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『俺の溺愛する慧君がジムに通いたいと言い出したんだが10000000%続かない場合はどうすべきかを求
「それで慧君。夕飯は何が食べたい?とは言っても、今からじゃ簡単なものしか作れないけど」
「えー。腹減ってないから要らない。それより俺は買い物に行きたい」
「じゃあ軽くスープにしよう。冷凍してある野菜と、桃から貰った土産のベーコンでポトフにすれば明日の朝も食べられるし」
「だから人の話聞けってば!俺は!買い物に!行きたいの!!それに腹減ってないから食べないんだって!ポテチとプリンと、アイスも食べたからむしろ気持ち悪いぐらいだし!」
フローリングに寝転がり両足をバタバタさせる慧君。そんなことをすれば埃が舞って、明日の朝また掃除機をかけなきゃなぁ……なんて考えてしまう自分の性格が憎い。
ここは、要らないという言葉に甘えてキッチンに向かいかけた足をリビングの方へと向ける。
「はいはい。近所迷惑だから騒がない。床には寝ない、暴れない、叫ばない」
「リカちゃんが俺の言ってること聞かないから!」
「聞くから。ちゃんと聞くから、とりあえず座って」
ポン、と腰をおろしたソファの隣をたたく。すると慧君が目を眇めた。
「お前そう言って隣に座った瞬間に襲ってくるんだろ。リビングで明るいままエッチしようとしてんだろ、このエロ親父が」
「そういう発想になることに、先生はすごく驚いてるよ」
「いいかリカちゃん、教えてやる。顔のいい男と転校生に最初に優しくする奴は簡単に人を騙すって、拓海から借りた漫画に描いてたぞ」
「だからそういう偏った知識ばっかり頭に詰めないで、英単語の1つでも覚えてくれないかなぁ……」
「だから俺は騙されない!顔のいい男にみんなが騙されると思ったら、大違いだからな!」
家の中で暴れないなら、もうなんでもいい。まだこちらを睨みつけている慧君に気づかれないよう、膝についた頬杖でため息を隠す。疲れのピークはとうに超えてしまっていた。
「それで慧君はなんで靴とウェアが欲しいの。ウェアって言い方から予測するに、何かスポーツでも始めるつもり?」
怠惰を好む慧君が自ら好んで運動するとは思えないが、導き出された答えから問えば、返ってきたのは大きな頷きだった。慧君が喜々として1冊の本をこちらへと向けてくる。
「リカちゃん、俺、ジムに通うことにした!」
見せられたのはムッキムキの筋肉を見せつけるかのようなポージングをとる男のイラスト。
「――……いやどう考えても慧君にそれは無理でしょ」
思わず零れた言葉は本音だ。だって、慧君ほど筋肉と正反対に位置する人間を、俺は見たことがないからだ。
動きたくない、楽したい、汗をかきたくない、ずっと寝ころんでゲームしていたい。
もはや口癖になっているそれらを覆すかのような瞳で、慧君がこちらをのぞき込んで言う。
「だってさ、拓海の漫画に顔のいい男は裏切るけど、筋肉は裏切らないってあってさ。俺も初めは何言ってんだコイツと思ってたんだけど、5巻ぐらいから確かにと思えちゃって」
「だからなんで」
「主人公がすごいんだよ。転校したところから話は始まるんだけど、優しくしてくれた隣の席の奴が実は裏社会のボスでさぁ。指1本で100人相手にも勝てるんだよ」
「その設定を受け入れちゃった慧君に俺は驚くんだけど」
「それでさ、仲間に引きずり込まれそうになった主人公を助けたのが、謎のマッチョなわけ。それで主人公はボスから逃げるために足を鍛えんの。で、ムッキムキになった足で100メートルを7秒で走れるようになって、なんとか逃げれて」
「いや、いやいやいや」
「でも顔のいい男に、君は世界一可愛い女の子だよ。好きだからエッチさせてって言われてまた騙されそうになって」
「あ、主人公が女ってことは、そのイラストは女の子だったんだ……て、そうじゃなくて」
「もうダメかもしれないって泣いてたら、謎のマッチョが今度は腕の筋肉を鍛えろって言ってきて。最後は迫ってくる男を砲丸投げみたいにして海外へ投げちゃうんだよ」
目を輝かせて慧君が続ける。
「俺も、この主人公みたいになりたい!だからジムに通うために、ウェアと靴と、時計とタオルとプロテインが欲しい!!」
そこでまた出てくる、あのムキムキ筋肉男のイラスト――慧君の話から性別は男ではなく女だったようだが――ああ、ありえない。話の内容もこの結論に至った慧君も。
けれど1番ありえないのは、そんな慧君も可愛くて仕方ない自分。
すなわち、この方程式の解は『今日も君のおかげで俺は幸せ』で満点は間違いない。
……が、駄々をこねる慧君を宥める為に今から長い長い戦いが始まる。
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