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第5話
晃の置いていった性病検査チェッカーは郵送検査用のものだった。
念の為検査する事にした俺は、説明書に従い検体を採取し、採取した検体と申込書を返信用封筒に入れポストへ投函した。
検査結果が出るまで約一週間。
たった一週間で俺は覚悟を決めなくてはいけない。
正直、山奥にでも逃亡してしまいたい心境だ。
そんな俺の気持ちを感じ取っているのだろうか。
光の俺を見る目が怖い。
逃げないで下さいね―――と無言の圧力をかけてくるから。
まさに針のむしろ状態だ。
俺は重圧に耐えられなくなり、検査結果が出るまで家には来ないでくれと頼んだ。
光は俺の眠りを心配して一緒に寝ないまでも側にいたいと申し出たが、この状況で光に側にいられたら緊張で眠れないと告げると、苦笑いをして俺の頼みを受け入れた。
■■■
光が家に来なくなってから六日が経ってしまった。
家に引き篭もり、散々思い悩みのたうち回ったが、勿論決心はついていない。
だからか寝覚めは最悪。
起きたその瞬間から最低の気分だ。
上半身だけを起こし、チェストの上にあるペットボトルを取り水を飲む。
何度目とも知れない重い溜息を吐き、ヘッドに崩れるように突っ伏した。
どうすればいいんだ・・・
そんな答えの出ない問題をグルグルと考える。
暫くして空腹であることに気付くが、面倒なので無視しよう。
そう思い布団を頭まで被るが、不意に光の言葉が思い出された。
『食欲の有無や面倒などに関係なく食事はきちんと取って下さい。面倒でも何でも無理してでも食べてる事!』
光がこの家に通うのを停止する条件。
最低限守らなくてはいけない事。
仕方なく立ち上がり、キッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けてみるが、中はほぼ空。
買いだめしていた弁当と冷凍食品を全て食べつくしていた事を思い出した。
戸棚を見てみるが、インスタント類は光が来るようになってから買い置きする事がなく、レトルト食品はカレーが何袋かあったが、米を炊くのが面倒なので見なかった事にした。
簡単に食欲を無視できる俺は食べない事を選択したかったが、光の言い付けを無視する訳にもいかないので出前を取る事にした。
蕎麦屋に電話し、一人前では持って来ては貰えないので、蕎麦と親子丼を注文し、待っていると暫くしてインターホンが鳴った。
黒く塗られた木製の御盆に乗った品物を受け取り、金を払うと、出前に来た男は後で器を取りに来ると言い残し帰っていった。
晩御飯用の親子丼を家の器に移してラップをかけ、キッチンに放置し、冷蔵庫から五百ミリリットルのペットボトルを取ると蕎麦を持ってリビングへ移動した。
なんとなくテレビを点けそれをBGM代わりに、機械的に蕎麦を口に運び、咀嚼する。
何度となくそれを繰り返し、朝とも昼とも取れる食事を完了した。
持ってきたスポーツドリンクを一口のみ、ソファに座るとそのまま仰向けで寝そべった。
天井をぼんやりと見ていると、頭には今一番の悩み事が再び浮上してくる。
どうすれば光に嫌われないだろう・・・・・・。
そんな事を考え、堂々巡りを繰り返しながら「ああ」とか「うう」などの呻き声を漏らしながらのたうちまわる事二時間。
疲れた。
悩み疲れた。
俺は溜息を吐くと、気分転換に(なるかどうか不明だが)重い身体を引きずるようにトイレへと向かった。
トイレを済まし、個室から出たところで再び溜息。
二・三歩歩き玄関前で壁に寄りかかり、ずるずるとその場に座り込む。
どうしても自分では答えを出す事が出来ない。
いっそ俺の意思など無視して力ずくで犯してくれればいいのに・・・・・・そんなバカな事まで考えてしまう。
自嘲気味に笑い、暫くその場でぼんやりしていると、不意にインターホンが鳴った。
面倒だと思ったものの、もしかしたら蕎麦屋かもしれないと、リビングにあるテレビドアホンへ向かった。
見るとモニターに映し出されたのは、マスコットキャラクターの入った緑色の帽子と、白と緑のストライプ模様の制服を着た宅配業者だった。
『こちら志野原さんのお宅でお間違いないですか?』
うちに届け物?
宅配物が届く予定もなければ、贈ってくるような相手に心当たりもない。
訝しく思い、差出人の名前を確認してみる。
以前俺のファンだとかなとかからおぞましい贈り物をされた事があり、痛い目をみた経験から得た知恵(と言うほどの物でもないが)だ。
『差出人様は、志野原晃様となっております』
・・・・・・晃。
奴がわざわざ物を送ってくるだろうか?
無くはないだろうが、奴からは何も受け取りたくはない。
「いらないから持って帰ってくれ」
『受け取り拒否ですか? だとしましたら受け取り拒否のサインを頂けますか?』
受け取り拒否のサイン・・・・・・仕方ないな。
俺はエントランスホールのロックを解除し、宅配業者を通した。
少しして家のインターホンが再びなった。
ドアを開けるとモニターに写っていた宅配業者が中くらいの箱を持っていた。
「サインなんですけども、伝票のところにお願いしたいんで、一度荷物下ろさせてもらっていいですか?」
「ああ」
返事をするのが早いか、業者は開いたドアから玄関へするりと入り込み、持っていた箱を俺の足元へ置いた。
「えー。こちらに判子を頂きたいんですが、宜しいですか?」
判子か・・・
確か寝室のチェストの引き出しに入っていたな。
「ちょっと待っててくれ」
業者を玄関へ残し、寝室へ判子を取りに行った。
チェストの引き出し奥から判子を見つけ出し、リビングへ戻ろうと寝室から出ようとドアを開けた時だった。
身体が一瞬硬直した。
リビング中央に、玄関で待っているはずの配達業者の姿があったのだ。
手に持っていた箱は足元へ置き、被っていた帽子をその上に置き、こちらを真っ直ぐに見ている。
何かを思うよりも先に身体が自然と戦闘体勢に入る。
警戒心を持って見るが、俺とたいして変わらない身長のそいつは構えた様子もなく、リラックスした自然な状態で立っているので何かこれから事を起こすようには感じられず、拍子抜けする。
それにしても、目の前の不審者は腕組みをし、ふてぶてしく尊大な態度でこちらを見ている。
何様だ?―――そう思った時だった。
そいつは口を開いた。
「無用心にもほどがあるぞ。志野原貢」
身長からして男だと思っていた相手から綺麗なアルトソプラノが発せられ、驚いた。
女か?
「そして相変わらず薄情な男だな。お前は」
そう言って女は頭に手をやり、被っていたものを剥ぎ取った。
パサッと軽い音と共に女の足元へウィッグが落ち、ナチュラルな金色の短髪が現れた。
手櫛で髪を整えながら反応を窺うようにこちらを見る。
俺が無反応で返すと、女は苛々しく眉を寄せ、顎の付け黒子を取り、来ていた配達業者の制服を脱ぐと体型を変えるために胴回りに括り付けていた何枚ものタオルを外し、上半身は黒のタンクトップ一枚になって見せた。
これで分かるだろうと言わんばかりに仁王立ちし、挑むように俺を見た。
何処か異国の血が混ざっていそうな洋風の顔は少年にも少女にも見え、意思と気が強そうな切れ長の目に細く高い鼻梁。形の良い薄い唇は不遜な笑みを湛えている。
不必要どころか必要な肉すら付いてなさそうな華奢な身体は雪のように白い肌。
・・・・・・誰だ?
どうしても相手の正体が分からない俺は、小首を傾げて見せた。
すると女は顔を引き攣らせ、肩を怒らせながら「お前は最低だ」と低く呻いた。
俺は降参と言わんばかりに盛大な溜息を吐き「で、お前誰なんだ?」と問うた。
「私は・・・・・・」
「リーゼ?」
答えは目の前の女からではなくその後ろ、リビングと玄関を結ぶ廊下への入り口に立つ黒い生き物から発せられた。
志野原晃。
なんで手前がここに居る!?
つーか、今直ぐ即刻マッハで帰れ!!
「志野原晃か。久しいな」
「ホントにね」
硬質な敵意を孕んだ笑顔を向け合う二人にごく当たり前の質問をする。
「お前ら知り合いか?」
向かい合っていた二人は同時に俺に向き直り、女は凶悪な目で睨みつけ、晃は表情を歪め笑う寸前の顔で俺を見た。
「忘れてるんだ。本当に。きれいさっぱり」
忘れている?
俺はこの女を知っているのか?
「モデルのリーゼだよ」
「俺は芸能は疎いんだよ」
堪えきれず噴出した晃を射殺さんばかりに睨め付けた女は「兄弟共々火炙りにされてしまえ」低い呻くように呪いの言葉を吐いた。
「そうじゃなくて、付き合ってたんだよ。リーゼと兄さんは」
付き合っていた・・・・・・?
俺とこの女が?
改めて女を凝視する。
・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
駄目だ全然思い出せない。
再び首を傾げた俺を見て、晃は苦笑。女は「もういい!」と憤怒の言葉を吐き、ドスドスとソファへ歩み寄るとドカッと乱暴に座った。
「残念だったねリーゼ。兄さんと元サヤに収まるのは無理そうだよ?」
「愉快そうに笑っているところ悪いがな。私はそんなもの収めにきたわけじゃない!」
「なら何しに来たのさ?」
「お前には関係ない」
立ったままの晃より、ソファに座り低い位置だというのに女は見下すように見る。
本当にいい態度だ。
「俺には関係あるよな? 話せよ」
「勿論お前には話す。そこの黒いのが消えてからな」
随分と晃を嫌っているようだが、何かされでもしたのだろうか?
「だそうだ。お前はもう帰れ」
「帰るのはいいけど。いいの? 女と二人きりのところを光に見られでもしたら大変じゃない?」
「別に大変なことなんかねーよ。それに・・・・・・光は当分来ない」
「へぇ。そうなんだ」
驚いた様子もなく、それどころか分かっていた答えを聞いたような顔で相槌を打つ。
俺と光の現状など知らない筈なのに、全てを知られているような気になる。
悪い意味で落ち着かない。
「光とは誰だ?」
女から質問が投げかけられる。
答える必要はないので無視しするが「兄さんの好い人」と、バカが答えやがった。
「晃!」
自分からこの黒い生き物に近付くのは恐ろしいわ。気持ち悪いわで最悪だが、かまっていられない。
これ以上余計な事をしゃべられる前にコイツの口を封じなくては!
ソファに座った女の前を素通りし、一直線に晃の元へ大股歩きで行った。
触りたくはなかったが、歯を食いしばって我慢をし、華奢な肩に手をかけて女に背を向けるように身体を反転させ部屋の端まで強引に持っていった。
顔を寄せ耳元で囁く。
「光の名前なんか出してんじゃねーよ。あの女。俺の元カノか何か知らないけどな、変装して他人の家に不法侵入するような奴だぞ。もしも俺にまだ未練があって光に危害を加えたらどうすんだよ!」
「貢。リーゼはああ見えても一応モデルなんだよ? 変装もせずに男の部屋になんか来れないだろうし、不法侵入て言ったってどうせ貢が無用心なまねでもしたんでしょ?」
「俺はちゃんと・・・・・・」
「おい。そこの無礼な男二人。コソコソやっているところ悪いがな、全部聞こえているぞ!」
自分を変質者扱いした俺への意趣返しなのか「貢。後学の為に教えておいてやるがな。受け取り拒否の場合、サインを求められることはないぞ」と獰猛な顔で助言した。
女の言葉から事の顛末が推察できたのだろう。
人を小バカにするような笑みで「ははっ。抜けてて可愛いなぁ~兄さん」などと言いやがった。
・・・・・・いたたまれない。
もう、早くこいつ等追い出そう。
思うが早いか、俺は置いたままになっていた晃の肩から手を外し、両手でしっかりと両肩を掴むと玄関方向へ突き飛ばした。
「帰れ!」
「そうだ。帰れ」
「お前もだよ!!」
「何故私が? その黒いのは帰るは筋だが、私が帰る道理がないではないか?」
心底心外という顔だ。
怖っ!!
「つーか、お前が居ていい理由が全く見つからねーよ!」
そう告げると「お前と私の仲だろう?」と、ごく自然に当たり前のように言ってきた。
「例え昔付き合っていたとしても今は赤の他人だろうが!」
冷たく言い放つが、女は傷付いた様子もなく呆れ顔子で俺を見た。
「相変わらずだな。志野原貢。光とやらも苦労してそうだな」
そんな事は無いと、お前には関係ないと、言い返すべきなのに言葉が出て来なかった。
事実、光に迷惑と苦労ばかりをかけている。
申し訳ないと常日頃思っているだけに否定の言葉を咄嗟に吐けなかった。
言葉に詰まっている俺を見て、女は信じられない物でも見たかのように目を丸くし、口を硬く結び、ソファの上で静止していた。
「志野原貢・・・お前・・・」
そう呟くと、硬かった表情が見る見る間崩れた。
「そうか。お前もとうとう愛すべき人に出会えたんだな」
良かった―――と、何故か女は安堵の表情をし、優しい笑みをもってそう言ったのだった。
何故そんな事を言われるのか、何故そんな表情を向けられるのかが分からない。
俺とこの女の間に一体何があったというのだろうか?
リーゼ・・・・・・
記憶を弄るが全く何も引っかからない。
光と出会う前は杜撰でいい加減な付き合いしかしてこなかった。
付き合っていた女。
寝た女。
顔も名前も誰一人思い出せない。
本当に最低な人間だな。俺は。
「雰囲気作っちゃってヤラシイんだ」
意図せず見詰め合ったままの俺達を揶揄する。
「まぁ折角だから初夜の心意気でも訊いてみたら?」
意味が分からず怪訝な顔を向けると、黒いのはわざとらしい溜息を吐いた。
「女の子の一番大事なものを貰っておいてこれだものね。処女の捧げ甲斐がないね。まぁ簡単に忘れられてしまうほど存在感の無いショボイ自分も悪いけどね。リーゼ」
悪意に満ちた笑顔でそんな事を言われた当の本人は、ソファ前のテーブルから殆ど中身が入ったままのペットボトルを掴み取ると容赦なく暴言の主に投げつけた。
コントロールは良かったが、何らかの反撃がある事を予測していただろう黒いのは持ち前の反射神経でそれを難なく避けた。
ちっ! 当たれば良かったのに!!
「ざ~んねん」
何処までも憎たらしい存在である男は鼻で笑う。
女は歯噛みし、次の獲物を手に取った。
って、俺の携帯じゃねーか!?
「バカ! それは投げんじゃねーよ!!」
俺の制止の声を聞き、既に振りかぶっていた腕をピタリと止めた。
チッと舌打ちすると、怒りをソファへ向ける事にしたらしく、ボカスカ殴りだす。
これ以上この二人を同じ空間においておくのは危険と判断した俺は、一先ず晃を追い出す事にした。
触りたくは無かったが、歯を食い縛り、晃の腕を掴むみ反転させ、玄関へ向かせると両肩を力一杯掴んだ。
渾身の力を込め晃の背後から押すと、奴は抵抗する事無く歩いた。
玄関まで難なく運ぶ事に成功した俺はドアを開ける為に右肩から手を退けた。
すると身体を反転させ俺へ向き直った。
なんだよ。今更抵抗する気か?
「今日はもう帰れ。ってか、二度と来んな!」
「うん。今日はもう帰るよ」
いやにあっさりと承諾した。
「本当はこれ渡しに来ただけだし」
そう言ってケツのポケットから封筒を差し出してきた。
見れば、その封筒の宛名は志野原貢だというのに既に封が切られている。
手前はなに勝手に開けてんだよ!
中に入っている紙を引っ張り出し、内容を確認して血の気が下がった。
「なんで・・・お前がこれを持ってんだよ」
「ん? さっきポスト覗いたら連絡票が入っていたんでね。不精の貢の事だから暫く放ったらかすだろうと思って、僕が気を利かせて窓口まで行って受け取ってきたからに決まっているでしょ」
頼んでねーよ!
ってか、俺の為みたいなこと言ってるが、ただ単に自分が結果を知りたかっただけじゃねーのかよ!!
言いたい事はたくさんあったが、待っていなかった封書の到着に動揺してしまい声が出なかった。
「さあ。これで腹を括るしかなくなったね」
悪魔は嫣然と微笑み「健闘を祈っているよ」そう残し、ドアの向こうへ消えて行った。
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