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2. MOB

 ミロは今日もお仕事。この出張は随分とハードスケジュールだ。舞台に関するあらゆることの確認(俺は詳しくないけど大変そう)はもちろん、雑誌やテレビの取材にもひっぱりだこらしい。映画館が派手な広告で客を掻き入れる昨今、飄々と名声を守るミロが時々難しい顔で唸っているのを俺は知っている。  年の功か、多彩な人だ。ミロは小説も書く。出せば書店にコーナーが一つ出来る。彼の本はすべて読んだが、やっぱり流石に面白い。豊富な語彙は若者たちを翻弄するだろうが、劇的な物語は老若男女を問わず魅了する。それで一財産築けるんじゃないですか、と言ってみたことがあった。すると彼はにやりと笑って、「それは私の人生ではない」と答えたのだった。スポーツも、絵画も、料理も、趣味の範囲と言いながら手を出しているものは多い。何でもそつなくこなしてしまう。彼のような人間を天才と呼ぶのだろうと思う。演劇にこだわるのは、それが彼の人生だから。  唯一、ミロが音楽を奏でている姿だけは、見たことがない。もちろん音楽はジャンルを問わずに貪っている。たまに食事中に流してくれる曲のセンスも抜群。ただ、楽器だけは得意ではないようで。  俺は一人でロンドンの街を歩きながら、ずっとミロのことを考えている自分を自嘲した。  今日はミロもマウリツォ爺様も仕事でいない。ずっとフラットにこもっているのも何かと思い、コートとマフラーを纏って冬のロンドンへと繰り出したのだ。ミロと出会ったのも、こんな冬の日だった。ほら、またミロのこと。  あれから季節は一巡りしたらしい。思えばほとんど拉致だった。しかし許可を与えたのは俺。それからずるずる一緒にいて、――こんなにミロを好きになってしまったのも俺だ。  ストリートに面した本屋の前を通り過ぎた時に、ミロが表紙の雑誌が平積みされているのが見えた。その前では妙齢の女性たちが立ち止まり、うっとりと表紙を眺めていた。かっこいいでしょう、その人。恋人の手料理を欲しがる時の顔は笑っちゃうくらい情けないんですよ。そう肩を叩いて自慢してやりたいくらいには、人気者のミロを手中に収めている甘美な感覚は堪らない。  もともと、俺は性格が良い方じゃない。爺様が少しだけ、変えてくれた。  それでも一年前までは夜の町で、適当な男に貢がせて抱かせていた身体。  全部知っていながら、こんな俺を愛してくれるミロ。  俺は彼に大切にされている。だから俺も、彼を大切にしなければいけない。そんな簡単なことが意外と難しいと知ったのは、実は最近になってから。  心の中ではどうとでも言えるし何にでも描けるこの気持ちは、しかし目に見える世界に現れにくいのだ。気持ちは十全に伝わっているか。齟齬は無いか。誤解は無いか。伝える術もなければ確かめる術もない。なるほど恋愛とはままならないものだ。不安はつきもの。反面で幸福。いつもあなたのことばかり。  歩き続けて、ふと足を止めた。  早朝の雪の名残を抱えたストリートたちに運ばれて、俺は巨大な広場に来ていた。トラファルガー広場。ナショナル・ギャラリーの目の前。ビッグベンからまっすぐ北。  今の時期、ここにクリスマス・ツリーが飾られることは有名だ。 「ママ、ツリー!」 「こら、走っちゃダメよ、危ないわ」  俺の隣を、幼い少女が駆けていく。それを追うのは若い母親。今日は平日だからか、父親の姿は無かった。母親はすぐに娘に追いついて、細い腕でひょいと抱き上げる。ツリーを見上げてご機嫌な少女は母親に抱きつきながら、可愛らしい声であれこれと話をし始めた。  ああいう思い出は、俺には無い。  両親の不仲、不倫、結果としての離婚。それ自体はもう、本当にどうとも思わない。しかし周囲の人間が一般的に過ごせる思い出がないというのは寂しいし、虚しい。  俺は幸せな家族から目を逸らして、広場に立った巨大なツリーへ歩み寄った。  クリスマスは家族で過ごす日。最近は恋人同士にも特別な日。  去年はミロと出会ったばかりで、特に何をしたわけでもなかった。ミロがケーキを買ってくれたくらい。お互いに一ピースずつ。まだ俺の部屋にはミロを招いていない頃で、確かミロが泊まっていたホテルで食べた。それが何だか不便だから、イタリアに行こうという話になったんだっけ。  今年は、何か贈り物をしよう。クリスマスまであと二週間。ミロが好きなものは何だろう。手料理が食べたいと言っていた。そんなものでいいならいくらでも作ってあげる。ケーキを焼いてみるのはどうか。焼いたことはないが。まあ形にはなるだろう。  思案を巡らせながら、ツリーの周りをぐるりと歩いてみた。  すると、ちょうどツリーの裏側に、地面に逆さまの帽子を置いた一人のヴァイオリニスト。  ストリート・ミュージシャン。  まだ若い男だった。彼はヴァイオリンをひたと構えて、曲を奏で始める寸前。広場にいる人間たちが立てる音に、その小さな弦楽器が勝ることを俺は知っている。俺のポケットの中には二十ペンス硬貨があった。さっき飲み干した缶コーヒーを買った時のおつり。ポケットに手を突っ込めば指先に当たるそれを、俺は思わず握りしめる。  弓を引こうとする名も知らぬヴァイオリニストが、立ち止まった俺をちらりと見て。 「……」  その硬貨を入れてみろ、と言われた気がした。  俺の視線は、彼の足元の逆さ帽子に向かう。  ヴァイオリンなんて、嫌な思いでしかない。ろくでなしの父親が唯一、誠実に愛した美しい音色。その愛を俺は強要された。音楽に注ぐ以上に純然な愛は無いなんて語った自分勝手な男の顔が蘇る。信じたって良かったんだよ、その愛を、あなたの隣に妻の姿があったなら。  ふつふつと湧いてきた怒りは、幼い俺が発散することのできなかった感情だ。俺はそれを否定しない。ちっぽけな心の檻から、今なら解放してやれる。  俺は二十ペンス硬貨をポケットから抜き出し、口を開けた帽子に投げ入れた。  聞き奏でるしかなかった窮屈な昔と違って、今は聞くも聞かないも自由なのだから。  忌々しい音を、聞いてやる。  ヴァイオリニストはちょっと口角を上げて、それから、弓を引いた。  広場に流れ始めたのはこの季節にはおあつらえ向きの、ベートーヴェン、交響曲第九番。  第四楽章、「歓喜の歌」。  曇りのない音色だった。それに、奏者の表情。なんて清らかなのだろう。彼はこのロンドンの曇り空に音を届けている。それからちっぽけな俺に。誰かに向けた音楽はすべからく尊い。弦が、弓が、喜んでいる。  伸びやかな音色に聞き惚れた。技巧を凝らした父親の弾き方よりも、この音は俺の心臓を突き刺した。  天上楽園の乙女よ、我々は火のように酔いしれて……。  若いヴァイオリニストの旋律に、その時。  何処からか呼応する、ヴァイオリンの音色がもう一つ。  振り向くと、初老の紳士が同じようにヴァイオリンを構えて奏でていた。  見事なアンサンブル。細い糸が寄り合って一本の道になるような。ハーモニーが豊かさを生む。聞き惚れる、そして酔いしれる。しかし、この唐突な合奏はなんだろう。広場にもう一人ストリート・ミュージシャンがいたのだろうか。とても即興とは思えない音色……。  そんな俺の疑問を打ち払うオーボエが聞こえてくるまでに時間はかからなかった。 いつの間にか広場に楽器が集まっている。チェロの低音。増えたヴァイオリンの真っ直ぐな和音。チューバにホルン、トロンボーン、フルート、クラリネット。コントラバスまでお出ましになった。  それぞれの奏者が楽しそうな顔で各々の楽器を構え、一つの「歓喜の歌」織りなした。彼らは俺を中心に円を描くように立っていた。その音は広場中に響き渡る。奏者の向こう側で、何だ何だと聴衆が集まっているのが見えた。俺はナショナル・ギャラリーを振り返る。ああ、この人たちはあそこから出てきたのだ。一人のヴァイオリニストが奏でた開演の合図に応えて。  俺を見てにこりと微笑んだのは、楽器を持たない数十名の男女。  彼らが大きく息を吸った。  次に紡がれる歌を知る。――歓喜よ、神々の麗しき霊感よ。天上楽園の乙女よ!  ソプラノ、アルト、テノールとバス。彼らの声は歓喜を歌う。俺は笑いが込み上げてくるのを抑えられなかった。ここに「歓喜の歌」は完成した。コンサート・ホールで聴くような見事なオーケストラが、灰色の空の下で突如として広がったのだ。円状に、俺に向かって。  俺の喉は勝手に動く。心が疼いた。  この歓喜を歌いたい。  遥か昔に覚えさせられた言葉の列を、俺の身体は覚えていた。  演奏が終わった後、奏者たちは三三五五に散っていった。何事も無かったかのようだった。広場には割れんばかりの拍手が鳴り響いている。俺も手を叩いていた。素晴らしい時間だった。もっと感じていたいくらいには。  すると、去っていく奏者たちの中で一人、俺に走り寄って来た男がいた。  開演の合図を奏でた、あの若いヴァイオリニストだ。 「ハロー、君、ありがとう!」  彼は満面の笑みでそう言った。俺は差し出された手を、躊躇いなく握る。 「お礼を言わなきゃいけないのは俺の方です。素晴らしい演奏でした」 「いやいや、君が指揮者だったんだよ!」 「指揮者?」 「僕の帽子にコインを入れてくれただろ? あれが合図だったんだ!」  若い男は興奮気味に話す。  俺はその嬉しそうな顔を見ながら、彼の腕を軽く叩いた。 「ねえ、これってフラッシュ・モブ、ですよね?」 「大正解! ああ、だけどこんなに楽しいと思わなかった。君、これから時間はある? ちょっとお茶でも飲まないかい? ケーキも一つ奢るよ!」  高揚が身振り手振りに表れている。気が昂っているのは俺も同じだ。拒む理由も見つからず、俺は二つ返事で頷いて、彼に導かれるまま広場を後にした。

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