1 / 115

第1話 カウントダウン

 年が変わる。ただそれだけ。  西暦がひとつ増えて、十二月っていう数字がまた一に戻って。でも、今日までの青い空が明日からピンク色になるわけじゃない。明日も明後日も、空は青くて、年越しカウントダウンでゼロって叫んだ瞬間、世界の何かが変わるわけじゃない。  けれど、不思議と世界はちょっとだけ浮かれて、俺は、そんな空気にちょっとだけやっぱり浮ついて、次の一年にちょっとだけ、ドキドキする。 「お父さん」  でも、きっと来年の今日も似たようなことを思うんだろう。いつか大人になった俺はどんなふうにお正月を迎えて、誰へ「明けましておめでとう」って呟くんだろう。 「俺、出掛けて来る」  リビングに顔を出すと、お父さんと、それと睦月が同時に顔を上げた。  お父さんはニコッと笑って首を傾げると、少し伸びた前髪が穏かなに笑う目元をくすぐった。今年で、いくつになるんだっけ。お父さんが二十三の時に俺が生まれたから……そっか、もう四十超えてるじゃん。 「寒いから気をつけてね」 「うん」 「カウントダウン?」 「うん。玲緒と」  そうは見えない。いや若作りとかじゃないんだけど、毎日見てるからかな、歳とかよくわからない。実感ないっつうか。ただ、四十の男って、もっとこう渋いっていうかさ。おじさんっていうか。そしてお父さんはいつまでも見た目が変わらない気がする。 「送ろうか?」  そう訊いてくれたのはお父さんと一緒に年越しテレビを蜜柑が食べながら眺めてる睦月だ。女の人にもありそうな名前。けど、女の人じゃなくて、俺のお母さんでもなくて、この人は――。 「んーん、大丈夫。玲緒のお母さんが送ってくれるって」  俺の、ヒーローだ。 「そっか」  小学一年の時、突然現れた、俺のヒーロー。カッコよくて強くて、昔も、今も、変わらず、俺の憧れで、理想の人。 「ついに伊都が初詣デートかと思ったのになぁ」  そして、睦月は俺のお父さんのことを好きになった。くっつけたのは俺、って、今でもちょっとだけ自慢に思っていたりする。 「違う。玲緒。そんで、普通に除夜の鐘鳴らしてそのまま初詣して、朝日拝んでくるだけ。あ、あと、初日の出の前にクラスの奴らでカラオケだった。駅前のとこ」 「そっか。あ! ちょっと待ってて!」  お父さんが四十過ぎには見えないみずみずしさで、表情を変え、両手を俺の手前でパッと広げると、止まれのポーズをした。そして、キッチンのほうへと消えていく。 「ねー、お父さん、まだ? 玲緒来ちゃうってば」  玄関で待っていると、お父さんがまた「ちょっと待ってて」と言っているのが遠くから聞こえた。  呑気っていうかさ、ふんわりした人なんだ。んで、睦月もふんわりしてる。ふたりで今みたくテレビを見てるんだか、見てないんだか、とにかくゆったりとした時間を共有して、ふと、同時にコタツの上の蜜柑に手を伸ばしては、蜜柑の頭上で手同士がお見合いみたいになって、そんで微笑み合う。  もうずっと長いこと一緒にいるのに、まだ、ふたりして、そんな些細なことに頬を赤くしてる。 「おとおおおおさああああん」 「待って待って、はい」  ガサゴソとビニール袋を派手に音立てながら、急いで玄関へかけてきた。 「これ、玲緒君のお母さんに。いつもお世話になってますって。睦月の田舎の蜜柑。美味しいよ。甘酸っぱくて」  お父さんと、睦月、俺の家族だ。 「知ってるよ。俺の好物だもん。毎日三つまでって言われるくらいにめちゃくちゃ食ってるし」 「たまに四つ食べてるけどね」  お母さんは俺が二歳の頃、海に連れて行かれた。 「行ってきます」 「気をつけて」 「はーい」  もちろん、俺は覚えてない。けど、お父さんはその時二十五歳。今の俺のたったななつ歳上なだけの若い頃に、突然、シングルファーザーになった。そして、お父さんは一時期、水が怖くなった。お母さんをさらった海のせいで。  膝辺りの水位がギリ限界だった。そこ以上になると、お父さんにとって水は化け物に変わる。水が怖い中での毎日って、仕事とか、家事とか、そういうのこなしながら大変だったんじゃないかなって。  そんなお父さんにとっての化け物だった水を克服させて、お父さんをあんなふうに微笑ませることができて、俺に泳ぎを教えてくれた。  睦月は、そんなヒーローだ。 「さみっ」  外は極寒だった。ぎゅっと肩をすくめて、慌ててコートの襟の中に口元まで隠した。  ひとりで育てるって大変だった? って、訊いたことあるよ。中学の頃だったかな。そしたら、柔らかくてほんわかとした笑顔で。 『楽しいよ』  そう言われた。きっとそう思えるのも、睦月がいてくれるからなんだと思う。  かすかに覚えている。俺が何歳の頃なのかわからないけれど、保育園の頃だったのは確かだ。まだ睦月と出会う前のこと。ふと、本当に毎日の隙間のような一瞬、お父さんが寂しそうに、心細そうに、空を見上げた事があるのを、かすかに、覚えてるんだ。 「玲緒!」 「おーい」  その一回っきりだった。でも、あの時の顔は覚えてる。  蜜柑を玲緒のお母さんに手渡し、俺たちは渋滞がハンパじゃないだろう神社から少し離れたところで降ろしてもらった。 「うわぁ。除夜の鐘並んでるみたいだね。この分じゃ初詣の方がもっと並んでそう」  おかげさまで身長だけは立派な成人男性くらいに育った俺の隣で、男子高校生の平均身長よりも小さい玲緒が頭をひょこひょこさせて、この先に待ち構えている長い行列の尻尾はどこかを見定めていた。 「うー寒い。いっつも水の中にいる伊都は寒くないんだろうなぁ」 「んなわけあるか。普通に寒いよ」  玲緒は水泳を中学で辞めた。俺はその後も続けて、なんだかんだ今も続けてて、けっこう本気だったりして。さすがにオリンピックは目指してないけど。高校三年でそこに手が届かないのなら、選手生命の短い競技だし、無理だろうとは思ってる。そういうんじゃなくてさ。ただ、ヒーローを超えたいっていうか、さ。 「宮野コーチ元気?」  俺と玲緒じゃ、家はちょっと離れてるから中学までは別々だったんだけど、示し合わせて、高校を同じところにした。玲緒は親友、ってやつ、かもしれない。 「元気だよ」 「そっかぁ。相変わらずイケメンなんだろうなぁ」  玲緒はお父さんと睦月のことを知っている。勘のいい奴だから薄々はわかっていたみたいだけど、公言はしてなかったから。でも、俺は隠す必要はないと思っていた。だから話したんだ。もちろん、俺のことじゃないから、お父さんに言ってから玲緒には伝えた。二人のことを。愛し合って、助け合って、どんな時にも隣にいる、とても深い想いと強い信頼で繋がった、そんな理想のカップルだと。俺にとって、お父さんと睦月は憧れなんだって話した。  玲緒は「そうだね」とゆっくり頷いた。 「あ、あの子、転校生だ」 「……」  玲緒が前を見ながら、ぽつりと呟いた。 「珍しいよね、この時期に転校生なんてさ。前の学校で問題を起こしたんだって」  そこにいたのは、雪の結晶でできたみたいな。 「……ウワサだろ?」  真っ白なコートに真っ白な肌をしてて、ここじゃひどく寒そうに見える、隣の教室の、転校生。その転校生が肩を竦めながら、もう初詣が終わったのか通り過ぎていった。 「えーでも、なんかミステリアスだよね」 「……」  振り返ると、皆とは逆方向に、ひとりぼっちで、それこそ、実在していないような、真っ白な、架空の生き物のようだった。 「あああ! っていうか、もうカウントダウン始まっちゃう!」 「今年、混んでるな」 「もおお! 伊都は呑気だなぁ」 「いいじゃん。別に。カラオケまではまだ時間あるんだし。ほら、じゅう、きゅう」  ちょっと、って玲緒が隣で慌ててた。でも、カウントは進んでいく。  時間は待ってくれないし、ただ過ぎていくだけで、カウントダウンしたってしなくたって、年は変わるし、年が変わるだけの話だし。区切りなんて。 「行列の中でとかっ!」 「よーん、さーん」  に……いち。 「あー、もうとりあえず!」 「あはは。明けました。おめでとう」  ふと、振り返った。なんでかわからないけど、あの転校生はひとりでカウントダウンしたのかなって、思いながら振り返った。 「明けましておめでとう! 伊都っ、ライン、みんなにできるかな」  転校生は白い息を吐きながら、ちょっとだけ空を見上げていた。白くて、キラキラしているように見えるほど、真っ白で。 「どうだろ。……おめで、と、う、って送れ、そう?」  ひとりだった。  そして、新しい年が、始まっていた。

ともだちにシェアしよう!