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おまけ

「──……え?」  放たれた言葉を理解できなかった。否、頭が考えを拒否したのかもしれない。 「隆司(りゅうじ)も男だからな。まぁ、ほどほどにさせろよ、風俗も」  サラダの上で箸を止めたまま瞠目して固まった一磨(かずま)を訝しがり、直行の後輩であり同期でもある菊池(きくち)はジョッキを口に付けて眉間にシワを寄せた。 「何を今さら。あいつも、いつまでも子供じゃないだろ」  だからお前はいい加減に子離れしろ、と暗に示される。いつぞやの飲みで話に出たことだろう。開放されろとも言われた。長年付き合っていた彼女と無事に籍を入れることを果たした彼から、若干まどろんだ目を向けられる。 「……あ、あぁ、う、うん」  バケツ一杯どころか、ダム一杯の氷水に打たれた気分だった。ほどよい酔いも一気に吹き飛ぶ。体温が失われて握ったグラスの感覚も無い。  大方、保護者から子供は離れていくのだと言いたかったのだろう。丁度見つけた隆司の行いを織り交ぜながら、自分の今後を考えてもいい頃だと促してくれたに違いない。菊池は思いやりがある。彼が自分のことを危惧してくれていることも重々承知。  そう言われれば、ここの所帰りが遅かった。もしくは、夜に用事があると出て行った時もあった。  隆司が、息子が、恋人……だと一磨は思っているが、そうか。彼女が居たこともあったし、彼は自分と同じではない。身体は重ねるが、それがイコールであるとは限らない。女性がいい時もあるだろう。まず浮気だと、彼を問いただす自信すらもない。それに──。 「おい、真っ青だぞ?」 「……ちょっと、酔ったみたい。トイレ行ってくる」  導き出した考えに、吐き気とめまいを覚えた一磨は席を立った。 「──い。おい、聞いてたか?」 「……ぇ?」 「やっぱりな」  ひとつ息をついて、隆司は一磨が手にしていたマグカップを取り上げる。 「こぼれる」  いつの間にかソファの近くに立っていた、その高い背をぼんやると見上げる。  あの菊池との飲みの後も、振り払おうとしてもずっと頭から離れなかった。やはり、おままごとのような家族ごっこに付き合ってくれているだけなのだろうか。彼はやさしい。徐々に慣れてきていたはずの左手のリングが、ズッシリとした重さで存在感を知らしめる。 「……あ、ごめん」  遅れて反応した一磨に渋面を作って隆司は手を伸ばしてくる。ぬくもりを与えてくれる指先は迷いがない。包まれてうれしいはずなのに、同時に他の誰かの後なのかもしれないと考えると、理由も解らず泣きたくなる。 「何だ、言ってみろ。聞いてやる」 「っな、なんでも……」  顔を背けようとしても、痛くない程度に捕らわれて叶わない。  なぜ、易々とばれるのだろう。 「いい加減に、あんたは俺に甘えろ。それとも信用するに値しないのか?」 「っちがっ! 俺が──」  急いで声を上げれば、したり顔に虚を衝かれる。 「吐け」  とろけるような微笑と有無を言わせない雰囲気で端的に促されて、一度は噤んだ口をまるで子供のようにたどたどしく言葉を紡ぐ。 「……お、俺は……汚いから、隆司がすることには言えない、よ……」 「汚いか綺麗かどうかはともかく、あんたの基準は全く当てにならない。世の中の人間がみんな、あんたが考えているような成人君主だと思ったら大間違いだぞ。あれか? この前使った薔薇のローショ……ぶ」 「っちっがう!」  噎せ返るような臭いと共に火照りを思い出した身体を振り切るようにして、相手の言葉を遮る。  どうやら隆司の友人である聡志(さとし)経由で流れてきたらしい潤滑剤に含まれていたのは、ニオイだけではなく欲望を焚(た)きつける怪しげな作用の物質も入っていたらしい。おかげでしばらく満足に立てなかったし、声も枯れ果てた。 「じゃあ、何だ」  口を塞いだはずの掌を捕まれ、逆に口付けられる。視線はヒタリと向けられた、そのままに。逃れるように、手から力が抜ける。 「…………通ってるって、風俗」 「は?」  ポツリと漏らせば、あふれ出して止まらなくなった。 「硬い男よりも、やわらかい女の人の方が、いいだろうし……隆司がソッチの方がいい、って言えば、俺……それに、恋人かとか付き合ってるかとかも、何か全部解んなくなって……」  年甲斐も無く濡れ始める視線を床に向けて、言葉尻は消えていく。 「あんたはソレでいいのか? 俺があんた以外に靡(なび)いて、あんたを捨てても」  にじむ視界を瞑って微かに首を振る。 「……っ、でも、」 「でもも、クソもないだろ。いい加減に俺を信用しろ、本当に張り倒すぞ。何年あんただけを見ていたと思う。今もこれからも、あんたしか愛を囁くつもりはない。大体、どこからの情報だ」  言い切られて、ホッとしたのが半分、再び疑心暗鬼に駆られたのが半分。ちいさな不安の芽はむくむくと成長する。成長しないのは自分だ。一緒に居るだけで満足だったのに、どんどん欲が深くなっていく。 「……菊池」 「あンのクソジジイ。」  隆司の唸りを耳にしつつ、一磨は生贄にしてしまった心やさしい友人に人知れず静かに手を合わせた。今度なにか奢らなくては。 「──紛らわしいことをした俺も悪い、か」  呟いて、次いでひどく嬉しそうな声を拾う。上等、と頭を撫でられる。 「嫉妬したんだろ。それだけ、あんたが俺に溺れてるって事だろう」  目を瞬かせて、一瞬真っ白になった頭が回転しだす。  ──ヤキモチ。  浮かんだ言葉に、遅れて顔が火照る。  それ以前に、捨てられるかと思ったのに。親も、芹沢夫婦も居らず、自分には隆司だけしかいないのに。  包まれた腕の中から抜け出そうと必死にもがけば、ポツリと漏らされる呟きに固まる。 「よかった。あんたにも一応、そんな人間らしい感情があったか」  どういう意味だ。  かなり失礼なことを言われている自覚はあるものの、どう反応したらいいのかが解らない。 「もっと欲張れ」  まるで聞き分けの無い子供に諭すように──内容は全く逆であるが。 「俺を欲しがれ」 「……これ以上欲しがったら、バチが当たるよ」  徐々に落ち着いてきた精神と、年のためか暴れ疲れて息が上がった身体を持て余した。  会わせたい女がいる。  要点を絞った隆司はそう口火を切った。あんたが会いたくなければ、無理強いはしない、とも。 「……シホ、さん?」  話は聞いていたが、実物を目の前にして一磨はこれ以上ないくらい目を見開いた。カラカラに乾いた喉から、よく搾り出したと思う。 「かず、ま……。美人に、なったよ」  自分同様、瞠目した彼女はそれからすぐに顔を歪めた。  お久しぶり。美人って男にどうなの? 言いたいことは山のようにあるはずなのに。  以前のド派手な安っぽい衣装と化粧から一変、着物に疎い自分にも解るほどの仕立てのよい深い色の絞り染め、キッチリと結い上げられた髪、鮮やかに彩られ施された化粧。一見して上品な和服美人。しかし、怒涛の中でそれでも逸れない一本気な強いやさしい目は、あの頃と変わらない。 「……あ、すみませんでした。この前は留守をしていて……」  思い出して、頭を下げる。無駄足をさせた上、しばらく連絡もしなかった。できなかった、という方が正しいが。 「あんたが謝ることじゃあない。勝手に押し掛けて、むしろ謝るのはコッチの方だ」  母親の数少ない知人でもあり、幼い頃食事の調達すらできなかった自分へ食物を与えてくれた人。当時彼女も自分のことで精一杯だったはずなのに。そして──年末、病気でほとんど前後不覚に陥っていた母と共にこのマンションに訪れた人。隆司が追い返したときは、シホに繋がる名刺や連絡先などは特別受け取らなかったという。しかし年始に自分と話を重ねたことを経て思い直し、星の数ほどある風俗を訪ねて見つけ出してくれた。 「この子が来た時は驚いたよ。もう大丈夫だと思うから、会ってやってくれないかって」  柱に背を預けて静かに動向を見守っていた隆司を示し、シホは目尻のシワを深くした。  菊池が目撃したのは、丁度その時だったらしい。あながち間違いではないが、店の女の子の元に通っているのだと勘違いしたのだろう。  見上げた一磨の視線に気付いた彼は不機嫌そうに渋面を作って、そっぽを向いてしまう。  シホからしたら母も、自分も『あの子』になるのだ。当然、さらに十歳下の隆司も『この子』になる。彼はどうやらそれがとても不服らしい。あとは、若干照れてもいるのだろう。実はシホが訪れる前、席を外そうかと提案してくれたが隆司が嫌でなければ一緒に聞いて欲しいと彼に願い、聞き入れてくれたやさしさに一度は疑ってしまった自分を恥じた。 「──『どこ』から話そうか」  どこ、から。  長い年月を経て、様々なことがありすぎた。 「あの子は知っていたよ、実は。全部が嘘くさく聞こえるだろうけど、ココに来る予定も無かった」 「……え、」  年末に来た、と。  視線を受けて、シホは苦笑する。 「前っからココに居ることも、あんたが定職に就いたことも、知人の子を引き取ったのも、知っていた」 「……う、そ」  てっきり彼女には、自分は興味を持たない事柄だと思っていた。 「あたしらの仕事は人様に言えるモノじゃないから、特に就職できたってのは自分のことのように喜んでいたよ。──だから、余計に会う気はなかった。それが揺らいじまったのは、たぶん自分で死期が近いのを感じ取ったんだろうね。急に『あの子に会いに行く』って言い出してね。止めても聞きやしなくて、あたしが一緒に付いて行くってぇのを承諾させた」  伝え聞いた話では、彼女の病気はかなり進行していたらしい。朦朧とした意識の中で、何故自分であったのだろう。 「あんたから見たら、母親は周りに流されてどうしようもないオンナだっただろうよ。事実でもある。でも、あの子にも曲げられないモノはあったんだよ」  しなやかな指で湯飲みを持ったシホは、そっと息を吹きかける。 「不思議に思ったことはなかったかい? あれだけオトコに開いていた身体だ。あんたにキョウダイが居ないのを」 「……それ、は」  今なら、さまざまな医療が発達している。望まぬ妊娠を無かったことにする技術もある。だが、当時はそれほど周知されていないし第一莫大な資金もかかる。 「知っているかい? この国はオトコにはやさしいが、オンナには特にやさしくないんだよ」  諦めるように嘲笑うように上げた口角は、湯飲みに隠される。  知っている。  たとえば勃起不全治療薬の国の認可は数年で下りたが、経口避妊薬はその倍以上の時間が掛かったのも事実。 「男女平等とは言われつつ、オトコに比べれば力も社会的地位も、何もかも弱いオンナが身を守れる武器ってぇのは少ない」  言わんとしていることに、やっと気付いて一磨は固まる。  そうだ。  自分の記憶が正しければオトコたちは皆、不妊対策をしていなかった。それを回避するためには、彼女は何をした? 経口避妊薬、キャップ、手術……。 「あの子が産んだのは先にも後にも一磨、あんただけ」  男である自分には気づかなかった部分を、ガツンと殴られたようだ。 「いつだったか、ね。『好きな人がいる』って、まるで初心(うぶ)な女の子みたいにね頬を染めて、恥ずかしそうに話してくれたことがあってね。それからだよ、身籠もったのが発覚したのは。降ろせって言われて、殴られて、蹴られて、そりゃあひどかったよ」  幼かったとはいえ男である一磨にも、刃物や火だねを当てたりと様々なことをした彼らだ。母という人にした愚行の数々は、想像を越えるほど非道いものなのだろう。  疼く古傷に、腕を握る。 「──でも。その中でも、あんたは耐えて、あの子は産んだ」  蘇る、一枚の古ぼけた写真。  ぎこちない表情の少女。  揺れる、視界。ぶれる思考に、まるで切り離された空間に放り出されたよう。  引き止める、あたたかさに顔を上げる。 「……りゅぅ、じ」 「あんた、一体」  唸り声を上げる隆司を物ともせず、凜とした声でシホは続ける。 「あたしは事実しか伝えていない。どこでお綺麗に湾曲されようが、結局は一緒さ。たとえ這いつくばっていたとしても、生きているんだ」  生きて、いる。  生かされている。母に、シホに、芹沢夫妻に、隆司に、周囲の人たちに。 「一磨、あんたはあの子の、たったひとつだったんだよ」  どこかで、聞いた。  瞠目して、気付いてすぐ近くの高い背を見上げれば、一磨同様に目を見開いていた隆司の姿が。以前話してくれたのは、彼が導き出してくれた偶然の産物であったらしい。  彼女は静かに微笑んで、そしてすこしモノ悲しそうに眉を寄せる。 「あの子は運が悪かった。──ただ、それだけ。あんたにあの子の分まで生きろとか、そんな酷なことは言えない。自分の道を開きなさい」 「……隆司、ありがとう」 「何もしていない」  シホが帰った後、静まり返ったリビングで声を掛ければ機嫌悪そうに返事を投げられる。 「どうしたの? っうわっ!?」  つかつかと寄ってきて、その腕に引き寄せられる。 「何も、できない」 「そんなことないよ。今日、シホさんと話が出来たのは隆司のおかげ。大切なモノを教えてもらったよ」 「あんたは、望まれて産まれて、望まれて俺の所に居るんだろ」 「──そう、だね」  肯定的に考えられるようになったのは、二人のおかげ。 『一磨。あんた今、幸せかい?』  帰り際、返事を聞いたシホは魅惑的に目を細めた。 『──そう。それなら、あたしは何も言うことないよ。もう、あんたは「コッチ」の世界に来ちゃいけない。解ったね』  まぁ、店の女の子が誘ってもちっとも靡きゃしない、いいオトコを捕まえたんだろ。  そういって扉の向こうで振られた手に、前を向けと示された。

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