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オーダースーツ
「フィッティングいたしますので、こちらにどうぞ。」
「っ、あの、」
「何か?」
「いえ…」
言えない。
『近すぎませんか?』
このたった一言が、喉の奥に詰まって出てこない。
オーダースーツの引き渡しのフィッティングなのだから、この距離は不自然なことではないのかもしれないけれど。
でもこの間他のお客さんのフィッティングをしているのを見かけた時は、もっと離れていなかったか?
「どこか窮屈なところはございませんか?」
「あ、はい…大丈夫です。」
耳を擽る柔らかい声と穏やかな微笑み。
至近距離で囁かれる言葉にドキドキと心臓が早鐘を打つ。
これは、新しいスーツを着た高揚感?
それとも…
「いかがなさいましたか?」
「ッ、わ…」
腰を抱き寄せられ、甘く…それでいて爽やかなコロンの香りがグッと近付く。
カチャ…と眼鏡が頭に触れる感触と、腰を引き寄せる大きな手の力強さ。
カッと顔に血が集まる。
綺麗な顔がすぐ側にある。
恥ずかしくて真っ直ぐに見つめることはできないけれど、その優しい笑顔にいつも心が締め付けられていた。
「…今晩、お時間は有りますか?」
「え?」
耳元で囁かれた言葉に思わず視線を上げた。
そこにはいつもの営業スマイルとは少し違う、どこか照れたような微笑みがあって。
「食事にでも行きませんか?客とテーラーとしてではなく…」
「………」
「その…つまり、デートに誘っているのですが。」
「っ、」
デート…
それって、つまり…そういうこと?
期待しても良いのだろうか?
「ダメ、ですか?」
「いいえ!」
咄嗟に彼のベストを掴んだ。
俺のその様子に彼の瞳が一瞬見開かれ、また柔らかく細まる。
たったそれだけの表情の変化にも心が踊る。
この人のことをもっと知りたい…
「食事、楽しみにしています。」
微笑みながら返事をすれば、彼もまた嬉しそうに口許を綻ばせたー。
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