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第1話 亮平の過去-1
「やる気がないならやめりゃいいのになー!」
嘲笑を含んだその言葉で、事務所の中は一瞬しんと静まり返った。
亮平のマネージャーである絹本亜子は、幾度となく亮平のこの口の悪さを注意している。
しかし改善する気配は微塵も見えない。
なぜか亮平は、ある特定の人物においてのみとても攻撃的な性格になる。そうなったのはもう何年も前らしく、二年前に入社した亜子はその当時のことを知らない。
「亮平、あっちの会議室でスケジュールの説明するから来なさい」
「はーい。落ちた仕事の話聞こえるのカワイソーだもんね~」
「亮平!」
「つーか俺が移動すんのおかしくねえ?」
「もうあんたいい加減にしなさいよ!」
二人のそのやりとりを、背中で聞いていたのはEitaとEitaのマネージャーである遠藤だ。
フロアの扉を閉める音が響いて、それまで手元の書類に目を落としていたEitaが溜め息を吐きながらに椅子の背もたれに寄りかかる。
「あの雑誌はどっちかと言うとカジュアル系だから」
遠藤が淡々とした顔でフォローを入れる。
「分かってるよ」と、Eitaは苦笑いを返した。
◇
「じゃあ明後日は朝四時に迎えに行くからね。ちゃんと学校に休む連絡しとくのよ」
「はいはーい」
「………ねえ。何度も言うようだけどさ、もうちょっと何とかならないの。Eitaへの態度」
「は?どうにかする必要ある?」
その名前を出すと、いつも亮平の顔から表情が消える。
それでもはっきりと分かる。怒りや苛立ちの色が一段と濃くなることが。
「他の事務所の子ならともかく身内で嫌い合ってても良い事ないでしょ?」
「そーお?てか生理的なモンだし嫌いになるなとか無理っしょ?」
「だからってあからさまな態度取っていい理由にはなんないよ」
「も~亜子ちゃんウルサイよ。今日終わり?帰っていい?」
「はぁ……。いいよ、今日は終わり。お疲れ様」
「やったー早い!買い物行こーっと!おつかれっした~」
機嫌が悪くなると、亮平は亜子のことをちゃん付けで呼ぶ。
それは、“もうこれ以上聞いてくるな”という合図でもある。
ここの関係が悪くなっては本末転倒だと思い、亜子は大人しく引き下がった。
足早に出ていった亮平を見送り腕時計に目をやる。
まだまだ仕事は山積みだ。
亜子は机に広がっていた書類をまとめ、会議室の電気を消し扉を閉めた。
亜子が働く芸能事務所は、広告モデルやショーモデルに特化した小さな事務所である。
都心から少し外れた駅前のオフィスビルのワンフロア。
30畳ほどのメインフロアの他に、小会議室が2つ、大会議室が1つ。
そこを拠点に、今年で設立12年目を迎える。
転職サイトでたまたま見つけたこの会社。
面接日、真っ青なオフィスチェアが並んだ社内を見守るように置かれた窓際のドラセナを見て、亜子はすぐにここを気に入った。
何でもやりますと鼻息荒く語った二年前の熱意はどこへやら。
今は、事務処理を回すことと担当である亮平や他のモデルの管理でいっぱいいっぱいだ。
「あ、お疲れ様でーす」
「わあっ!」
事務所のフロアの扉を開けようとしたとき、ちょうど反対側からEitaが扉を開けた。
身長150センチそこそこの亜子は、咄嗟の瞬間に感じるモデル達の身長の高さにいまだに慣れずにいる。
「ごめんなさい大丈夫?」
「ううんゴメン、こっちがぼーっとしてた」
「何かおつかれだね。あ、これあげよっか」
学校帰りのEitaが、スクールバッグの中をがさごそとかき回す。
出て来たのは、彼の姉が広告モデルをしたサプリメントのパウチの束だった。
「え、これ全部くれるの?」
「うん。大量にもらったらしくて今みんなでさばいてるの。逆に助かるからもらって」
「ホント~!?めっちゃ嬉しい、ありがとう!」
“鉄×マルチビタミン”と書かれたパッケージを見て、亜子は素直に礼を言った。
「えーた、何かいつもゴメンね…」
「ん?何が~?」
にこにこと穏やかな笑顔でそう返すEitaに、亜子はいつも心苦しくなる。
しかし何を言えばいいか分からず、ついその優しさに甘えてしまう。
「今日はもう終わり?」
「ううん~。今から撮影~」
「そっか、頑張ってね」
「うん、ありがとー。あ、遠藤さん来た。いってきまーす」
紺色のトレンチコートを羽織りながら、小走りで遠藤が廊下に出てくる。
お疲れーっス、と亜子と軽く挨拶を交わしたあと、二人は階段をかけおりて行った。
亮平はあの子の何がそんなに気に入らないのだろう。
Eitaの広い背中を見送ってから、亜子は溜まりに溜まったデスクワークをしながらぐるぐると考えていた。
「亜子ちゃん旅費精算まだ?」
「げっ!ごめんなさい今やってるのですぐ出します~」
経理担当の藤原紗也香が亜子の机まで催促にやって来た。
いつもより何となく気合いが入ったような服を着ている紗也香を見て、亜子は電卓を叩きながら今日合コンですか?と質問した。
「そう!今回は堅実に都庁勤務なの~」
「え~!すごいじゃないですか私も誘って下さいよ~」
「亜子ちゃんまだ若いんだから後回しよ後回し!」
「いやいや3つしか違わないですから!」
亜子の反論を聞き流した紗也香は、空いている隣の椅子に腰かけ小声で亜子に耳打ちした。
「ね、ね、そんなことよりさ。亮平とえーたっていまだに仲悪いの?さっき久しぶりに爆弾落としてたからこっちまで緊張しちゃったよ~」
「そうなんですよ~…。私もあんまり突っ込んだこと聞けなくて……」
「亮平ふだんは良い子なのにね~えーたが絡むとホント怖いよね」
「そうなんですよぉ~!」
亜子は泣き真似をしながら出来上がった書類を紗也香に手渡す。
旅費精算の締めは二日後なのにおかしいなと思ったが、この話がしたかったのかと合点がいった。
「子供の頃は仲良かったって話は私も聞いた事あるけどねー」
「うーん…」
「社長か遠藤さんに聞いてみたら?」
「う~ん……」
受け取った書類に不備がないかを確認しながら、紗也香がまた小声でささやいた。
「それか黒川さん」
「え、」
事務所の一番奥に座る黒川理香。
12年前の創業当時からいる、ベテランの事務員だ。
細い銀縁のメガネは流行りのものではないが決して古臭くなく、つるんとしたシルエットのボブヘアは手入れが行き届いていて艶がある。すらりとしたスタイルも、身長の低い亜子にはとても眩しく映る。
他の女性社員達の談笑に加わることもせずいつも黙々と仕事をしているため、理香に対して近寄りがたい人だという印象を持っている者は多い。実際、社長のお抱えじゃないかという噂もあるくらいだ。噂の真相は、誰も知らないけれど。
「あの人なら最初っからいるから何か知ってんじゃない?」
「え~…紗也香さん聞いて下さいよ…」
「やだよー私あの人と世間話したことないもん!じゃ、書類もらってくね。何か聞いたら教えてね~」
「あ!も~…」
紗也香は素早く自分の席に戻っていった。
都庁勤務のいい人がいたら繋げてもらおう。とりあえずそれを決めて、亜子も仕事に戻った。
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