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前編

    『桜色ノスタルジア』 「――ああ、もうそんな時季か」  渡り廊下を歩きながら目に飛び込んできた裏庭の景色に、我知らずフと、そんな呟きが洩れた。  つと足を止めた俺の視線の先に映るのは、見事なまでに咲きほころんだ満開の花々を枝一杯に抱えている、一本の桜の樹。  毎年、桜の季節になると……いつだって思い出してしまう。――のことを。 「そっか……そうだよな、もう四月だもんな、入学式も目前だしな、そら桜も咲くよな……」  ――あれから、もう三年…いや、四年、経った、か……? 「それでも忘れられないとか……いい加減、俺もどうかしてんだろ……」  自嘲じみた呟きが、吐く息と共に、日が傾きかけた裏庭の暗く冷たい空気の中に融ける。 「これが“未練”ってヤツだとすれば……結局、イカレてたのは俺の方、ってことに、なるのかもな……」  独りごちた、そんな俺の脇を擦り抜けていくように渡り廊下を走り去る、数人の女子生徒の群れ。  去り際に投げられた「せんせー、さよならー」という声に、ひらりと手を振って返しながら。  ようやく俺も、その場から歩き出す。  そう……あれは、まだ寒さの残る三月、卒業式を目前にした時季だった。  あの日も、桜が咲いていた―――。 「――真木(まき)先生、相談に乗って欲しいことがあるんです……できれば、二人きりで……」  声を潜め、いつになく真剣な表情でそんなことを頼んできたのは、俺が副担任をしているクラスの男子生徒――安積(あづみ) (れん)。  その普段らしからぬ姿に、驚きのあまり、手にした煙草を取り落しそうになってしまった。  なぜなら普段の彼は、俺のことなんか教師だとカケラも思っていない――というよりはむしろ、数いる友人の一人、程度にしか思っていないんじゃないか、とまでこちらが邪推してしまうほどに、くだけた態度で接してくるのが当たり前だったから。何度注意しても俺を『マキちゃん』と呼ぶのを()めないし、そもそも敬語だって使われたことも無い。だというのに、馴れ馴れしい、と感じてしまうほど不快な気分には、どうしたってなれない、そこは安積の人柄の為せる業なのだろう。誰に対しても屈託なく、それゆえに誰からも好かれてしまう、そんな彼を俺も、仕方がない奴だと眉を顰めながらも好ましく思っていたことは否めない。  だからこそ、俺を『先生』と呼び、持前の人好きのする笑顔さえも隠し、敬語までも使って、こうやって頼みごとをしにきた、そんな安積の様相を訝しまない方がおかしいだろう。  しかも、時期が時期だ。  受験も終わって進路も決定し、あとは目前に迫った卒業式を迎えるだけ、という、こんな時期に……もはや卒業式当日まで登校する必要も無い三年生である安積が、こうしてわざわざ学校へ来てまで、しかも、よりにもよって『先生』とすら認めていなかったであろう俺相手に、何を相談したいことがあるというのか。  その真意が読めなくて、ただただ訝しいばかりでしかない。  かといって、それをそのまま表情に出してしまうのは、まがりなりにも大人として恥ずかしいと、何とか必死に平静を装う。  そして、思い出したように手の中の煙草を灰皿に押し潰すと。改めて俺も彼へと向き直った。 「それじゃあ……進路指導室にでも行くか」  もう放課後ではあるが、この時期が時期だけに、使われていることも無いだろう。そう考えて提案したのだったが、安積はふるふると首を横に振って応える。 「進路の相談じゃ、ないから……」 「そら分かってるよ」  この安積当人が、大学合格の報せを、わざわざ俺のところにまで満面笑顔で持ち込んできたことは、まだ記憶にも新しい。 「別に、進路指導室では進路のことしか話しちゃいけない、ってワケでもないだろ……」  言いかけた俺の言葉を遮ろうとでもするように、ふいに安積の手が動き、俺の上着の袖口を軽く引っ張る。 「誰にも、聞かれたくない、から……」  俯き、そう言い募る安積の旋毛(つむじ)を見下ろして俺は、我知らずふーっとタメ息を吐いていた。  ――どうやら厄介そうだな……。  進路指導室は、実際のところ部屋ではなく、進路関連の資料が集められている部屋の一角に設けられている。資料室の隅をパーティションで区切って机と椅子を置いただけの簡素なものだ。ゆえに、小声で話してもパーティション越しに会話は筒抜けだし、そもそも誰もが閲覧可能な資料室のため、生徒の立ち入りも自由で、常に開放されている。  こんな、いつ誰が来るかもわからない、誰に聞かれているかもわからない、なんていう場所では安心して相談も出来ない、ということを言いたいのであれば……その相談事とやらの重みが知れるではないか。 「そうはいってもなあ……そんな厳重に二人だけになれる場所なんて、急に言われても……」  心当たりを探している風を装いながら、学校内にそんな場所があるなら俺の方が籠もりたいくらいだ、誰にも見つからず空き時間に昼寝し放題じゃん、などと内心どうでもいいことを考えてしまった俺の袖口を、再びくいっと安積が引っ張る。  続いて彼が指差した方向を見て、ああナルホドと合点がいった。  今の今まで煙草を吸っていた職員室のベランダが面するグラウンドの向こう、古いプレハブの建物が見えている。  あれは、旧美術室だった建物だ。数年前に校舎の建て替えがされるまで使われていたらしい。新校舎に美術室の移転が済んだ後は、現在に至るまで、それは物置として使われている。確かにあそこなら、常に施錠もされているし、やたらと人が立ち入ることも無いだろう。 「わかった。じゃあ鍵を持っていくから、先に行って待っててくれ」  ひとつ頷くと踵を返し、職員室を通らず外から直接ベランダに居る俺のもとへと来た安積は、そのままグラウンドの端を横切って目的のプレハブへと歩いて行った。  その後ろ姿を見送りながら、やはり知らず知らずのうちにタメ息を吐いて。  まずは鍵を取りにいかなくては、と、灰皿を手にして職員室の中へと戻ったのだった。  久々に人が入ったであろう目的の旧美術室は、染み付いた油絵の具の臭いが未だ微かに残っていた。それが、かなりの埃っぽさ黴臭さと相まって、迎え入れるかのごとく俺たちを包み込む。 「…少し換気するか」  鍵を開けて一歩室内に踏み入るや眉をしかめた俺は、そのまま室内を横切って、出入口とは反対側にある窓へと向かう。物置らしく室内は物で溢れ返っていたが、さすがに窓を遮るほどの量ではなかったのが幸いだ。  からからと音を立てて窓を開けると、途端、まだ少し冷たい風が吹き込んでくる。  と同時に、小さくひらひらとした何か白いものが、風に乗って俺の視界の端を舞うように横切っていった。  咄嗟に窓の向こうへと目を遣れば、すぐ近くに立派な桜の大樹が聳え立っている。 「ああ……そういえば今年は桜の開花が早いとか、TVなんかで云ってたっけ」  今まさに満開の盛りを迎えんとしているその樹が、そよそよとした風に小枝を揺らされて、ひらひらと白い花びらを舞い散らしていた。 「桜に見送られて卒業式を迎えられるなんて、最高の門出だな。――よかったなあ、おまえらラッキーだよ」  言いながら振り返った先には、未だ閉ざした出入口のあたりで所在なさげに立ち尽くしている、安積の姿。 「そんなところに突っ立ってないで、とりあえず座ろう」  そして窓から離れた俺は、積み上がっている物の中からパイプ椅子を見つけてくると、部屋の中央あたりの空いたスペースに二つ、それを広げて向かい合わせになるように並べた。  その一つに自分が腰を下ろし、おまえも座れともう一つの椅子を示してみせると、ようやく安積も、おずおずとそこに座ってくれた。 「…それで? わざわざ俺に『相談』って、何だよ?」  わざと直截に訊いてやる。――こういうことは、言葉をオブラートに包んでみたところで話なんか進まないからな。  それでも安積は、なかなか口を開かなかった。それほどに、彼にとって口に出しては言い辛いこと、なのかもしれない。  だが、「言えよ」と、冷たく突き放す口調には聞こえないよう殊更に気を遣って、俺は彼を促した。言ってもらわないことには、こちらだって何も出来ないのだから。 「話したいことがあるんじゃないのか? そのために俺を、こんなところまで連れてきたんだろう?」 「…………」 「俺も、真剣に聞くから……だから、おまえも話してくれ」  それでも返ってくる沈黙に。  これは先が長そうだと、諦めて俺は立ち上がった。 「―――好きな人が、いるんです……」  開け放したままだった窓を閉めようと、窓枠に手を掛けたと同時だった。  そんな蚊の鳴くような声が、背後から聞こえてきたのは。  思わず振り返っていた俺の視線を、こちらを向いた瞳が受け止める。  さっきまで俯いて口を閉ざしていた安積が、一転し俺を真っ直ぐに見つめていた。  相変わらず笑みすら無いその表情は、どこまでも真剣そのもので……そして、どことなく必死なふうにも、俺には見えていた。 「オレの、好きな人、は……男の人、なんです……」  続いて絞り出されたような、その言葉に。  での恋愛相談をしたかったのか、と、ようやく俺も腑に落ちた。  ――要は、自分はゲイなんじゃないか、と、悩んでいるワケか……。  どこまでも必死そうな当人には悪いが、思春期にありがちな悩みだ。  誰しも、同性に惹かれてしまう時期はある。それが一過性で終わるか継続するかが分かれ道だ。大抵の人間は、まだ世間ではマイノリティである性癖を受け容れることが出来ない。だからこそ、こうして第三者に相談してしまうのだろう。君は違うよ、と否定して欲しくて。それで、自分は大丈夫だ、と安心したくて。  ――まあ…稀に“逆”を望む人間も居るけどな……。  フッと軽く自嘲の笑みを洩らしつつ、改めて、目の前のコイツはどっちなんだろうな…と思った。  しかし、考えるまでも無い、こいつはの人間じゃない、と、早々に俺は決めつけた。  これまでの付き合いから、安積が好む女のタイプだって、俺は知っている。誰からも好かれるコイツは、当然のように女からも好かれていて、告白してきた相手と交際していた時期もあったようだ。なにせ、付き合ったカノジョ相手に童貞捨てた、なんていう要らん報告までしに来たからな。  そんな安積が、今さら男相手に転ぶハズも無いだろう。相手はどこの誰かまでは知ったこっちゃないし訊く気も無いが、こんなノンケにそんな錯覚をさせてしまうほどだ、よっぽどの男前だったのだろう。もしくは、逆に安積の方が、よっぽど弱っていたか、だ。ちょっと前まで心身ともに疲れるほど勉強しなきゃならない受験生だったのだから、それも考え得る話だ。 「あのな、安積……」  おまえのそれは勘違いだ、相手が悪かったと思って諦めろ、おまえを好いてくれてる女にでも目を向けてみれば分かることだ、――と。それを、如何に安積を傷付けないように言い含めたらいいものかと、頭の中で慎重に言葉を選びながら口に出そうとしたところ。 「先生、なんです……」  言いかけた俺を遮るようにして、きっぱりと力強い――なのに震える声が、それを告げた。 「真木先生が、オレの好きな人、です―――」  しばし、時が止まった――ように、俺には感じられていた。  咄嗟に耳を疑った。自分が今なにを言われたのか……聞こえていたのに理解が追い付かなかった。 「――なにを……馬鹿なことを……」  茫然とした頭で、それでも何とか言葉を紡ぎ出す。 「それは何かの勘違いだ安積……おまえは、ちゃんと女を抱けるだろ。だから、おまえはゲイじゃない。好き、なんて感情は、いわば気の迷いだ。たまには勘違いだって起こるさ。今は、学校なんていう小さな世界しか知らないから、その中で最も身近に居る人間が良く見えたりもしてしまう、ただそれだけのことだ。卒業して、もっと広い世界に飛び込んでいけば、そんなもの、すぐに忘れてしまう。大学生になったら、またおまえに告白してきた女でも抱いてみればいい、やっぱり自分は女じゃないとだめないんだ、って、すぐに、わかる……」  先刻まで考えていたことと、丸っきり逆のことをしている、という自覚はあった。  安積を傷付けぬ言葉で彼を諭そうとしていた筈が……今や言葉を選ぶ余裕すら、俺の中にはカケラも無かった。思っていたことが、思ったそのまま、言葉になって口から出てゆく。  それを、安積は黙って聞いていた。  告白を全否定されたことに激昂するでもなく、かといって悲しげな表情を浮かべるでも無く。相変わらず真剣な――なのにどこか無表情で、ただ淡々とした佇まいでもって、心無い言葉を吐く俺を真っ直ぐに見つめていただけだった。

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