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3. CAFÉ
若いヴァイオリニストはエドガーと名乗った。短めの茶髪はふんわりと柔らかそうで、すこしそばかすのある素朴な顔立ちの青年だった。身長は俺より少し低くて、歳は二十五。そんなに違わないね、なんて話をして、彼の屈託のない人柄のおかげもあって俺たちはすぐに打ち解けた。
ヴァイオリンを手早くケースにしまった後、すぐに俺を伴って歩き始めた彼は、さっきの演奏についてあれこれと話してくれた。トラファルガー広場でオーケストラのフラッシュ・モブ。彼はアマチュア・オーケストラの一員らしい。他のキャストも同じように、それぞれが自らの楽器を携えて、あの場所に集まった。そして誰かがエドガーの帽子にコインを投げ入れる瞬間を合図に、企画を進行するという段取りだったそうだ。
広場に近いところにあったカフェに二人で入り、エドガーは言葉通り、俺にコーヒーとショートケーキを一つ奢ってくれた。
窓際の席を選んで座る。エドガーは満面に笑みを浮かべていた。
「実は三十分くらい誰もこっち見てくれなくてさ! ストリートで演奏なんて初めてだったから心細かったんだ」
「確かに、あんな広場の真ん中でヴァイオリン構えてるなんて珍しいかも」
「だよね! ね、レックスは何でコイン入れてくれたの?」
「んー、目が合ったから」
「ホントにそれだけ? 何か音楽とかやってないの?」
きらきら輝くエドガーの目は子どもみたいだ。
無邪気な鋭さを孕んでいる。
「……昔、少し、ね。今は何もしてないよ」
「え、やめちゃったの?」
彼には一欠けらの悪意も無い。だから、だろうか。俺は甘いケーキにも絆されて、口が軽くなっているようだった。
「うん。自分で始めたものでも、なかったし」
「ちなみに楽器は?」
「ピアノ。……それからヴァイオリン。声楽も少し」
「えー、すごい! 全部やめちゃったの?」
「いろいろあって」
「そっかぁ……」
エドガーはコーヒーを一口飲み、何か考え込むように沈黙した。俺はケーキを口に運びながら彼を眺める。その時、俺のポケットのスマホがぴこんと鳴った。SNSの通知音だ。エドガーが何も言わないままなのでそっと画面を確認すると、ミロから。『今どこにいる?』。いつも通りの簡潔なメッセージ。どう返信しようかな、と思っているとエドガーがぱっと俺に向き直った。
鳴ったスマホはまたポケットの中へ。
「もう一回始めよう、とか、思ったりしない?」
何となく、そう言われるような気はしていた。
俺は頬杖をついて、半分ほどになったコーヒーを見下ろす。真っ黒な水面に自分の顔は映らなかった。ただ、黒くて。
音に震えるように出来ていた心を自覚する。
「……そう思うにはきっかけが足りないんだ、きっと」
「きっかけ?」
「エドガー、あなたを良い人だと思うから話すけど、俺は音楽を好きになる前に嫌いになってしまったんだよ。それがすごく虚しくて……、音に触れればきっと心は弾むだろうけど、没頭するには嫌な影がちらつき過ぎる。半端な気持ちじゃ奏でられない。それこそ、気分良く酔った日とかじゃないと……」
酔った日に、ピアノに触れた。
それはミロと初めて会った夜のこと。
あの夜、どんな気分だったっけ。
「なんだか恋愛みたいだ」
エドガーの声にはっとする。
「恋愛?」
「あ、ごめん、ええっと、何て言うか……。秘密の悩みを話してくれてると思うんだけど、それがすごく、うーん、熱っぽいから?」
「熱っぽい」
「説明下手でごめん……。言葉じゃ伝えにくいんだけど、でも、レックスが真剣に音楽と向き合ってきたことは分かったよ。それが恋愛みたいだったんだ」
「……恋愛、かぁ」
エドガーは何故か自分で顔を赤らめて、少しだけ冷めたコーヒーをぐっと煽った。柄じゃないこと言っちゃった、という照れ笑いには可愛らしさがある。
彼のような、整理する前の言葉が口から出てしまう人間は好きだ。打算が無くて、本心が透けている。そう言う人間の言葉は、時に誰よりも本質を突くことがある。
恋愛。恋。愛情。俺が音楽に対して抱く感情は、そういう言葉に当てはまるのだろうか。そう思うにはまだ自分の心が両親の影を手放さない。虚しさや寂しさ、呆れ、失望、ない交ぜになる負の感情。ああ、俺も気持ちを言葉にするのは得意じゃない。
「変なこと言ってごめんね、レックス」
「ん。いや、自分じゃ思いつきもしない言葉だったから、エドガーが言ってくれて良かったよ。……悩む程度には、心にあるってことだし」
「そうだね! 事情も何も知らないけど、レックスが奏でる音をいつか聞いてみたいなって思うよ。僕は音楽が大好きなんだ。音には不思議な力が宿るんだって信じてる。僕がハイスクールでヴァイオリンに引き寄せられたみたいにね!」
「ふふ、あなたと話してると楽しい気分になる。エドガーはどうして、……あ」
どうしてヴァイオリンを弾こうと思ったの、と聞きたかったが、ちょうどその時、店内に入って来た男に目を奪われた。
長身で老齢の彼はまっすぐにこっちに歩いて来る。エドガーが俺の視線を追って振り返った。
「えっ、嘘……!」
彼の声と同時に騒めく店内。
連日、テレビでも顔が取り上げられているのだから当たり前か。顔の造りが良いから主演俳優のような扱いを受けるものね、あなた。
そんな有名人はつかつかと大股で俺の前まで歩み寄り、むすっと唇を曲げてみせた。
「恋人が若い男と二人でカフェにいるのを見てしまったんだが」
「まあ……。ご愁傷様」
そのチェスターコートはベルベスト。革靴はフェラガモ。腕時計はロレックス。こんな街角のカフェには全く釣り合わない出で立ちで、あなたは不満そうな顔をする。
ミロ・クローチェ。なんと俺の恋人。
外で見ると、流石に迫力があるなと思う。
「慰めてほしいなら座ってください。はい、椅子をどうぞ」
「……返信くらいしてくれ」
俺が近くの席から片手で椅子を引っ張って来ると、ミロは渋々といった様子でそこに座った。俺はポケットからスマホを取り出して、さっきのミロのメッセージに『あなたの目の前』と返信した。
コートの内ポケットで震えたスマホの画面を確認したミロは、唇をますますへの字に曲げる。
「若い男の目の前でもある」
「嫉妬しました?」
「するに決まってる。せっかく午後の時間が空いたから、お前とランチでも楽しもうと思ってだな……。で、この男はどこの誰だ」
ミロがぎろりとエドガーを睨む。呆然とミロを見つめていたエドガーは突然強い視線を向けられて分かりやすく慌てていた。
「睨まないで、ミロ。彼はさっき知り合ったヴァイオリニストのエドガー」
「え、エドガーです、え、ホントに、ホントにミロ・クローチェ? わ、あ、お目にかかれて光栄です、え、え、ホントにぃ?」
エドガーはミロと俺の顔を交互に見比べた。無理もない、高級ブランドを身にまとわせたテレビの中の男が目の前に現れたのだから。周囲の客も同じような状態だ。ざわめきがおさまる様子はない。
ミロはむすっと不機嫌そうだったが、俺にぱしんと膝を叩かれるとそのままの顔でエドガーと握手をした。
「ミロ・クローチェだ。ところでミスタ・エドガー、この浮気な悪戯ウサギをまさか口説いたりはしていないだろうな?」
自己紹介のあと即座に牽制。こんなに嫉妬深い人だったかな。これまで俺があんまり外出してこなかったから不安が無かったのかも。
気の毒なエドガー。そう思って彼を窺い見ると、彼はぱちりと瞬きをした後、ぶんぶんと首を横に振った。
「してません、神に誓って! ええと、お二人は、好き合ってて、その、恋人ってやつ……?」
「そうだ」
俺が答える前にミロが頷く。その直後にミロは俺の腰をぐっと抱き寄せた。
「この女王様は悪戯好きでな。気まぐれの暇潰しに他の男で遊ぶなんてことがあったら私の気が狂う」
「失礼な。しません」
「どうだか」
「疑ってる?」
「処女がもらえなかったからな」
「……今、真っ昼間。ここ、カフェ」
何てことを言い出すんだろうこの人は。確かに昔は遊んだけど!
エドガーがものすごく気まずそうな顔をしている。俺は残っていたケーキの半分を口に放り込み、残りをミロの口に押し込んだ。むぐ、と言いながら素直に咀嚼するミロより早く飲み込んで、コーヒーの残りも一気に飲み干す。
とにかくエドガーとミロを離さなければ。俺は自分の財布からコーヒーとケーキの代金を少し上回るくらいの紙幣を抜き出してテーブルに置いた。
「ごめん、エドガー。この人連れて帰るね」
「え、や、こっちこそ、なんだかごめん! あっ、サー・クローチェ! ホントに浮気とかじゃないです、たまたま知り合って! ここに誘ったのは僕です、だからレックスは悪くなくて、あ、レックス、お金はいいよ、奢るって言ったもの!」
「ううん、受け取って。迷惑料だと思って。驚かせてごめんね」
俺はミロの腕を引っ張って席を立つ。エドガーも慌てて立ち上がり、ミロと俺を交互に見ながら早口でそう伝えてくれた。立ち上がったミロは逆に俺の腕を引いてカフェを出ようとする。その顔が少しバツが悪そうなのは、自分の言葉と態度を省みているからだろうか。午前のお仕事が何だったのかは知らないけど、気が立っていたのかも。
ドアをくぐろうとした時、エドガーが最後に声を上げた。
「来週の日曜日、セント・ジョンズ教会、午後六時!」
「えっ?」
「コンサートするから、良かったら聞きに来て!」
ミロが少し立ち止まってくれたから、エドガーの顔がよく見えた。
きらきら輝くあの瞳で、彼はにっこりと笑っていた。
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