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起
ひやりと冷たい風が頬を叩く。
気を失っていた月風秀人(ツキカゼ ヒデト)は、はっと瞼を開いた。強張った身体がぎしぎしと音を立てるのも構わず、彼は身を起こして周囲を見渡した。
ごつごつとした手触りの、冷たい床板が敷かれた薄暗い舞台裏だ。
彼はこの舞台裏をよく知っている。ココは、毎年執り行われる三年生を送る会で使用される講堂だ。そして、目の前にある緞帳は、昨年この学園のアイドルと詠われた河野敦也(コウノ アツヤ)に「オレ、今、コイツと付き合っているから」と全校生徒の前でいきなり恋人宣言をされ、その日から学園公認の恋人になった場所。
当時、敦也の親衛隊たちが許可した者だけが彼に告白することができると言う暗黙のシステムがあり、秀人はそのシステムを壊すことに利用されたのだ。つまり、ソレだけ秀人は彼の親衛隊たちに信頼され、信用までされている。
生徒会長と言う座は、ソレほどにも信憑性があるようだ。
きーんと耳鳴りがした。敦也の叫びが、耳の奥にこびりついて離れない。
──どうして?なんで…………!
頭を一つ振って、秀人は立ち上がった。
冷たい板張りの床は閉ざした秀人の心のようだった。
「………決まっているだろう………」
広い講堂に、秀人の呟きが木霊した。反響して幾重にも響く声は、やがて静寂に呑み込まれていく。敦也の叫びもこのように静寂に呑み込まれ消えてなくなってしまえばイイと思った。
数刻前、秀人は親衛隊の大野真(オオノ マコト)とともにいたハズだった。外界の、新雪が積もる中庭に。
突如として彼らを襲った凄絶な暴行に耐えられず、秀人は意識を失った。そのあとのことは覚えていない。
どうやってココまできたのか。
ソコまで考えをめぐらせた秀人は、ふと眉を寄せた。
「俺を抱いても、もうお前の我が儘には付き合わない………」
背後から抱き締められる温もりはこの一年の間に覚えたモノ、忘れるハズがなかった。
「そう言っただろう………?」
もうゴッコ遊びは疲れた。好きでもない相手に尽くすのも。
「オレは認めないよ」
首筋に這う熱い舌が秀人の喉仏を撫で上げ、秀人は首を大きく反らすが、慄然とした。背筋を冷たい氷塊に似たモノが滑り落ちたのだ。
漂ってくるのは甘い甘味にも似た香。神経を侵食する媚薬に相当するソレは、秀人の理性を大きく揺るがした。
「どうして、秀人はそうあっさりとオレのことを捨てられるの?」
くらくらと目眩がする。が、秀人は意を決して振り返った。
緞帳の配置された場所は大きく開けていた。ソコから講堂につながる舞台下は、舞台裏と繋がっている。目深にかぶったフードつきのコートはクリスマスに秀人が敦也に贈ったモノだ。この香も誕生日に敦也にせがまれて買ってあげたモノ。
フードの隙間から覗く顔は、半分死相がでていた。
「この一年、お前はオレの我が儘を全部聞いてくれたじゃんか」
首筋にあった舌がすっと上に移動し、秀人の唇をでろりと舐めながら、時折薄く開いた口内に割り入ってくる。
「だからだよ。もうコレ以上は………」
秀人は敦也の舌を噛んだ。しまったと動揺する秀人の顔を見て、フードに隠された敦也の顔が薄っらと嗤う笑みの形に歪んだのが解った。
「聞けないなんて言わせない。………秀人、オレから逃げられるなんて思わないで」
秀人は驚愕した。彼から逃げられない、と。そして、彼に流されるな、と。
秀人の揺らぎを感じたのか、敦也はついと服の合わせ目から腕を中に差し入れた。冷たい手がその小さな突起に触れ、小さく身体を揺らす彼は短い媚声を漏らす。敦也はその突起を爪で摘まんで弾き、無造作にこねくり廻した。
息を弾ませる秀人の股に、ワザと膝を割り入れるとがくりと彼の膝が笑った。
「ほら、強がらないでよ?………もっと気持ちよくさせてあげるから、オレと別れるなんて絶対に言わないで?」
だが、秀人は首を縦には振らなかった。
「強情だね、オレとこう言うことするの好きなクセに意地張らないでよ」
フードに覆われた頭が背後を一瞥する。
その視線を追って、秀人は息を呑む。
「………大野………?」
秀人との親友でもある真が横たわっている。秀人をかばってなのか、ボロ雑巾のように衣服も顔も身体もボロボロだった。
「彼は関係………、ない………」
「本当に?卒業したら一緒に暮らそうって約束してたんでしょう?」
進学の大学が同じ理由で、ルームシェアを提案されたことは事実だ。
だが、イギリスに直ぐ留学をするからと秀人は断った。
「オレと別れ話してから直ぐこう言う話をすんの、本当に止めて欲しんだけど?ね、そんなにアイツのことが好きなの?」
「………好きって言ったら、どうする………?」
敦也は喉仏に噛みついた。力が抜けて身体が自由にならないのに、秀人は敦也を突き飛ばそうとした。
敦也は、薄く嗤った。秀人がどうしてイギリスに留学をしたがるのか、知っているからだ。
「声帯を潰したら、もうどこにも行こうって気にならないよね?オペラ歌手になりたいって言う夢も、オレが潰してあ・げ・る」
「………や、め………ろ!」
半分死相を纏った敦也の顔が嘲りに満ちる。
「小さかった頃からの夢だもんね♪」
父の夢で、母の希望だ。そして、秀人の生き甲斐だ。
秀人は目をそばだてた。堅く閉ざされた講堂の扉の向こうから、かすかにこぼれ出てくるモノがある。ねっとりと足元に絡みつくような、おぞましい風は嫌な予感しかしない。
敦也はケタケタと嗤った。
「ココでオレに下るのか、コイツのためにオレに下るのか、扉の向こうにいるアイツから身を守るためにオレに下るのか、秀人が自由に決めてイイよ。どうせ、オレに下るしか道はないんだけど」
気持ちよく今直ぐ自分に下ることを勧める敦也の口振りは、痛ましい。秀人は瞼を瞑り、小さく首を振った。もう後戻りはできない、と。
「好きにしろ………」
呟いて、秀人は綴じていた瞼を開いた。
「もう逃げようとしない。………だから、声帯だけは許し欲しい………」
敦也はソレには答えず、肉がない骨だけの細ばった秀人の手首を掴んで真をみやった。
「そんなにアイツのことが大事?オレに嘘までついてそんなに守りたい?」
扉の向こうから押し迫る怒気が、彼が言葉を発するごと強くなっていく。ぞろぞろ集まってくる親衛隊に、秀人の心がそわそわし出した。
生徒会長の座を退いて早六ヶ月、ソレでも秀人への信頼が厚かったのは、敦也が秀人にぞっこんだったからだ。
ソレに、敦也の気分を阻害した代償は何よりも凄まじい。親衛隊だろうが容赦はなかった。
退学になったモノもいれば、社会に復帰できなくなるまで追い詰められたモノいる。自我が崩壊して、病院送りになったモノまでいた。
秀人の心を読んだのか、敦也は口を開いた。
「ココで、アイツを殺そうか?もう二度と秀人に近づけないようにさ」
ソレを聞いて、秀人は絶望にも似たモノを敦也から感じた。
敦也は、やはり嫉妬に踊らされていた。
「死体はバラバラに切り裂いて、秀人がもう二度とアイツに触れられないようにさ♪」
「敦也、止め………ろ」
「愛憎は紙一重って言うでしょう?アイツが悪いんだよ、オレのモノを取ろうとしたアイツがさ!ね、そう思うよね?」
秀人は堪らず、敦也の唇を己の唇で塞いだ。
「敦也、悪かった。だから──」
腰が砕けて、敦也は床板に手をついた。衝撃と様々な感情がない交ぜになって、直ぐに声が出てこない。
くずおれた敦也に秀人は覆い被さった。舌を絡ませ、敦也の言葉を全部呑み込む。
「殺すなんて軽々しく言うな。俺のためにお前の人生を棒に振らないでくれよ」
俺は俺のせいでお前の人生をコレ以上狂わせたくないんだ。
お前は俺と違って、最初から輝かしい未来が待っているだろう。
が。
「────許さない」
鋭く言い放ち、敦也は起き上がった。
「そんな理由でオレを捨てる気だったの?そんな理由でアイツを選んだの?」
絶対に許さない。秀人がオレのモノで、オレじゃないとダメだって自覚するまで、絶対に許さない。
「ハメ撮りで許してあげようと思ったけど、コレは調教が必要だね。入ってきてイイよ。アイツが失望するくらい秀人をよがらせ捲ってやってよ」
刹那、敦也の頬から白熱の閃光が迸った。
その光が講堂に散り、敦也の身体を大きく硬直させる。
「………何、すんの?両親にも叩かれたことないのに………!」
その言葉を最後に、秀人は敦也の腕を掴んで講堂の扉から出ていく。講堂の外で待機していた親衛隊たちが目を何度も瞬きさせていた。
激しい怒りが秀人に満ちている。怒らせると一番怖い人を怒らせたと、親衛隊は道を明け渡すように退いていく。
敦也がフードを深くかぶっていたため、叩かれた頬は醸されていない。が、秀人の般若の顔に誰もが畏れ入っているのは確かだ。
───ソコ、退け。
そんな秀人は敦也まで黙らせ、力任せに敦也を引っ張っていく。
持てるすべての力を込めているらしく、敦也の掴んでいる腕に指が喰い込んでいた。コレまで一度も怒ったところを見たことがない敦也は一気に怖じ気ついていた。もはや言い返す気力も喪失しているようだった。
秀人は荒い呼吸のもと、必死に怒りを抑えていた。
「………落ち着け、俺。………落ち着け、俺」
呪文のように呟き、荒い呼吸をも落ち着かせようと努力する。ソレを見て取り、敦也は全身で息を吐き出した。
「………秀人、………怒ってる…………?」
口端が僅かに上がるのは、コレまでにない執着の目をした秀人がいたからだろう。
「当たり前だ」
秀人が振り返りもせず答えると、敦也は目を細めた。
「オレ以外に抱かれるのそんなに、嫌?」
血が滲みでるくらい敦也の腕に爪を立てて、秀人は頷いた。
身長差は頭一つ分。細身で女の子みたいな顔をしているのに、言葉使いは男の子そのモノ。
伊達でかけている眼鏡は敦也の趣味。声変わりがまだなのか、声は幾分高い。
気の強いお姫様。
ソレが、秀人と言う人間の周りからの評価だった。
気を抜けば直ぐ様奪われてしまうほど、彼は人気者だった。昨年、敦也が「オレ、今、コイツと付き合っているから」と言う偽りの恋人宣言をしなければ。しかしソレが秀人が仕掛けた小細工だったとは誰も知らない。
況してや、秀人が敦也のことが好きでしたことだと言っても、敦也おろか誰も信用はしないだろう。ソレだけ、敦也の方が秀人にぞっこんで執着しているからだ。
卒業するまで。卒業するまでは敦也は俺のモノと秀人は最初からそう決めていた。彼の将来をすべて奪いたくなかったこともあるが、自分のせいですべてを失ったと彼の口から言われたくなかったからだ。そう、秀人は彼に否定されることが一番ショックなのだ。
闇に包まれた感情はとてつもなく大きい。触れられる悦びを知ったあの日から、秀人は狂おしいくらい敦也に恋をしていた。
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