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『俺の溺愛する慧君がジムに通いたいと言い出したんだが10000000%続かない場合はどうすべきかを求
悩める生徒の相談に乗り明日の授業の準備を終え、数多ある雑務の中からマストを選び出し、秒針との死闘を繰り広げ、厳しい戦いに打ち勝った時すでに時刻は20時を過ぎていた。働き方改革だなんだと世間では言われているが、教職に就く人間はボランティア精神に富んでいて、自ら進んでいくらでも働く人種だと思われているらしい。
そんなことは断じて無いと、経験者として語りたい。
心の中でおよそ人には聞かせられない罵詈雑言を吐き散らしつつも、虚ろな目をした人型ロボット……ではなく、苦楽を共にする同僚たちを残し学校を出て愛車のアクセルを踏み込む。ぼんやりと、けれど意識はしっかり周囲に注意すること十数分。
生涯結婚することはないからと利便性だけを考えて購入したマンション。そこで待つ「面倒くさい」が口癖の彼は、果たして無事に夕飯を済ませているのだろうか。
「慧君、ただい――」
「リカちゃん靴買いに行こう。あとウェアと、それから専用の時計みたいなのもあった方がいいらしい」
帰宅の挨拶すら言わせてもらえず、俺は固まった。愛する恋人が玄関で待っていてくれたのは嬉しい。けれど、その桃色の薄い唇から紡がれるべき言葉は「おかえり、リカちゃん。風呂にする?それとも俺?」であるべきだったはず。慧君は家事の才能が壊滅的にないから当然食事は作れないし、風呂掃除もできない。よって選べるのはシャワーと慧君。この夢のような二択が提示されたはずで、間違いなく、一瞬の躊躇いもなく、残された全ての気力を振り絞ってでも慧君を選んでいたはずなのに、なぜだろうか。
もしや幻聴か。
「おい、シカトしてんじゃねぇよ。いくらオッサンでもまだ耳は聞こえてんだろ」
傍若無人な彼が容赦なく俺の足を蹴る。たいした痛みはないが布越しに感じた慧君の体温に、思わず嬉しくなったなんて言えない。言ったら最後、生ごみを見るかのような目で睨まれ、生ごみのごとく部屋を追い出されるからだ。
「慧君、プレゼンの基本は序論、本論、結論だよ。まず初めに何のためにこの話をするのか。それから自分のしたいことを述べて、最後にどうすればいいかで締める」
「したいこと言ってんじゃん。靴とか買いに行こうって。人の話はきちんと聞けって、リカちゃんの時代は教わらなかったのか?」
「はいはい、おじさんの時代にも習いましたよ。それに靴ならこの前買ったばかりのやつがあるでしょ。ほら、ここ」
その買ったばかりの靴は俺の真横に並んでいる。きちんと揃えられているところに兎丸慧の育ちの良さを感じるが、目の前に立つ彼自身からはちっともそれは見られない。ただただ、帰ってきたばかりの親に突然物をねだる子供だ。そんな子供を軽くいなし、廊下を進めば今朝は整頓されていたリビングに物が散乱していた。
「なんで靴は揃えるのに、片付けはできないかな。3人仲良く遊んだなら、3人仲良く片付ければいいだけなのに」
「なんであいつらが居たこと知って……って、やっぱ、リカちゃんって俺のこと盗撮してんの?え、ひくんだけど」
「盗撮しなくても部屋を見ればわかるから。このカップ麺の容器は歩でテーブルの上の漫画は鳥飼、2人が帰ったのは30分前ってところか」
「こっわ!時間まで当てるとかお前マジで怖いって!名探偵より名探偵じゃん」
いつもより数段テンションの高い慧君は、なんで俺だけが、と不満をたれながらも部屋を片付け始めた。ここで全てを放り投げてソファにふんぞり返れば、待っているのがお説教だと知っているからだ。人とは少なからず学ぶ生き物である。
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