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第2話 亮平の過去-2

―22:40。 雑務というのはどうしてこうもやる気が起きないのだろう。 社内に一人残っていた亜子は、ぐぐっと伸びをしながら深呼吸を繰り返した。 「は~…。疲れた……」 背もたれに体をあずけ、思いっきり背を反らす。 世界を上下反対に見ていると、ドアの向こうにゆらりと人影が映った。 見覚えのあるそのシルエットに、身体を起こして声をかける。 「黒川さん?」 「あ、お疲れ様です」 やはりその影の主は黒川理香だった。 鮮やかなターコイズブルーのニットに細身の白パンツ。ピンクベージュのエナメルパンプスが元々いいスタイルをさらに良く見せている。 黒いバレエシューズに黒いツインニット、パンツスーツのボトムを着ている自分は、絶対に芸能事務所の社員には見えないだろうなと亜子は少し恥ずかしくなった。 「忘れものですか?」 足早に自分のデスクへ向かう理香にそう問いかける。 「はい、お財布を忘れてしまって」 いつもきっちりして仕事も完璧な理香でも忘れものをする時があるのかと、少し親近感を持った。亜子のそれに比べたら、頻度は天と地ほどの差があるだろうけど。 「ご飯してたんですか?」 「ええ、パージナで」 「あぁ!あそこパスタ美味しいですよね」 「はい、パスタもワインも美味しかったです」 淡々とでも愛想よく質問に答える理香に、亜子は今なら聞けるかもしれないと思い勇気を出して問いかけた。 「あの、黒川さん」 「?はい」 「……亮平とえーたがなんであんなふうなのか、何か知ってたら教えてほしいんですけど」 聞きながら、思わず立ち上がっていた。 自分が彼の仕事をハンドリングして行くなら、本人のことを知りたいと思うのは悪い事ではない。そう思っている亜子に対して、理香は穏やかな表情を崩さずに、けれどしっかりと意思を持って言った。 「……マネージャーが本人に聞けないことを、どうして他人の私があなたに話すと思うんですか?」 「………え、と」 「遅くまでお疲れ様です。お先にすみません、失礼します」 最後にふわりと笑みをうかべて、理香は帰って行った。 一語一句がその通りすぎてぐうの音も出ず、亜子は挨拶も出来ずただ顔を赤くするしかなかった。 「うっひゃ~!!マジで?!さっすが黒川嬢。サクッと教えてくれればいいじゃんね~!?」 翌朝給湯室で紗也香に昨夜のことを話すと、いかにも楽しげなリアクションで声を上げ亜子の肩をぱしぱしと叩いた。ゴシップ好きの紗也香には、これもネタのひとつでしかないだろう。 「もう私恥ずかしくって泣きそうでしたよ~…。ちゃんと亮平に向き合って聞いてみます…」 「亜子ちゃんはマジメだねえ。きっと亮平も話してくれるよ、頑張って!」 「はい……」 今日は別の担当モデルの仕事が入っているが、明日は朝4時に亮平を迎えに行って付きっきりで撮影がある。 善は急げ? 思い立ったが吉日? 決心を固めて、亜子はその日早々に帰宅し翌日に備えて午後10時にはベッドに入った。 ◇ 「はよーございま~す……」 「おはよう。電話一発で出てくるなんて偉いじゃん」 「たまにはね~ふあぁ…」 会社所有のミニバンの後部座席に亮平がのそのそと乗り込み、亜子がその扉を閉めて運転席に座る。まだまだ業界の中では小さい会社である。経費削減のため、遠方の撮影でもそのほとんどが車移動だ。 「シートベルト」 「あい」 カチャリとシートベルトを閉める音を確認して、ゆっくりとアクセルを踏む。 肌寒さはまだ続いているが、春はもうすぐそこまで来ている。 朝4時の明るさを見て、亜子はそんな季節の流れを感じた。 「あ、ごめんちょっと話したいんだけど」 「は?」 亮平が鞄の中から真っ白のヘッドフォンを出しているのがバックミラーから見えて、亜子は慌ててそれを阻止した。 「怒らないで話して欲しいんだけどさ」 「なに?俺別に悪いことしてねーよ」 「そうじゃなくて。何でえーたのこと嫌いなのか教えて欲しいんだ」 亮平は驚いた顔をし、そしてぐっと唇を結んだ。 これから仕事だと言うのに、彼のテンションを下げるようなことを聞くのはマネージャーとして失格だ。分かっていながらもそうする愚直な自分の性格を申し訳ないと思いながら、質問をぶつけた。 「……何でそんなこと言わなきゃいけないの」 バックミラーごしに亜子を睨みつけながら、亮平がぶっきらぼうに言い放つ。 「私はあなたのマネージャーよ。あなたのこと知りたいって思うし、それがどんな地雷でもトラウマでも、本人にちゃんと聞かなきゃってようやく気付いたの。それに、知らない間はずっとなんで?って聞き続けるよ、これからもずっと」 「事務所の誰かに聞きゃいいじゃん遠藤さんなら多分知ってるよ」 「私は亮平の口から聞きたいの。ここで信頼関係作れないまま他人に聞くなんてありえない」 これは理香の受け売り。大人はこういうずるい手も使うのだ。 「……ちっ。1回しか言わねーからな」 「うん」 観念したように、亮平は大げさな舌打ちと溜め息を漏らす。 まずは第一関門クリアだ。 ハンドルを握り直してちらりとバックミラーから亮平を見ると、彼はブランケットにくるまって流れる景色を見つめていた。 「昔は……。昔っつっても大昔だけど。小4くらいまではフツーに仲良かったよ。同期だし歳もいっこ違うだけだったし」 「うん」 「うち小5のとき親が離婚してんだけど」 「うん」 それは亮平の担当になるときに前任者から聞いていた。担当が未成年の場合は、親の直通の電話番号も必ず携帯に登録しておかなければならない決まりがあるからだ。亜子の社用携帯には、亮平の父親の番号は入っていない。 「んで……。……あ~もう!何から話しゃいいかわかんねー」 物事を順序立てて話をするというのは、大人でもなかなか難しい。 まだ高校生で、しかも自分が話したくない話題といったら尚更だろう。 「サービスエリア寄ろっか」 「ん、コーヒー飲みたい」 「了解」 元々ここへは寄るつもりだったが、結果的に亮平への助け舟のようになった。 亜子は亮平のためのカフェラテと、自分用のアメリカンコーヒーを1つ買い、再びミニバンを静かに走らせた。 「行くよー」 「んー」 「……」 「……はぁ、んで」 「お、ありがとう」 亮平への助け船ということはつまり、話の腰を折ってしまったということ。 静かな車内の中どう切り出そうか考えていた亜子の先手を打って、亮平が話し始めた。 「……小5のとき親が離婚したんだけど、養育費?とかもらえなかったらしくて、一気に貧乏になったの。んで母親が昼も夜も働くようになって、俺はこの仕事辞めたくなかったから、送迎いらねえっつって一人で電車乗って仕事行ったりしだして」 「うん」 そう言えば、亮平が出す交通費精算の書類が間違っていたことは今まで一度もない。亜子は、それは彼の几帳面な性格に由来していると思っていたが、多分そうではない。きっと、その書類を書くことに誰よりも慣れていただけだ。 まだ小学生の子供が一人で現場へ行く姿を想像して、亜子は肺の奥がきゅっと痛むのを感じた。 「その頃から、それまでとは景色が違って見えるようになった。他人の目っていうか、それまで気になんなかったことがすごく見えるようになって、毎日毎日イライラしてた。してたっつーか今もしてるけど。えーたのこと嫌いになったのもその頃から。あいつ、なんつーか温室育ちって感じしねえ?」 「温室?」 プライドの高い亮平が、他人の無責任な憐みの目に反発するのも頷ける。亮平のトゲの部分が、少しだけ見えた気がした。 「そ、温室。なーんも悩みなさそうじゃん?人にも環境にも恵まれててさ。中学に上がって俺は学校より仕事優先にして、金稼ごうって決めたの。当時のマネージャーが学校行けって言う人だったからめっちゃ喧嘩して社長に担当変えてくれって直談判したりしてさ」 「え…」 「亜子さんのことはそんなん言わないから大丈夫」 「よかったありがと…」 思わず安堵の声が出た亜子を見て、亮平は小さく笑った。 もう二度と転職活動はしたくないというのが、亜子の本音である。 「でもあいつは学業優先で放課後とか土日に集中して仕事やるスタイルだったんだよ」 「あ、中学のときからそうなんだ」 「そ。だから所詮金持ちの道楽じゃんってムカついたの」 「そんなこと……」 「ちょっと時間あるからヒマつぶしにモデルやろーなんて甘っちょろい考えの奴を友達とか仲間とか思う必要ないっしょ?ホンット早く飽きて辞めてくんねーかなって事務所で顔見るたびに思ってるよ。それかオヤジんとこの事務所に入りゃいいじゃんな。中途半端に自立してますみたいな感じも余計ムカつく」 その部分だけ立て板に水という感じでぺらぺらと話す亮平は、少し怖かった。 他人に対して、馬が合わないとか苦手だなと感じることはあっても、こんなに純粋に悪意を持つような相手に亜子は出会ったことがない。 「………亮平、あんたそれ本気で思ってんの?」 思わず声が低くなってしまったのを敏感に感じたのか、亮平は「知らね」と言って唇をツンと突き出した。こういう仕草をするところは、まだ子供なのに。高校生というのは、本当に成長の狭間なのだなぁと亜子は頭の片隅で思った。 「……話してくれてありがと。あと20分くらいで着くから寝ないでね」 「へーい」 すっかりぬるくなってしまったブラックコーヒーをひとくち飲んで、亜子は亮平から意識を離し前方の高速出口に集中した。 ◇ 「で、お前はどうしたいわけ?」 翌日21時半。 残業していた遠藤を小会議室まで呼び出し、亜子は亮平の話をした。遠藤は無表情で黙って話を聞いていたが、そのふてぶてしさは亜子が遠藤を好きになれない理由のひとつである。 「どうって…決まってるじゃないですか、仲直りさせたいんです。亮平は完ペキにえーたのこと勘違いしてます。遠藤さんだってそう思いません?誤解を解いてあげたらまた昔みたいに……」 「バッカじゃねーの。0点」 話の途中で盛大なため息をかぶせ、遠藤はそう言い捨てた。 「バッ……。何がですか!誤解して嫌い合ってるなんて無意味だと思いませんか?!」 「お前が亮平のこと何も分かってないのか分かろうとしてないのか分からないほどバカなのかはどうでもいいけどさ」 「……」 遠藤が黒のコットンジャケットのポケットからマルボロのブラックメンソールエッジの箱を取り出す。男のくせにタール1mgの煙草を吸うところも気に入らない。そもそも会議室は禁煙だ。机に置かれた黒い箱に目線を落として、亜子は眉間のしわを隠した。 「あいつだってまだガキなんだから藁人形作らんとやってられないこともあるだろうよ」 「藁人形?」 「そもそも今仲直りさせることに何のメリットがあんだよ」 亜子の質問を軽くスルーした遠藤に逆に質問される。亜子は当然のように言った。 「そりゃ喧嘩してるより仲良い方がいいじゃないですか」 「それがバカだっつってんの。お前はあいつの親か?学校の教師か?親戚のババアか」 「違いますけど!!遠藤さんだって今言ったじゃないですかあの子たちまだ若いんですよ!そういうところも見てあげなきゃって思わないんですか?!」 小馬鹿にしたような物言いに、つい亜子の口調がキツくなっても遠藤は相変わらず顔色ひとつ変えない。 「思わないね。むしろ今の状態の方が将来的に良い方向に行くと思ってる」 「良い方向って?」 「稼げる方向ってこと」 「……!」 信じられないといった顔をした亜子を見ながら、遠藤は煙草をくゆらせる。 「当たり前だろボランティアでやってんじゃないんだから。あいつらは商品。俺たちはその商品を使って儲ける。じゃないとおまんま食い上げだ。そうだろ?俺何か間違ったこと言ってるか?」 その上から目線の根拠はどこから来るのか。 年齢も勤務歴も仕事の出来も何もかも負けているから当然といえば当然なのだけど、それでも亜子は遠藤にこうして諭されるように注意を受けるのが本当に嫌いだった。 「~~~~全部っ!ぜんぶ全部間違ってると思います!!!」 亮平のことを言えないくらい子供っぽいな。自覚をしながらも亜子は声を張り上げて反論し、会議室の扉を力いっぱい閉めて出て行った。 「……ったく」 遠藤は煙草を一度深く吸い込み、携帯灰皿にざっと押し付け火を消した。

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