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後編

      「…そんなところ、もうとっくに通り過ぎた」  やはり淡々と、その唇が、言葉を紡ぐ。 「わざわざ言われなくても知ってる。最初は気の迷いだと思って、ちゃんと試した。別に、女を抱けなくなったワケじゃなかった。――でも……最中に思い浮かぶのは、アンタだった」  すっと、そこで静かに安積は立ち上がる。  そうして同じ目線の高さから、改めて俺を真っ直ぐに――まさに射抜くような視線でもって、見据えてきた。 「アンタの面影を振り払おうとして女を抱いても、どうしても振り払えない。何度試しても、いつもいつもいつもいつも……考えてしまうことは、一つだけ。なんで今オレが抱いているのはアンタじゃないんだろう、って―――」  言いながら彼が、ゆっくりと足を前に進める。――未だ茫然と窓辺に立ち尽くしたままでいる、俺へと向かって。 「オレはね、先生……自分で考えて、もう自分の中に“答え”を出してる。もう選んでしまったんだ、の道をね。だから今さら、正論ぶった説教なんて、必要ない」  俺のすぐ目の前まで来て、彼が足を止めた。 「それに……そんな正論、――よりにもよって、アンタが言えんの……?」  近くなった距離から、また更にぐっと顔を寄せてこちらを覗き込む、その真っ直ぐな瞳から逃れられない。まるで視線に全身が絡め取られてしまったかのように、その場で硬直したまま動けない。  ――こんなの、俺の知ってるヤツじゃない……。  突然、目の前に立つ安積が、俺の知らない誰かに変わってしまったような……そんな錯覚を覚えた。  と同時に、ぞっと背筋を悪寒が走る。  俺の知っている安積は、いつもニコニコした笑顔を浮かべていて、まるで人懐っこい犬っころのように『マキちゃん』『マキちゃん』と纏わりついてきては、くだらない馬鹿話をしては笑い、ちょっとのことで拗ねたり怒ったりもして、その忙しなくコロコロ変わる表情に和まされる、そんな少年っぽさの抜けない男、だった筈だ。  なのに今は、そんな少年ぽさのカケラすら窺えない。十八歳という年齢相応――いや、それよりもずっと大人びた姿を見せる、一人の成熟した男が、そこに居る。  ――これは、誰だ……? 「あ、安積……」  かろうじて発した言葉は、言い終わる前に遮られた。――突然のキスによって。  驚きに目を瞠るが、相変わらず硬直したままの身体は、抵抗すら出来ない。目を見開いたまま俺は、茫然とその柔らかなぬくもりを、甘んじて受け入れているほかなかった。 「――オレ、知ってるんだよ。アンタのこと」  唇が離れてから、なのになお触れ合いそうになる距離を保ったままで、安積が呟く。 「アンタこそ、男とこういうこと出来る人だ、ってこと……オレは、知ってる」 「な、にを……」 「見たんだよ。アンタのこと、新宿で。――どっかの男と並んで歩いてた」 「――――!!」 「ずいぶん前のことだけど――夏休み…だったかな? 知らない男と一緒にいるアンタを見かけた。アンタは眼鏡かけてて、スーツでもなくて、髪形も何か違ってて、学校に居る時とは別人みたいだったけど……オレが『マキちゃん』を見間違えるハズが無いしね。だから気になって、アンタらをつけてった。それで、アンタが一緒にいた男と、連れ立ってホテルに入っていくところを、見た―――」 「―――やめろ……!!」  思わず怒鳴り付けるようにして、その言葉を止めていた。  だが、それだけだった。それ以上の言葉を、安積のそれを否定できる言葉を、俺は何一つとして持ってはいなかった。  ――なぜなら、それは“事実”であるから。  俺は、大抵の人間とは“逆”だった。  思春期にありがちな悩みを、俺は第三者に肯定してもらうことを選び、自らマイノリティの性癖を受容した。――の道を、とっくの昔から選んでしまっている人間なのだ。  それを誰かに打ち明けたことは無い。当然、これまで恋人がいたことも無い。ただ溜まっていく身体の欲を紛らわすためだけに、時々そういう場所に出かけては、一晩限りの相手を探す。そういう生活を、もうずっと続けてきた。  安積の言ったとおり……夏休みの終わる頃に一度、そういうこともあったっけな。久しぶりに足を向けた二丁目のバーで、適当な男を引っかけ、酔っ払った勢いでホテルになだれ込んだ。それを最後に、日々の忙しさにかまけて、以降そういう場所に赴くようなこともしていなかったし、まだ誰とも関係を持っていない。だから、忘れる筈も無い、未だよーく憶えてるさ。 「――俺を脅して、どうしようっていうんだ……?」  ともすれば震えそうになる声を、何とか抑え込んで、目の前の男に、それを投げる。 「それをバラされたくなければテメエに抱かれろ、とでも、言う気かよ……?」  しかし安積は、途端さも意外なことを聞いたとでも云うかの如く、目を円くして驚きを表情に浮かべた。 「そんな、脅すだなんて、オレは、ただ……!」 「ウルセエよ!!」  何か言いかけた彼を、やおら怒鳴り付けて制する。 「テメエがどういうつもりかなんて知らねえよ! 知ったこっちゃねえんだよ、こっちは!」  その勢いのまま、俺は手を伸ばし、目の前の彼の襟首をぐいっと力を籠めて掴み上げた。 「俺が同類なら、簡単に言うこと聞かせられるとでも思ったか? 生憎こちとら、ゲイである以前に教師なんだよ! 誰がわざわざ生徒なんかに手ェ出すかよ! どんなに溜まってようが飢えてようが、生徒にだけは絶対に手を出さない、出してたまるかっつの! それが俺の中の、俺自身で決めた、唯一絶対のルールだ! たとえ心底惚れ抜いた相手が生徒だったとしても、俺が絶対に、それを曲げることは無い!」  言うだけ言い切ってから、あたかも彼を突き飛ばさんとするかのごとく、襟首を掴んでいた手を力任せに振り払う。 「わかったら、あとは勝手にしろ安積。バラしたけりゃ、バラせ。そうすりゃ俺は、教師でいられなくなるかもしれないな。だが、そうなれば尚更、俺はおまえを選ばない。おまえの言いなりには、絶対に、ならない」  そして俺は足早に歩き出した。突き飛ばされるような形でよろけた安積の横を掠めるように、出入口へと向かって。 「――先生!」  引き戸に手が掛かったところで、背後からそんな声が飛んでくる。 「卒業式が終わったら、オレ、先生の……!!」  だが俺は、それを皆まで言わせなかった。ピシャリと殊更に大きな音を立てて扉を閉ざすことで、その言葉の続きから、背を向けた。  そして戻った職員室で……同僚の教師に、髪に載っていた花びらを指摘された。  そういえば…と思い出す。  風に散らされた桜の白い花びらは、あいつの肩にも載っていた。  俺が突き飛ばした勢いで、それが一片(ひとひら)ひらひらと床へと舞い落ちていくのを……ただ、見ていた。彼を傷付ける言葉を吐きながら、視線はただ、その様だけ、を―――。  ――その日のうちに、俺は退職願を出した。  歩きながら、手が勝手に煙草を求めて懐をまさぐる。  ――やめられねえモンだな……。  あの頃よりも、我ながら喫煙量が増えたと感じる。――誰の所為か、なんて、考えたくはないけれど。  結局、俺は逃げたのだ。  あいつの真っ直ぐさに向き合うのが怖くて……なによりも汚れきった自分自身の有り様が後ろめたくなって、咄嗟に逃げることしか選べなかった―――。  俺の退職願は、結果として無事に受理してもらえた。  急な申し出には驚かれたが、母が倒れたから実家に帰って面倒をみなければならない、という尤もらしい理由を付けたら、そういう事情があるなら仕方ないと斟酌してもらえたのだ。  そこに付け入り、どうしてもすぐに帰らなくてはならないだの何だとゴネては拝み倒し、もう目前だった卒業式に出席しなくてもいい理由までもを作った。  こうして、卒業式の当日になるまで、安積に――生徒の誰にすら知られること無く、ひっそりと俺は、学校を去った。  恙なく卒業式が済んだ頃には、俺はもう、使っていた携帯電話を解約して、それまで住んでいたアパートを引き払い、学校近隣の地区内からも消えていた。  だから、のちに俺のよろしくない噂が広がったかどうかまでは知らない――知ろうとも思わなかったし。  だが……頭の片隅のどこかでは、安積ならばそんなことしないだろう、なんていう、どこか信頼にも似た想いがあったことは確かだ。たとえ彼が、その信頼に反した行動を取っていたとしても、彼を責めるつもりも恨みに思う気持ちも、もとより無い。  いずれにせよ、住むところも電話番号もメールアドレスもLINEのIDも、何もかもを全て変えて、俺は新しい暮らしを始めることを選んだのだ。――安積から遠く離れた場所で、一人で。  退職後しばらくは失業手当と単発バイトで食い繋いでいたが、やがて私立女子高の産休代理教師としての職にありつくことができた。それが運良く、契約期間が過ぎた後も継続雇用してもらえることになって、現在に至っている。  さすが女子高ともなれば、きゃいきゃい無駄にウルサイだけの小娘どもに纏わり付かれて煩わしい、と思うことは多々あれ。  それでも、俺は今の生活を、わりと気に入っている。――男と喫煙者に優しくない環境だけは、如何ともしがたいところではあるがな。  懐をまさぐっていた手が煙草の空き箱を探し当てた。 「あー……そういや買っとくの忘れてた……」  チッと軽く舌打ちをして、ぐしゃりと握り潰した空き箱を、再び懐へ戻す。  それと同時、ふいに前方から声が掛かった。 「お探しものはコレかな? ―――」  ―――え……?  耳を打つ懐かしさに、思わず俺はそちらに視線を向けてしまった。  今の今まで俺が向かおうとしていた、そこ――渡り廊下の先、向かいの校舎の出入口の戸口に、煙草の箱を持った手を掲げている人影が立っている。 「な…ん、で……?」  我知らず、そんな言葉が洩れていた。自然と足が止まってしまった。  そんな俺へと向かって、スーツを着たその人影が、軽快な歩調で渡り廊下を歩み寄ってくる。 「…オレって結構しつこい性格してたみたい。初めて知ったよ」  目の前に立って俺の手を取り、そこに持っていた煙草を載せた。 「『なんで』って言いたいのはコッチの方だし。いきなりいなくなって、電話もLINEも繋がらない、なのに諦めきれないなんて、ホントどうしようと途方に暮れたんだからね」  載せられた煙草の上に、大きな男の手が重なる。 「ずっと捜してた。生徒じゃない、マキちゃんと対等な男になりたくて、教師にもなった。――ぶっちゃけ、ここに空きが出なかったら終わってたんだけどね」  ニカッとした笑みを浮かべた、その表情をぼんやりと眺めながら……ああそういえばと思い出した。去年で定年退職した教師の代わりに新卒採用するとか何とかいう話を、そういえば聞いた覚えがある。――つまり、その新卒採用枠にコイツはまんまともぐりこんできやがったのか。 「呆れた……もう、四年も経つんだぞ……」 「うん……そうだね、自分でも、そう思う」  そう言って苦笑する目の前の男――安積が、相変わらず人好きのする、俺もよく知っている笑顔で、やわらかに微笑む。 「でも今のオレは、卒業して、もうマキちゃんの生徒じゃなくなった。だから、これからは同僚の教師として、ちゃんと自立した一人の男として、オレのこと、見てよ」  微笑みの中に光るのは、それに不釣り合いなほどに、どこまでも真剣な眼差し。――こんな瞳を、俺は以前にも見たっけな……。  どこまでも必死そうだった、あの日の彼の姿が、脳裏を()ぎる。  唐突にフッと、構えていた身体から力が抜けるのがわかった。  ――ホントこいつ……相変わらず馬鹿だな……。  知らず知らずのうちに、俺の口許にも笑みが浮かぶ。 「マキちゃん……?」  どこか捨てられた仔犬のようにさえ思わせる仕草でもって、そう縋るように呼びかけた彼を。  やっと真っ直ぐに見つめ返すことができてから、俺は告げる。満面の笑みと共に。 「おまえが俺を『真木先生』って呼べるようになったら、考えてやるよ」 【終】

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