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1. FLAT

 眉目秀麗にして天才的なヴァイオリニスト、ジャイルズ・ミラーズの熱愛報道。今度は十歳年下の美人オペラ歌手に狙いを定めたらしい。女癖の悪さには定評のある男で、今回は寧ろ清純派で売り出し中だったお相手の方に注目が集まっている。しかしよりにもよって別れた前妻と同じオペラ歌手とは……、と書く記事の末尾には、ちなみに前妻ソニア・ウィルビーが自宅に十三歳若い男性ピアニストを招いたのは三日前のことである、とまるで笑い話かのようなオチが用意されていた。  笑えないのは、それを読む、彼らが束の間の夫婦生活を営んだ時分の一人息子。  レックスは唇をへの字に曲げながらその雑誌を放り投げた。広いソファの端に着地したそれを、老いた指先がひょいと持ち上げる。 「気に食わない記事があったかい?」 「爺様……。別にもう、どうとも思わないけど……」  歯切れの悪いレックスににこりと微笑んだのは、彼の「爺様」――マウリツォ・フランチェスカだった。  御年、六十五。背丈は百七十と少し、とレックスよりも低い。目元や口元の皺は老齢ゆえの穏やかさを表している。全体的に丸いシルエットに、仕立てのいい服とセンスのいい香水。上品な好々爺だが、アーモンド色の瞳には不思議な鋭さが宿る。一代で富を築いた男の迫力だ。 ここはマウリツォの、ロンドンの別荘。と言っても庭付きの豪邸などではない。街角に面したカフェの上、四階。二人暮らしに丁度いい広さのフラット。  行き場を失った数年前のレックスのために、マウリツォがぽんと購入した部屋だ。 「情けないだけ。いい歳して、とっかえひっかえで」 「うーん、レックスは手厳しいね。現実、運命と呼べる人に出会えるのは奇跡に近しいことではあるんだよ? だからこそ古今東西、恋愛物語が面白がれるんだから」 「それはそうだけど……。爺様は父さんと母さんの味方なの?」 「まさか、私は君の味方だよ、可愛い〝レークス〟」  ラテン語で「王」を意味する単語はレックスの愛称だ。雑誌を小脇に挟んだマウリツォは、幾分か不満気な顔をしたレックスの頬に軽いキスを寄せた。年老いても生粋のイタリア男らしい動作にレックスはくすりと笑う。それから少し考えて、「まあ、本当にもう、どうとも思ってないんだけど」と付け加えた。  気にしていた時期もあった。実の両親の、互いの浮気性。それが原因で二人の関係が破たんした時、彼は迷いなく家を飛び出てロンドンの街をさまよったのだ。耳に入れたくないほどに、いっそ憎くさえ思っていた。高名な両親から離れるために雑誌も買わず、テレビも見ず、マウリツォに拾われてからしばらくは外出にも積極的ではなかった。  それに比べれば、こうして雑誌を読んで不満を口にするというのは、随分と穏やかになった結果である。マウリツォも分かっていた。彼は優しく微笑んで、また雑誌をレックスに差し出す。 「さ、お目当ての記事は違うんだろう?」  表紙には確かにジャイルズとソニアの紹介もされてあるが、それ以上に大々的に。  レックスは数度瞬きを繰り返した後、そうでした、と受け取った。  じわりと戻った笑顔。マウリツォは愛しい義理孫のくせっ毛を掻き撫でた。表紙を飾る男、そしてレックスがお目当てにしていた男のことを、彼もよくよく知っている。  知っているから憎らしい。 「やっぱりミロって、写真で見る方がカッコいい」 「奴がカッコいい瞬間なんてあるかい?」 「たまにね」  十歳下の相手との恋愛報道など、可愛いものだ。  新作劇のロングインタビューを受ける雑誌の中の老紳士「ミロ・クローチェ」は、澄ました顔でこちらに視線を向けていた。  当のミロが帰ってきたのは、夕飯の時間になってからだった。  普段はイタリアの自宅で暮らすミロとレックスがロンドンにいる理由は、単にミロの仕事の都合だ。まさにレックスが購入した雑誌で取り上げられていた新作劇の初公演が、ここロンドンのとある劇場で行われるのだ。  最終調整と当日の舞台挨拶のために数週間の出張。当然レックスもついて来た。そのついでに、レックスがロンドンにいる間ずっと使っていたマウリツォの部屋に帰りたいと言うので、ミロは乗り気ではないながらもマウリツォと連絡を取ったのだ。  その結果が。 「やあ、おかえりミロ。夕飯は食べてきたのか?」 「……この家のテーブルに椅子は二つと知っているんでね。ちょっとしたものを買って来た」 「あ、それ、今朝のテレビでやってたピザ」  仕事とはいえ二人きりの旅行と思っていたのに、何故だかマウリツォの登場。喜ぶレックスの手前何も言えなかったが、そもそもこの部屋は二人暮らし用。拾った義理孫のために義理祖父が用意した部屋だ。椅子も二つ、ベッドも二つ、食器の類も二つずつ。  爪弾きにされたのはミロだった。 「一口ください、ミロ」 「もちろん、好きに食べるといい」 「手軽に気を惹く手管だけは呆れるほどによく知っているな?」 「お前は他人を貶める台詞をうすら寒いほどによく知っている」  この部屋で寝泊まりするのはレックスと、マウリツォ。ミロは別にホテルを取らされた。「流石に解せない」と抗議をしたミロだったが、最終的にレックスが「今は一緒に住んでるんだし、数日くらいいいでしょう」と言ってマウリツォとの数日を選んだために、すごすごとホテルに引き下がるしかなかった。  せめてもの抵抗として、夕飯はここで食べている。椅子は無いのでソファに座って。  今日は先に食べ終えたレックスがいそいそと寄って来た。ミロが買って帰ったピザを一切れもらい、目を輝かせて隣に身を沈める。イタリア式の薄い円状のものではなく、ボリュームたっぷりの、歩きながら片手で食べられるようにクレープ上に丸められたものだ。ここからは少し遠い屋台通りにある店のもので、若者に人気とテレビで紹介されていた。レックスは楽しそうにかぶりつく。 「ん、ん、不健康な味がする」 「脂っこいな。大味だし、安いチーズだ」 「おい変なものをレックスに食べさせるんじゃない」 「ジャンクフードってやつだよ、爺様。たまにはこういうのも食べたい」 「そうかい……? 身体を壊してはいけないよ」 「その前に食べ過ぎを注意しろ。夕飯、その皿いっぱいのパスタを食べたんだろう」 「太らないから大丈夫ですぅ」  三人寄れば賑やかだ。これがミロとマウリツォの二人きりなら、会話は終始、罵倒と憎まれ口で終わるだろう。レックスが間に挟まっているから口喧嘩に発展しないだけだ。  この老翁二人は、不仲というわけではない。  ただ、顔を合わせれば互いに悪態を吐き合ってしまうのだ。特に、ミロがレックスを囲い始めてから……、マウリツォの言葉を使えば「手を出して」からというもの、その傾向は激しいものだ。何と言っても子のいないマウリツォにとっては可愛い可愛い一人孫。目に入れても痛くないほどに溺愛していた大切なレックスを、素知らぬ顔で「手籠めに」されたのだから怒りも当然。悪辣なハイエナか無作法なハゲタカか、マウリツォにしてみればそう表現しても大きく違うことはない。  ミロとレックスが並んでソファに座り、同じピザを頬張る姿を前にすれば、その口撃の威力も半減だが。 「たくさん食べるレックスが可愛いんだよ。……ふふん、このパスタ、誰が作ったと思う?」 「……お前だろう、マウリツォ?」  まだ食事を続けていたマウリツォが、最後のパスタをフォークに巻き付けてにやりと笑う。その口ぶりに、ミロは怪訝そうな顔をした。マウリツォは料理ができる。ロンドンに来てから数日、ここで振る舞われる料理は全て彼お手製だった。  しかしマウリツォは勝ち誇った顔で。 「今日はレックスが作ってくれたんだ!」 「はっ?」 「たまにはね」  レックスは平然と頷いている。ミロはもう少しで手にしたピザを落としそうだった。 「お前の手料理? 私もまだ食べたことがないお前の手料理か?」 「だって得意というわけじゃないし……。ミロ、料理が得意でしょう? そんなイタリア男に食べさせるようなものは作れません」 「お、前……っ、こういう場合は味の良し悪しなど関係なかろう……!」  非常に情けなく顔を歪めたミロを嘲笑いながら、マウリツォはパスタを食べ終えた。  ソファでは美しい恋人の手料理が食べたい哀れな老紳士が持てる語彙の全てを尽くして、明日の朝食か夕食をねだっているところだった。

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