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ファイヤーサンダー 1 なりたかったもの

 小さい頃は何になりたかったんだろう。  泳げなかった俺はライフセーバーになりたいと思ってなかったことだけは確かだ。  パン屋さんにはなってみたかったと思う。パン好きだったし。そんなようなことを言った覚えがある。あと、動物園の飼育員。うちがマンション住まいで、ペット可なんだけど小型犬までだったから、超大型のカッコ良い犬と暮すのが夢だった。あぁ、あと、たぶん、宇宙飛行士とか、消防士、その辺の王道路線は一通り網羅したんじゃないかな。  そのどれも、父には笑いながら将来の夢として伝えたけれど、そのどれもに「素敵だね。頑張って」って言ってくれてたと思う。笑ってくれたのをかすかに覚えてるから。  どれも、なりたかった。  けど、ひとつだけ言えなかった夢がある。  ヒーローに、なりたかったんだ。  父が悲しい顔をしてしまわないように、母が海にさらわれてしまわずに済むように、ヒーローになりたいって思った。  でも、言わなかった。  きっと父は申し訳ないって顔をしそうで。自分が子どもを守らないといけないのにって、もっと頑張ってしまいそうで、言えなかった。 「えー、俺、攻撃力五十アップさせたー!」 「すげぇ、俺まだ全然だぁ。ハイパーストームまだ全然出せねぇ」  塾の帰りかな。駅前のガードレールに腰をかけて、まだ小学生くらいの男の子が二人、手提げカバンをブンブン振りながら、そんな会話をしてた。  たぶん、ゲームの話なんだと思う。サンダーボルトなんとかかんとかだと、ラスボスは絶対に無理なんだってさ。そのハイパーストームっていうのが使えないと、倒すことは不可能だって、一人の子がスキップしながら話してる。  ああいうの、懐かしいなぁって眺めてた。俺はゲームってあんまりしなかったけれど、よくアニメを夢中になって見てた。 「サンダーファイヤー……」  それは、いつも見てたアニメを全部一緒くたにして自分なりに作った技の名前。  わけもわからず、カッコ良さそうな単語を並べた必殺技をよく作って遊んでた。学校の休み時間、まだたぶん、一、二年とかだったと思うけど、校庭とかで叫んでたっけ。  ヒーローみたいに、グラウンドを走り回りながら、自分の中では疾風のごとく、なんて思ってさ。父を、母を、誰かを守れるヒーローになりたいって漠然と思ってたのを、覚えてる。  懐かしいなぁ。あの時は、とても漠然としていたし、明確に守りたかったのは父と母の二人だけだったけど――。 「伊都―!」  日向の弾んだ声が、駅前の雑路の中、思ったよりもずっとしっかり響き渡った。  あはは、真っ赤になった。  まさかそんなに声が響くと思わなかった日向は一瞬でトマトみたいに真っ赤になって、肩を竦め、目立たないよう、できる限り小さくなりながら小走りしてくる。 「お疲れ、日向」 「伊都こそ、お疲れ様」  色白の君はちょっとしたことで真っ赤になる。 「ふふ」 「日向?」 「もう十一月になるのに、伊都は小麦色で夏みたいだなぁって」 「そう?」 「うん。一週間前と全く変わらないもん」  うん。一週間ぶりだ。  そういう君は夏も真っ白なまま眩しくてたまらない。日向がクルリと俺の周りを駆けて、ニコリと笑っただけで眩しく感じるくらい、一週間ぶりに会えるのを楽しみにしてた。 「飯どこにしようか」 「うーん」 「パスタがいい? 日向、パスタ好きだもんね」 「伊都の好きなものが食べたい」 「……じゃあ、パスタにしよう」  好きなものを食べていいなら……君、だなんて、今思ったことを頭の中から掻き消した。  二十歳になった俺たちは、それぞれが将来の夢に向かって歩いている。俺は大学で勉学とスポーツ、鍛錬、君は美容師の腕を磨くために毎日すごく頑張ってる。 「伊都の好きなものがいいんだってば」 「だから、パスタだよ。日向の好物が俺も食べたいんだ」  二十歳になった今も、ずっと手を繋いでいる。  俺は大学二年生になった。日向は来年、俺より一足先に社会人になる。  少しだけ、焦るよ。けど、焦ったところで、どうにもならないだろって、もう多分百回以上は言い聞かせてた。 「んー、美味しい! カニクリームパスタ最高」 「日向、それ好きだよね」 「うん」  ほっぺたピンク色にして可愛いな。しっとりとした雨が続いた六月、俺より一足先に二十歳になった日向が暖色系の明かりの下で柔らかそうなほっぺたを染めながら、大好物のパスタにはしゃいでる。 「伊都はそれで足りる? おかわりにチキンサラダ頼む?」 「んー……うん」 「あ、本当はピザとかが食べたいんでしょ?」  まぁね。食べたいけど、ちょっと我慢しないと。身体を作り変えたいなぁって思ってるんだ。だから食事もちょっとだけね。ちょっとだけ、やっぱり気をつけててさ。 「頑張ってるんだね」 「まぁね。日向が頑張ってるからさ」 「!」  照れるとすぐに伏せてしまう茶色の瞳が綺麗だった。もっとたくさん見たいのに、ほんとすぐに照れるてしまうから。じっと見つめてるだけでも、ほら、また慌てて伏せてしまう。 「だって、伊都、頑張ってるし……」 「違うよ。日向が頑張ってるからだよ」  けど、最近は褒めると嬉しそうに表情を綻ばせてくれる。柔らかくて優しくて羽みたいにふわりとした表情はちょっと素敵すぎて、レストランなのも忘れて見惚れてしまうんだ。 「伊都、少し髪伸びたね」 「あー、そう、かな」  言いながら、身を乗り出して、俺の伸びてしまった前髪に触れた。白くて細い指が優しく撫でると、その柔らかい指先から甘い花の香りがした。ハンドクリームの香り。美容師の専門学校でさ、インターンシップとかもあって、手を酷使する日向に俺があげたんだ。日向に似合う香りだなぁって思って。  ただ、その香りだけでも、熱が上がりそうで、グラスに入ったレモンウオーターを一気飲みしてしまった。 「また、俺が切ってもいい?」 「もちろん」  できることなら君に一生お願いしたい。 「ずっと、俺が切ってあげてもいい?」 「! いいよ。ありがと」  エヘヘ、なんて嬉しそうに笑わないで。嬉しいのはきっと俺のほうだから。胸のうちで願ったことを、君の声が言葉にしてくれる。それって、とても最高なことだから。  今、次はどんなふうに切ろうかな、なんて考えてる? 美容師になりたい日向はこういう時すごく楽しそうにしてる。  そんな君がすごく好きでたまらないんだ。すごく大事にしたいんだ。  高校生の頃に出会った初恋は、今も変わらず、甘くて柔らかく、ここにある。

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