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5. WORD

「今日はここに泊まれ」  淫らな触れ合いの後でお互いの身体を洗い合った二人は、バスローブに身を包んで部屋へと戻った。大きくてふかふかのベッドへ沈み込んだレックスにはそんな言葉とともに、コートのポケットに入れていたスマートフォンが投げられた。  レックスが起き上がるよりも早く、ミロはベッドに腰かける。 「この部屋はダブルだ」 「……俺が泊まってもいいように?」 「当たり前だ。こういう時の為に、な」  目の前にスマートフォンを突き付けられて、レックスは渋々受け取る。またベッドに寝転がってメールの画面を開いた。送り先はもちろん、マウリツォだ。 「『ごめんなさい、今日はミロの部屋に泊まります』……、と」 「『熱い一夜を過ごす』と書いてもいいぞ?」 「俺はいいけど、後で怒られるのはあなたですよ?」  ぱたぱたと脚を動かしながらメール画面を操作するレックスは涼しい顔をしている。うつ伏せでいるものだから、ミロにとっては酷く魅力的な尻が無防備だ。  それを揉みしだきたい衝動をぐっと堪えて、ミロはレックスの隣にうつ伏せで横たわる。片腕でレックスを抱き寄せると「重たい」と真剣みのない文句を言われた。 「送ったか?」 「うん」 「じゃあ、二人きりの時間だな。……カフェであの男と何の話をしていたんだ?」  まだ気にしてるの、とレックスが顔を上げると、それなりに、と額にキスを落とされる。ミロの目は穏やかに笑んでいたが、この問いから逃がすつもりはなさそうだ。  別に隠すことは無い。レックスは小さく肩を竦めて、「広場でたまたま知り合ったんです」と経緯を説明した。彼、エドガーはヴァイオリニストで、フラッシュ・モブに参加していたこと。それにレックスが一つのきっかけで関わることになったこと。彼に誘われてカフェでコーヒーとケーキをご馳走になっていたこと。そこで話した内容は、少し、ぼかしながら。ミロはそれを遮ることなく聞いていた。その様子を見ながら、レックスはこの老齢の恋人が口振りほどは浮気を疑っていないことを悟る。 どちらかと言えば保護者が子どもに今日あったことを報告させる感覚に近い。あのSNSのメッセージに返信をしなかったのが不味かったかな、とレックスは思った。結局自分はミロにとってはまだまだ子どもで、動向を把握できないと不安になる存在で……。  知らず知らずのうちに、レックスは唇を尖らせていた。  ミロはくすりと笑いながら、こつんと頭をぶつける。 「そう拗ねるな」 「……心配しなくても浮気なんかしないし、危ないことには巻き込まれませんよ」 「前者の心配はしていないが、後者はどうかな。お前はお前の自覚以上に美しい。私の白百合、可愛い子ウサギ、叶うならガラスの檻に入れてしまいたいくらいだ」 「大人しくあなたの檻の中でにこにこしてる俺がいい?」 「悩ましいところだ。健康な身体で自由に跳ね回るお前の姿も、天上の光景かと疑うほどに素晴らしい。だが、残念ながらこの世は極楽とは程遠い。善人もいれば悪人も山ほどいる。他の男にお前を穢されるくらいなら……、と思う心も、否定はできない」  ミロから溢れ出る言葉は多様で、どれも微熱を帯びているようだった。焦がれるという表現がちょうどいい。ミロは持てる全てでレックスを愛している。それは、レックスにも分かる。  レックスはミロの腕の中で身体の向きを変え、正面から隣の老翁と向き合った。 「素直ですね」 「嘘は時に美しく、時に醜い。使いどころを間違えてはいかん。レックス、ああ、お前が愛おしい」  隙あらば言葉に、行為に、芸術の世界に生きる男は愛を滲ませる。  簡単そうに見えて、難しい。気持ちをありのまま表す方法。ミロは容易にやってのける。そのための言葉も手段も星の数ほど知っている。饒舌に愛を紡ぐ口を、大切なものに優しく触れる指先を、持っている。  レックスにはそれがない。するりと頬を撫でられて、耳朶をくすぐられて髪にキスを落とされても、それにどう応えるべきなのかが分からないのだ。触れてくるミロの手をきゅっと握る。触れられたところに生じるむず痒いような温かさを伝えたいのに、こんな拙い触れ方しかできないのがもどかしくて仕方がない。  あまりにも言葉を知らない口は、すぐに動かなくなってしまう。  言葉を継ぐのはミロばかり。 「どうした? 考え事をするこの唇と、眉間が、堪らなく可愛いんだが」 「ばか……。真剣な悩みなんです。何とは言えないけど」 「言ってみろ。力になれるかも」 「あなたにだけは言えない」 「どうして」 「……あなたに言ったら、意味ないことだから。あーあ、爺様に聞こうかなぁ」 「待て待て、マウリツォに言うくらいなら私に言ってくれ。ん? 私は信用ならないか?」 「世界の誰より信用してる……」 「嬉しい言葉だ」  にやりと口角を上げる表情が、嫌になるくらい様になっている。こんなに近くでミロを見られるのは自分だけなんだな、とレックスは今さらながらに思った。俳優よりも煌びやかなオーラを纏う老齢の星。世界中の人間が彼を知っている。称賛や崇敬に慣れたこの人が、四十歳近く若年の青年に愛を囁いている。  それはすごく贅沢なことだ。すとんと納得するくらいには、レックスも素直だった。 「……ありがとうございます」 「何がだ?」 「んー……、あなたが俺を大切にしてくれてることが分かったから」 「まさか、今さらか?」 「ずっと知ってたよ、でも、今また思ったから、今言うの。ダメ?」 「ダメなものか、可愛い奴め」  ミロはますます強くレックスを抱き寄せた。 「本当に、私に話すことはないか?」  穏やかで、優しくて、深く、落ち着いた、大人の声だった。  情事の時に聞くものとはまた違う。色濃い欲が滲むものとは違う。レックスが本当に好きな、ミロの声。 「……一つだけ」  何のつかえも抵抗もなく、その返答はレックスから漏れた。  何でも聞こう、とミロが頷く。レックスは自分の腕を伸ばしてミロの身体を抱き締めた。密着すると体温が移る。シャワーの後でも仄かに残るのはミロがいつも吸っているタバコのにおい。それを嗅ぐと安心するように、レックスの心は既に作り変えられていた。  ぽつり、ぽつりと話し始める。  自分のことと、両親のこと。  それから、音楽のことを。 「――なるほど。つまり、お前はやり直したいと思っているわけだ」 「そう、なのかな」 「難しく考えることはない。やり直す、というのは言葉通りの意味だ。一度は飛び出して来た音楽の世界に、また戻りたいと思っている。それはお前のまだ短い人生の中で、間違いなく最も深く浸っていた世界だからだ」 「短い人生、ね。……もっと他にやりたいこと、これから見つかると思いますか?」 「それは誰にも分からん。お前が前向きに懸命に生きて、いろいろな経験をする中で、もしかしたら見つかるかもしれないことだ。私が人生のある時点で演劇に出会ったように」 「……あなたは十五歳の時にオペラ好きの彼女と見た舞台がきっかけ」 「よく知っているじゃないか。さてはファンだな?」 「ファンですよ」  二人はベッドに並んで寝転がりながら、時折互いの身体を抱き締め合って、たくさんの言葉を交わした。レックスは、両親に強要されていたピアノとヴァイオリンに対する、自分の複雑な心境を。ミロはそれを一つずつ、適切な言葉に。  物心つく時分にはもうピアノの前に座っていた。ある程度手が大きくなった時にはヴァイオリンの弦を押さえていた。母親の前で歌わされた曲の数は数える方が馬鹿らしい。それでも、それだからこそ、レックスの人生は常に音楽とともにあった。  両親から逃げ出し、同時に切り捨てたその世界を、今になって眩しいものに感じている。 「好きとか、憧れとか、そういう気持ちで始めたかった」 「それは今からでも遅くはない」 「無理。あの人たちの顔が浮かぶ」 「好きの気持ちでは塗りつぶせないほどに?」 「……分かりません。そもそも、好きなのかどうかも、よく分からなくて」  単なる口寂しさにキスを強請っているような気分。  そう呟くと、ミロが額をすり寄せて来た。レックスは応えて顔を上げる。触れるだけで離れていった唇の感触は心地が良かった。 「そんなことを、したことがあるのか?」 「ありますよ……。怒らないでね、あなたに会う前の話だから」 「怒らないが嫉妬はさせてくれ」  ミロは微笑んでいる。口元と、目尻に寄った皺。レックスはミロの頬をそっと撫でた。肌の白さは同じくらい、しかしミロと比べれば、レックスの若々しい手は陶器のようだった。  いろいろなものを受け止めるには隙間が無さすぎる意固地な内面を映しているようで、少しだけ虚しくなる。若いというよりは幼いのだ。レックスがむすっと唇を曲げるので、ミロは喉奥で笑いながら、愛しい恋人の美しい肢体を抱き締める。 「悩め、悩め。それは若者の特権だ」 「むぅ……。あなたは俺に、一度やってみたらいいと思っているんですよね」 「そうだな。それでやっぱり嫌だと思えばやめればいい話だとは思う。まあ、心の折り合いがつかないままに初めても思うようにはいかんだろうから、結局悪い方向へ傾いてしまう可能性もある。結局はお前次第だ、可愛いレックス。ただ……」 「ただ?」  ミロはレックスの額にキスを落とした。 「あの時、お前があんな顔をしなければ、声はかけなかっただろうな」  一年前の同じ季節。  初めて会った日、レックスは酔った勢いでピアノを奏でた。  指が覚えていた旋律。強かに酔わされていたレックスは、あの瞬間の感情を覚えていない。けれどミロの記憶には鮮明なのだ。  誰にも見向きされなかったピアノに息を吹き込む演奏家に心を奪われた。ホールで聞くような格式高い空気を薄く纏わせながらも楽しそうに跳ね回る音。場の空気を変え、聴衆を虜にする技術。そして何より軽やかに指を運ぶ麗しい青年は、満たされた、蕩けるような笑みを浮かべていたのだ。  それがレックス・フランチェスカであることを、ミロはピアノが奏でられる前から知っていた。両親が離婚をしたことも、それを期に家を飛び出したことも、マウリツォに可愛がられていたことも。互いにゴシップ誌に捕まれば面倒な身、見なかったふりもできたのだ。  わざわざ声をかけて、ホテルに誘った。惚れ込んだのはその美貌と、音を通して心に刺さった妖艶な表情に。  レックスはぱちりと瞬きをした。どんな顔、と問う。ミロは「とびきり可愛い顔だ」とはぐらかす。 「どんな顔ってば」 「可愛い顔だ。私を恋に落とした顔」 「ちゃんと答えて」 「誠意をもって答えているとも」  説明しようとしないミロに焦れたレックスは、彼の腕の中から逃れようとする。しかしミロの抱擁は強まるばかりで、レックスのささやかな抵抗は数秒続いた。 「もー、意地悪する人は嫌い」 「ははは、お前に軽蔑されるのは癖になると言っただろう」  大事な部分をはぐらかされているのに、意地の悪いことをされているのに、大好きなミロの声にはすぐになだめられてしまう。抱擁は優しくて温かい。意地悪な腕から逃げたいのに、この安心感から離れたくないと思う。  自分の幼さが悔しくて、レックスはぼすんとミロの胸元に頭突きをした。  その小さな頭は大事に抱えられて。 「音を奏でるお前には希望があった。それだけは確かだ」 「……」 「私はお前の気持ちを尊重する。もう一度楽器に触れたいと思うなら、望むものを用意しよう。楽器も、環境も。焦ることはない。ゆっくりと気持ちに折り合いを付けるといい」  物分かりの良い恋人というよりも、優しい父親というのはこんな感じだろうか、なんて。言葉にすればミロが盛大に顔を顰めそうなことを考えながら、レックスは「うん」と小さく頷いた。 「ありがとう、ミロ。それじゃ、来週の日曜日に、セント・ジョンズ教会のコンサートへ行ってもいい? 爺様と一緒に」 「お……っと、それについては少し話し合おうか。いやあのエドガーとかいう若者に会いに行くのは別に構わんが何もマウリツォを連れて行く必要は……」  それからベッドの上で繰り広げられたのは甘い睦言ではなく、何とか恋人を説得しようとする男の情けない声だった。

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