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6. SOUND

 日曜日、午後六時の前。  レックスがセント・ジョンズ教会へ行くと、そこには既にマウリツォが到着していた。 「爺様! ごめんね、待った?」 「いやいや、可愛いレックスを待たせるわけにはいかないからね。しかも今日はすこぶる気分が良い」 「どうして?」 「売れっ子劇作家様が今日も忙しく仕事をしているからだよ。昨夜遅くに電話がかかって来てね、ぐちぐちと文句を言う様は痛快だった!」  弾ける笑顔が、その言葉が本心に他ならないことを物語っている。  そういうマウリツォも今日は仕事で、午後六時までロンドン大学で講演を行う予定だった。 「講演はどうしたの?」 「早めに切り上げてきたよ。何せ可愛いレックスからのお誘いだ! この時間以上に優先させるべきものが世の中にあるかい?」 「ふふ、ありがとう」  大仰な身振りで話すマウリツォは満面の笑みで、レックスの手を取るとその甲にキスまで落としてみせた。流石に様になる。講演から直接来た彼の格好は、誰もが感嘆の溜め息を吐いてしまうほどに完璧なスーツ姿だ。普段ならば派手な青のジャケットやピンク色のネクタイなどを好んで身につけるマウリツォだが、今日は教会で開かれるコンサートという状況が頭にあったのだろう。落ち着いたグレーのスーツに、薄くストライプの模様が入っているだけだった。  レックスはマウリツォの格好を目で一撫でし、曲がりの無いネクタイを指でとんと叩く。 「今日もカッコいいよ、爺様」 「光栄だ、私の〝レークス〟! 君は今日も美の君臨者だ」  フォーマルに決めてくるマウリツォに合わせて、レックスもジャケットとスラックスを選んでいた。  同年代の若者が身に纏うには高価すぎる一式だ。見立ては、ミロ。  惜しみなく美を称賛できる男が惚れた青年のために選んだスーツは、これでもかというほどにレックスの魅力を引き出していた。さっきから道往くロンドンの人々がちらちらとレックスを振り返っている。  爺様ステキだから目立っちゃう、いやいやレックスの美しさに引き寄せられているんだよ。ミロが聞いたら嫉妬で憤慨しそうな会話をしながら、腕まで組んで二人は教会の中へと入った。傍から見れば、とびきり仲のいい祖父と孫……に見えないこともない。  マウリツォはミロほど表に顔を晒しているわけではないが、それでも見る人が見れば分かる。二人は一番後ろの席を選び、静かに腰を下ろした。どこかの慈善事業の一環として開催されるらしい今日のコンサートには子どもも多く来ているらしく、普段は静寂に包まれる教会も、今ばかりは賑やかだ。 「……エドガーという若者には礼を言わなければならないね」  子どもたちを眺めながら、マウリツォはぽつりと呟いた。 「どうして?」 「レックス、君が『コンサートに行きたい』と言い出す日が来るなんて思わなかったからさ」  全部嫌いになってしまったんじゃないかと心配だったんだ、と。そう言うマウリツォは優しい笑みを浮かべていた。  レックスの音楽に対する複雑な感情を誰よりも知っているのは、他でもない、マウリツォだ。レックスが最も悩んでいる時にずっと傍にいた。助言もいくつか与えた。  その中で、彼はレックスが抱える暗い部分を受け入れた。「無理に関わらなくても良いんだよ」と道を示したのはマウリツォだった。音楽の世界に生まれてしまったレックスが、その言葉で幾分か救われたのは事実。父母の話が掲載されているかもしれない雑誌から離れ、一切の楽器からも離れて、レックスの心はようやく凪いだ。  それでも、彼にはふとした時に口ずさむ歌がある。街角に流れてくる音楽に合わせて、鍵盤を叩くような仕草をしてしまう指がある。マウリツォはそれを知っている。だから心配だったのだ。 「心の赴くままに生きてほしいと願っているよ。大切なことはそれだけだ」  ――日曜日にコンサートがあるんだけど、一緒に行ってくれる?  その時の表情には、やっぱり少しの憂いは含まれていたけれど。  少しずつ乗り越えていく若いレックスを、マウリツォは何よりも愛している。 「……ありがとう、爺様。それからいろいろ、ごめんなさい」 「何も謝ることはないさ。可愛い孫を持てて私は幸せだ」  それぞれの親に急かされて、子どもたちが席に戻っていく。聖堂の奥、十字架の下にはオーケストラが座る椅子と楽譜台の準備が整っていた。  もう少しで、アナウンスとともに、今日の奏者たちが姿を現すだろう。 『今日という日が歓喜に包まれますように』  祈りは老演出家の思いを最適に映し出す母語で。  レックスにその言葉の意味を理解することはできなかったが、きっと優しい祈りだろう、と。微笑みを浮かべながら前方に顔を戻した。そして袖に現れた司会者が告げるコンサートの始まりを、拍手とともに迎えたのだった。 ※ 「レックス! 来てくれたんだ!」 「来たよ、エドガー。素晴らしい演奏だった」  コンサートが終わり、聴衆たちが三三五五に帰っていく中、ヴァイオリンを抱えたエドガーが急いでレックスの元へと走り寄って来た。  数日前に会った時と変わらない笑顔だ。オーケストラのメンバーと共にステージに座った彼は終始楽しそうに、今日まで練習を重ねてきた曲を見事に披露してみせていた。自分にも他人にも素直な性格なのだろう、レックスが差し出した手を握り返したエドガーの顔は喜色に満ちていた。 「何だか久しぶりに会った気がするなぁ! あ、あの、でも、……来て大丈夫だった?」 「どうして?」 「ほら、……ミロ・クローチェが」  声を潜めたエドガーに、レックスは軽く笑う。 「ちゃんと了承を取ったから大丈夫だよ。それに、今日は保護者付きだから」  その言葉に、横に立っていたマウリツォが一歩進み出る。柔和な笑みを浮かべた彼も、レックスと同じようにエドガーに手を差し出した。 「初めまして、ミスタ・エドガー。私はレックスの祖父だよ」 「へぇー、レックスのお祖父ちゃん……お祖父……ちゃん……?」  ほとんど反射的に握手に応えたエドガーの笑顔がゆっくりと色を変えていく。明るい表情が一瞬、何かを疑って、観察して、見て、気付いて、――それから大いなる驚愕へと。  隠し事ができない性質の彼はレックスとマウリツォの顔を交互に見比べた。 「え、え、えっと、……お、お名前……お聞きしても……?」 「ははは、その様子だと私のことを知っているみたいだね。マウリツォ・フランチェスカだよ、お若い芸術家さん」 「やっぱり!」  悲鳴のような声を上げて、それからここが教会であることを思い出して、エドガーは声を殺しながらもマウリツォの手を強く握り返した。肩を震わせる様子から、彼が本当の意味でマウリツォを知っているのだと分かる。  暫く感動が叫びにならないように震えていたエドガーは、僅かに赤らんだ顔をぱっと上げた。 「あなたの手掛けた舞台、見ました! 八年前の、現代版ハムレット!」 「おやおや、それはミロの奴が脚本を書いた舞台じゃないか」 「はい! 僕、悲劇は苦手だったんですけど、その時もう衝撃を受けてしまって。悲しい話だったけど、登場人物みんなが魅力的に描かれていて! 設定が現代に書き換えられていたから話が分かりやすかったし、何よりオフィーリアの死をあんなに美しく描けるなんて、って、本当に、何度でも見たい舞台でした! お話も勿論面白かったし、場面の見せ方とか、音楽の入り方とか、とにかくその舞台の何もかもが凄かった。舞台演出家の名前を覚えたのはあなたが初めてなんです、サー・フランチェスカ、まさかお会いできるなんて……」  それは情熱的な感想だった。  マウリツォはめいっぱいに破顔させられていた。基本的には自身に満ち溢れているこの天才的な老舞台演出家がここまで喜ぶのも珍しい。レックスはそんなマウリツォの顔を楽しそうに覗き込む。 「良かったね、爺様」 「うん、若い子に褒められるのはとても嬉しいよ。この歳になると時代に置いて行かれることが何よりも怖いからね! ありがとうミスタ・エドガー。今日の君もとても素敵だった。真っ直ぐな、いい音だ」 「こ、光栄です! ……で、ええと、そのサー・フランチェスカが、レックスの、お祖父ちゃん……?」  この純粋な青年に、嘘を吐くのは心苦しい。レックスは困ったように笑いながら、首を横に振った。 「ちょっと事情があってね。本当の祖父ではないんだけど……」 「本当の孫のように思っているよ。血のつながりなど大した問題ではないさ」  マウリツォは優しくレックスの腰を抱き寄せた。恋人であるミロがするような熱を込めた仕草ではなく、清らかな愛情を表す優しさで。  その一瞬で二人の関係を呑み込んだエドガーは大きく頷いた。 「なるほど。いや、サー・フランチェスカがお祖父ちゃんなら、レックスはイタリア人なのかなって思ったんだ。それだけ!」  エドガーはそれ以上踏み込もうとはしなかった。  ちょうどその時、彼のオーケストラ仲間たちが集まってきたことで話は完全に中身を変えた。  若者もいればそれなりに歳を重ねた者もいる。男も、女も、各々の楽器を手にした仲間たちは、その美人は誰だ紹介しろとエドガーをせっつき始める。  興味津々、無邪気な好奇心にあふれた無数の瞳がレックスに迫った。 「もー、みんな落ち着いて! 二人が困っちゃうだろ!」 「あはは、いいよ、エドガー」  注目の的。誰かの視線を受けることは、レックスにとっては慣れたものだ。整い過ぎている美しい容姿は昔から他人を魅了してきたし、身長が伸びてからは抜群のプロポーションが衆目を惹いた。男からも、女からも、羨望と欲がない交ぜになった痛い視線を。  レックスはその視線を受け入れながらも、好いてはいない。不躾で、表面だけを褒めそやす色をくだらないと思う。  しかし今は違った。  ここに集まった彼らの興味はレックスの外見だけではない。  「君は誰だ」、と。  視線は「エドガーの知り合い」という一人の青年について知りたがっていた。 「……レックス。レックス、フランチェスカ。あなたたちの演奏に心を奪われた一人だよ」  軽く手を広げてみせる仕草さえ周囲の人間の瞳にはこの上なく優雅に映る。とりわけ見目麗しい男を好む女などは、この短時間ですでにレックスの虜である。先入観の持ち合わせが少ない子供などはきらきらと目を輝かせた。レックス、と誰かが呼ぶ。仲良くしようぜ、と誰かが言う。  友人ができる瞬間とも言えるだろう。ちょうどレックスの近くにいた三十歳半ばほどの男が腕を伸ばし、自らの名を告げながらレックスと気軽な握手を交わした。赤茶色の目に、鷲鼻の男だった。  こういった触れ合いに、学生生活に割く時間が乏しかったレックスは、慣れていない。 「うん、よろしく、ありがとう、ええと……。ごめん、慣れてなくて。どうすればいいかな……」  助けを求めてマウリツォを振り返る。しかし上機嫌で愛情深い老翁はにこにこと笑うだけで、誰かと「健全な」関係を築こうとする義理孫をあくまでも見守る姿勢だ。その内にレックスは次から次へと握手を求められ、その度に違う名前を頭の中に詰め込んだ。  助け舟を出したのはエドガーだった。 「困ってる! レックスが! 困ってる!」  この青年はきっぱりと物を言う。  仲間内での関係がそうさせるのだろうということは、傍から見るレックスにも分かった。怒られた彼の友人たちは軽いブーイングを飛ばしながらも表情は柔らかい。小さく手を挙げてレックスに謝る者もいた。  それぞれ違う世代、違うタイプのように見えるのに、彼らは一つだ。  円になる友情だ。 「……あー、それじゃあ、ええと、……俺からお願いをしてもいいかな」  羨望の色が一瞬、むくりと。レックスは静かに手を鳴らすことで自分の感情を呑み込んだ。羨ましがってどうするんだと戒める。一般的に、普通に、のびのびと築かれた友情をレックスは知らない。それはもう、仕方のないことだ。  知らないそれを持っている彼らが、同じ腕に楽器を抱く。 「もう一曲だけ、即興でもいい。何か、聞かせてくれないかな」  レックスから見れば極めて「幸せ」な彼らは、――躊躇いもせず全員が大きく頷いた。  何にしようか、と話し合いが始まる。彼らはみんなアマチュア・オーケストラの一員。練習を共にする仲間たちだ。完璧にレッスンを終えた曲は大方さっきのコンサートで弾き終えてしまった。その他に、全員で、譜面なしですぐに合わせられるものを。  演目が決まるまでに三分とかからなかった。  一か月前に開かれた演奏会で披露し、好評だったという一曲。  彼らは各々の楽器を構えた。隣人の邪魔にならないように、互いに適切な間隔を保てるように、号令も無しに広がって。パーカッションの担当たちは自分の楽器まで走って戻った。決められた立ち位置も何もない。指揮者はいらない、と呟く声。同意の返事は吐息とともにささやかに。  ヴァイオリンを構えたエドガーがちらりと目を上げた。  聞いて、と。  あのトラファルガー広場でレックスを動かしたような輝きと共に。 「The Beatles.――All You Need Is Love」  爪先が床を打つ音が始まりの四拍子。  穏やかに流れ始めたのはフランス国歌。  イントロに隣国の国歌を用いた、あまりにも有名なメロディーが、コーラスとともに教会に響き始めた。レックスとマウリツォは一瞬、顔を見合わせた。ロック音楽がオーケストラで再現される。マウリツォはすぐに楽しそうに身体を揺らし始めたが、クラシックに馴染み過ぎたレックスは少し、戸惑う。  しかし、演奏者たちは一様に笑顔で。  ――All you need is love, All you need is love…  必要なものは愛だよ、と。  穏やかながらも力強く。  簡単なことなんだよ。必要なものは愛だ。愛こそ君の全てなんだ。  エドガーは心地よさそうな表情で弓を引く途中、ちらりとレックスを見上げてみせた。その口元が静かに動く。声には出さず、「愛こそ全て」と。  レックスはエドガーの視線にはっと息を呑んだ。この青年にはどこまで話したのだったか。いいや、ほとんど何も話していないはずだ。ただ、音楽は嫌いになってしまった、と。それならこの青年はどこまで知っているのだろう。調べたのだろうか。愛、愛、繰り返される言葉がレックスの胸に突き刺さる。  美貌も、才能も、万人が羨むものを多く抱えて産まれてきたレックスが、何よりも求め焦がれるもの。 「All You Need Is Love……」  知らず知らずの間に口ずさんだ。  レックスの肥えた耳には粗く聞こえる、雑味のある演奏。バラバラの配置のオーケストラは完璧な一体感からほど遠い。一人ひとりの技術も均一ではなく、きちんと鳴っていない音も多いような。  それでも、それでも、だ。  愛こそ全て。  レックスの心は確かに動かされた。彼らの演奏は純粋だった。技巧ではない。ただこの音が溢れる時間を愛しているのだと、音色がそう告げていた。  楽しそうだった。それが羨ましい。妬ましくさえあるが、それ以上の何かが胸の中に渦巻いた。  指先が動いてしまう。 (愛……、愛か……)  それさえあれば、彼らと同じ景色が見えるのだろうか。同じ気持ちでピアノが弾ける?  あの格式高いヴァイオリンを、威圧的なソプラノを、許せるとでも言うのだろうか……。 「レックス」  穏やかな声はマウリツォのものだった。彼の囁きは演奏会の邪魔をすることなく、するりとレックスの耳に入り込んで。 「ゆっくりで良いからね」  背を擦る手は本当の祖父のようだった。  そうされて初めてレックスは息苦しさに気が付いた。  両の目から涙が流れ落ちていることに、気が付いたのだ。

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