングをしよう、と誘われても驚いたりするものか。 「わかった」  雪生は覚悟をこめてうなずいた。雪生のある種の諦念に気づくようすもない。鳴は、 「ここからそんなに遠くないから、こっちこっち」  意気揚々と雪生の腕を引いて歩いていった。  歩くこと十五分ほど。 「あ、あったあった。もう人が並び始めてるね。俺たちも早く並ぼう」  雑居ビルや飲食店のつらなる道に行列ができていて、スタッフらしき青年たちが列に加わろうとする人々を誘導している。 「あのー、整理番号十五と十六番なんですけど」  鳴がチケットを見せながらスタッフのひとりに声をかけると、列の前のほうへ誘導された。 「いったいこれはなんの行列なんだ」  行列は飲食店などが入っている雑居ビルのひとつへと続いている。恐らくその雑居ビルに鳴の目的地があるんだろうが、いったいどういう場所なのか見当もつかない。 「ライブハウスのお客さんたちだよ。そこのビルの地下にライブハウスがあって、七時からセッションがあるんだ」 「……それを観にきたのか?」 「うん」  なんだその子供みたいな返事は。可愛すぎるだろう。  というか、まさかライブハウスにつれてこられるとは思いもしなかった。いったいなぜライブハウスなのか。いままでふたりのあいだで音楽が話題になったことがあっただろうか。いや、ない。  鳴の思考をたどってみようとしたものの、奇妙奇天烈な迷路を延々と彷徨うことになりそうなので、あっさり断念した。  行列に並んでいるのは大学生から社会人らしき男女がほとんどで、他に高校生らしき顔ぶれもないではないがごくわずかだ。 「おまえの好きなアーティストが演奏する、ということか?」 「さすが雪生。察しがいいね。うん、俺の大好きなボーカリストがバンドのボーカルにスカウトされて、今日はその初ライブなんだよ。だから雪生と一緒に観たかったんだ。それに乙丸先輩のライブの予行演習にもなるかなって思って」  理由としてはいちおうまともである。が、どうも釈然としない。  春から夏にかけて同じ部屋で暮らしてきたが、鳴が音楽に聴き入っている姿は一度たりとも見たことがない。流行の歌をスマートフォンにダウンロードして聴いていることはあるが、それくらいだ。  雪生の知らない鳴の一面をいきなり見せつけられたようで、少々面白くない。 「なんて名前なんだ」 「え?」 「おまえの好きなボーカリストの名前だ」 「えっ、えーっと、それは……」  鳴はあからさまに狼狽えた。 「どうも怪しいな」 「あっ、怪しいってなんだよ! そんなことはライブが始まってからのお楽しみに決まってるでしょ! あっ、ほら、列が進み始めたよ。雪生、さっさと歩く!」  雪生の腕をがしっとつかみ、大股に歩いていく。  鳴がサプライズを企んでいるのは、誘われたときから顔つきでわかっていた。どうやらこのライブハウスがサプライズのようだ。ただのライブではない。雪生が驚くだけではなく喜ぶようななにかがあるのだ。  ひょっとして俺の好きなオペラ歌手がライブハウスをおとずれているとか?  それともこのライブハウスに芸術作品の数々が飾られているとか?  どちらも現実的ではない。  おにぎりの試食会という線はどうだろう。これならまだ現実的だ。  列が進むと、やがてライブハウスへ続く階段が見えてきた。どうやらライブハウスは地下にあるらしい。階段の壁にはライブのポスターやバンドのステッカーらしきものがところ狭しと張られていた。  雪生はポスターをひとつひとつながめたが、おにぎりの試食会を知らせるものは見つからなかった。もちろんオペラ歌手の来日を知らせるものや、美術品展示の告知もなかった。  階段を下りたところに受付らしきカウンターがあり、客たちはチケットを見せてから先へ進んでいく。  雪生はフロアへ入ると、好奇心を隠さずにあたりを見回した。  それほど広い空間ではない。入ってせいぜい三百人といったところか。行列の人数からしてもそのくらいだろう。椅子はひとつもなく、どうやらすべて立ち見席のようだ。  入り口の横にドリンクのカウンターがあり、最奥がステージになっている。ステージの手前に取りつけられた鉄柵が物々しい。ステージにはすでにドラムやアンプがセッティングされている。天井には数々のスポットライト。手狭なステージだが設備は整っているようだ。 「雪生、ドリンクのチケット代払わせちゃってごめん! すぐ返すから」  ライブにはチケットだけでなくドリンク代も必要だったらしく、受付で慌てる鳴の代わりに雪生が払ったのだ。  鳴は財布を取り出そうとしたが、 「ドリンクのチケットは五百円だろ。おまえ、五百円までなら奢られると言ってたよな。細かい金のやり取りをするほうが面倒だ」  雪生は素気なく断った。 「それよりチケット代のほうがかかっただろ。いくらだったんだ」 「えっ? え、えーっと――ま、まあ、お金のことは後でいいよね。雪生、ドリンクどうする? 先にもらって飲んじゃうか、それとも後にするか」 「喉は渇いてないから後でいい」  ふたりは前から五列目の中央あたりに並んで立った。なにせ座席がないので、前後左右を他の客に囲まれている状態だ。  はっきり言って落ちつかない。音楽を鑑賞する状況だとも思えない。  誘ったのが鳴でなければ、適当な理由をつけてさっさと帰っているところだ。その前に誘われた時点で断っているだろうが。

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