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ドーナツ side Y

リハビリからの帰り道、冬真の最近の常套句は、 「ようすけ...ぼく...どーなつ...たべた...い...」 冬真の細やかな可愛い望み。食べさせてやりたいのは山々だけど...絶対メシ食べられなくなるだろ? 俺はいつも悩む。食べたいと思った物を食べさせてやりたい。だけど...いつだって痩せ気味の冬真。調子の良い時は、少しでも栄養のあるものをと思ってしまうんだ... 別に話すつもりはなかったが、リハビリセンターの待合室で、偶然一緒になった野上さんの奥さんに話の流れで、何となくその悩みを打ち明けた。野上さんのご主人は、冬真と同じリハビリセンターに通っていて、ご夫妻共々、冬真をとても可愛がってくれている。奥さんは俺達二人のパン作りの先生でもある。俺の話を聞き終えた、野上さんの奥さんは開口一番、 「子供じゃないんだから...」 と言った。 「ごめんね。海野君も思うところあるよね。確かに岩崎君は食が細いから、少しでも栄養のあるものをって思う気持ちも分かる。でも、育ち盛りってワケじゃないんだから、たまにはドーナツでお腹いっぱいっていう日があっても良いんじゃないかしら?人生には、ある程度の余白も大切よ。お父様がお迎えの時は言わないのでしょう?」 「ええ。」 「だったら、1日ぐらいご褒美の日ががあっても良いんじゃないかな。岩崎君にはいつでも『一生懸命』っていう言葉が付き纏うわ。何をするのも一生懸命。そうしないと、彼の生活全てが変わってしまうと言っても過言でもないでしょ?リハビリ一つとっても、サボれば歩行や会話も難しくなるし、ちょっとでも健康面を怠れば、ずっと床に伏せることになってしまう。二十代の男性ですもの...普通だったら、自由にやってみたいと考えることもあると思うの。リハビリだって行きたくない日もあるでしょう...きっと。でも...そうしないのは、もう誰かの負担になりたくないと思っているから。だから、一生懸命リハビリもするし、一生懸命留意点を守り、そして、誰にも迷惑掛けないように、一生懸命自分の気持ちを言わないようにしている。そんな岩崎君が『ドーナツが食べたい』って言葉にして伝えるのよ。『ドーナツが食べたい』子供にだって言える言葉だけど、岩崎君にしたら、よっぽどのことだと思うの。自分の意思を言葉にする...それは、当たり前のことで、素晴らしいことなんだと教えてあげる良い機会なんじゃないかしら?」 「確かにおっしゃる通りですね。じゃあ...今日は帰りにドーナツ屋に寄って、好きなだけ食べさせてやります。」 「喜ぶわね...きっと。どんなものを選ぶのかしら?楽しみだわ!選んだもの教えてね。それを参考に、次の次のパン作りはドーナツにしましょう!」 そう言って、野上さんの奥さんは、うふふと笑った。 リハビリセンターを後にして、俺達はショッピングモールにあるドーナツ屋に向かった。 『ドーナツでも食べて帰るか?』 俺の言葉に冬真は目を輝かせる。 「いいの...?」 「ああ。しかも、1個だけじゃなくて、好きなだけ食べていいぞ!」 「でも...ぼく...ごはん...むり...」 「今日は特別!ご飯少しでも許す!冬真がリハビリ頑張ってるって聞いたからさ。ご褒美!ご褒美!」 『胸が高まる』とか『胸が躍る』という言葉を人間の表情で表すと、今、まさに冬真がしている表情だと思った。 このまま店頭に連れて行ったら、ショーケースにへばりつくのは目に見えているので、店員さんからメニュー表を1枚もらい、座席で食べたいものを選ばせた。冬真の選んだドーナツは、実にシンプルなもので、それもたった一つだけ。中にホイップクリームが入ったものだった。 「もっと食べて良いんだぞ?」 何度もそう言うが、これで良いのだと返す。実のところ、前々からこのドーナツを食べてみたかったのだと、照れ臭そうに教えてくれた。 「そんなに食べたかったら、いつも食べるヤツにしなければ良かったのに...」 俺がそう言うと、 「くりーむ...おなか...いっぱいに...なりそう...ごはん...たべられ...ない...これ...おいし...おいし...」 顔のあちこちにクリームをつけながら嬉しそうに笑った。 「じゃあさ、次から半分づつ食べようか?そうしたらさ、すくなくとも二つの味は楽しめるだろ?そのメニュー表もらって帰ってさ。次は何を食べるか決めようか?そうすれば、今度は考える楽しみも増えるだろ?」 「うん...ぼく...うれし...」 「ひとまず、俺のチョコレートのも食べる?」 「ぼく...ごはん...すこし...なる...」 「いいの!いいの!今日は特別って言っただろ?食べる?」 「うん......ありがと...」 「その前に顔、クリームだらけだぞ。せっかくの綺麗な顔が台無しだ。」 冬真の顔をウェットティッシュで勢いよく拭いてやると、冬真は 「いたい...いたい...」 そう言いながらも、クスクスと笑っていた。そして、半分だけのチョコレートドーナツを美味しそうに頬張った。 優しい時間だった。 野上夫人の言う通り、人生にはちょっとした余白も大切なのだと痛切に思った。俺のコーヒーと冬真のホットミルクから立ち上る湯気すらも、二人を優しく包んでくれている...そう感じずにはいられなかった。

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