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旅行編 12 人魚とデート

 前に一度だけ、ふたりで朝を迎えたことがあった。  通っているスポーツジムが毎年開催しているアイススケートツアーで、一泊二日で、朝、君がいることがすごく嬉しかった。  ほら、漫画でよくあるじゃん。まだ寝ていた君の睫毛が、伏せたら、意外に長くて、みたいなシーン。アレが実際にあるんだなぁなんて思ってみたり。整った顔してるなぁって、その輪郭をじっと眺めたり。この唇がどれだけ柔らかいのかって知ってるのは俺だけなんだなぁ、なんて自慢気になってみたり。  まだ、無理だけど、いつか、そんな朝が毎日の始まりに変わったら、最高だって思った。 「……い」  今、俺の名前を呼んだ?  布団に一緒に入って寝たのはけっこう遅い時間で、まだそんなにそれから経ってないような気がするけれど。  君が起きてる気配がした。起きて、俺の寝顔を見てたり、しないかな。  寝たふりをして、君が身じろぐ度にする、シーツの布擦れの音を耳を澄まして聞いている。何をしてるんだろうって、静かにしてる。いつ、目を覚まして、君を驚かせようか、そのタイミングを計りながら。その時だった。 「キスマークつけちゃった……」  日向の独り言に胸のうちで頷いた。うん、付けられちゃったって、密かに答えながら、笑ってしまいそうになるのを堪えてた。なのにさ。 「このカッコいい人は俺のものですよー……」  こっそりと小さな声で、昨日の名残がある掠れた声で、君がそんなことを言ったから。 「! 伊っ」  目を開けちゃったじゃないか。あまりに可愛いことを言うから、たまらなくなって、寝たふりなんて静かにしてられなくなっちゃったじゃん。 「もおおお……日向」  君が俺に触れようと手を伸ばしたところだった。突然、パチッと目を覚ました俺に、目を見開いて、口を開けて、その三秒後くらいに頬を真っ赤にして固まった。 「お、おお、起きっ」  そこから君が再起動するまで多分、また、三秒くらい。  可愛い一人遊びを見られて、こっそりと、でもたしかにその内側にある独占欲を発見されて、日向がとても戸惑っている。  驚きすぎて、のそりと起き上がった俺を目で追いかけて、組み敷かれても気がついていない。 「朝からそんな可愛いこと言わないで。あと……一時間で朝ご飯なのに」  枕元にアラームとして置いておいたスマホに手を伸ばし時間を見ると予想していたほどの早朝じゃなかった。ふたりして寝坊だ。 「ごめん。日向、いっぱい付けちゃった」 「え?」 「痕」 「!」 「ごめんね。朝風呂は」  これじゃ朝風呂は難しそうだ。点々と赤い印が白い肌に残ってる。どうみたって、虫刺されっていう言い訳は苦しすぎる。だって、付いてる箇所は全て、普段なら服で隠れるところばかり。 「い、いいよ! 俺がつけて欲しかったんだ。たくさん、あるの、嬉しい」 「俺も、嬉しいよ」  君にはうなじ、肩、胸、お腹、腰、それに、脚の付け根。こんなところにいっぱいつけちゃって、自分の仕業だけれど、朝には刺激が強すぎる。俺のは、鎖骨の辺りにひとつ。俺は向こうに帰ったらまたスイミング三昧の毎日が待ってるから。こういうの初めてしてもらった。日向のワガママがそこにひとつだけくっついてる。 「日向のものって、感じがして」 「……お、れも……痕、嬉しい。伊都の」  君のものっていう印を交換した。  気持ちイイキスでくっつける、独り占めしたいっていうマークはたまらなく嬉しくて、たまらなくドキドキさせてくれる。その心臓を重ねるように抱き合って、裸の脚でじゃれあっていた。朝風呂が無理そうなら、ゆっくりでもいっか、なんてのんびりしながら。昨日の夜とは違う、朝の爽やかな空気を纏ったみたいに、さらりとした日向の素肌に、逆にドキドキしたりしてた。  印がいっぱいで海は入れないから、断念して帰ろうかとも思ったんだ。 ――お客様!  のんびり支度をして、朝、チェックアウトギリギリに行って、手続きを終わらせたら、スタッフの一人が俺たちを呼び止めた。 ――こちらを、お預かりしております。  手渡された旅館の封筒にきょとんとしたら、その人が楽しい旅行となりますようにってニコッと笑ってくれた。  中には水族館の無料招待チケットと、小さなメッセージカード。 『邪魔しちゃったお礼に、今日はふたりでたっぷりデートをしてください。私も頑張るね』  チケットはトモさんからだった。たぶん、同級生とか、知り合いの親に頼んでくれたんだ。そういうことができるかもって、チラッと話してくれていた。挨拶に顔を出してくれるかなって思ったけど、そこにはいなかった。彼女の頑張るっていう言葉が、別れてしまった彼氏とのことなのか、新しい恋のことなのかは、わからないけど、きっと元気に海辺を走り回っている気がする。 「うわぁ。伊都、すごい、綺麗……」  水族館は時期が時期だから、夏休み中の子どもからカップル、家族で大賑わいだった。そんな中でも青い水を眺めてると気分が落ち着く。  淡水魚で、食べたことのある魚の名前を見つけてはしゃがみ込んで観察して、イルカのショーに歓声を上げて拍手して、くるくる表情を変えて水の中を見つめる君の横顔はとても、綺麗だと思った。 「見て! 伊都!」 「うん」  日向が指差した先、ふわりふわり、海水の中、繊細な絹糸を踊らせるように漂う海月はロマンチックで、隣でそれを見上げる君をやたらと意識してしまう。 「あっ! 伊都! そこにいて?」 「え? うん」  この水槽、薄いんだ。あっちもこっちも深い水の色をしているからよくわからなかった。それに気が付いた日向が目を輝かせ、その水槽の向こう側へ行き、海月を挟んで手を振っている。  泳ぐ薄いピンク色の海月と海月の隙間、楽しそうな日向の笑顔が見えた。青白く発光しているとような照明の下にいる君の白い肌に水の色が映りこんで、それは、まるで。 「……」  人魚みたいだ。誰より綺麗で、誰もが見惚れてしまう。でも遠くて見てるだけしか許されない存在。海の中にいる君は尊すぎて、陸の上にいる人間には、触ってはいけない美しい人魚。 「ね! すごいね!」 「!」  ひょこっと、その水槽の横から顔を出した。そして、元気で弾んだ声にびっくりしてしまう。 「この海月が食べたら美味しいなんて。あ、それに、伊都はライフセーバーだから、海月は天敵なのか」  出会った頃の君は人魚みたいだった。綺麗すぎて、触れちゃいけないような気がするほどだった。 「日向、気が早い。まだ、なってないよ」 「でも、なれるよ。伊都は。あ! 次は、すごいよ!」  日向が俺の手を掴んで、大きな、大きな水槽の前へと走っていく。海の中を再現したその巨大水槽の中には、鮫もエイも亀も泳いでいた。そしてカラフルで小さな魚が群れを作って、風になびくスカーフみたいに、水の中をあっちこっちと泳いでいる。下には色鮮やかなさんご礁。  そんなメイン水槽を見上げ、それから、チラッとこっちを見て、日向が笑った。いつもは、俺が君の手を取って、君はうろたえる側だから。今日は逆転してるって、はしゃいでいる。 「ね、伊都、知ってた? 人魚ってさ、マナティーがモデルなんだって」 「……っぷ、あははははは」 「伊都?」  美しい人魚みたいな君と手を繋いで、陸に来てみない? 楽しいかもよ? って、デートを申し込んだら、来てくれたんだ。俺の隣に。そしたら、ただ綺麗なだけじゃなくてさ。 「なんでもない。ね、伊都、お土産、何買おうか。玲緒が」 「あ! 海月ラーメンとかあったよ?」  食いしん坊で、ノリがよくて、陸の上でケラケラと楽しそうに笑う、とにかく可愛い人魚だった。 「また、俺、変なこと言った? 伊都、なんで笑ってるの? 海月ラーメン?」 「んー? いいんじゃない? 日向は可愛いなぁって思っただけだよ。よし、そしたら次は、お土産買おうか」  見てるだけにしなくてよかった。君へと手を伸ばしてよかった。 「あ、ねぇ、伊都、鮫肌クッキーっていうのもあるみたいだよ?」 「え、それどういうこと?」 「んー……ざりざり?」 「鮫って、ざりざりなの?」 「わ、わかんないけど。伊都、知らないの? 泳ぐの上手じゃん」 「鮫とは……泳がないでしょ」  触れたら、君はとっても温かくて、俺はとても優しくて柔らかい気持ちになれたんだ。 「ねぇ、伊都」 「……」 「また、来年、海に行こうね」  そして、この優しくて、柔らかい気持ちでできた恋を君とずっとしていようって、笑顔で大きく頷いた。

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