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初恋との再会

 太陽が南に高く上る午後――。  校舎から響き流れる生徒たちの笑い声。  グラウンドの砂埃は風に巻かれ、くるくると地面を走る。  すっかり緑色に表情を変えた桜の葉が、風が吹くたび眠る顔にかかるその影の形を変える。  強い日差しが瞼に当たり、俺は眉間に皺を寄せた。近付く足音とともに体が影に覆われ、薄っすら目を開けると、影の主がこちらを覗き込んでいた。 「いつまで寝てるんだ?そろそろ起きない?」  そういって俺の横に彼は腰掛け、微笑む。そのくったくのない笑顔が眩しくて、むず痒くて、その顔を真っ直ぐ見返すことができなかった。 「真凰(まお)は本当好きだな、この桜の木が」  彼は幹に凭れ、大きな桜の木を見上げていた。俺は、盗み見るようにその綺麗な横顔をひっそりと眺めた。 「……うん、好き」  呟く程度に告げた俺の声は、葉の音に混じり風に流れた。 「カット!」と撮影を止める男性監督の低い声と共に我にかえる。  それまで上にのし掛かっていた体格の良い男が俺から退く。男は上半身だけジャージを羽織り、下半身丸出しでレギュラー丈の白い靴下と白のランニングシューズという、冷静に眺めるとなんとも間抜けな姿だ。  かく言う俺も、紺色の靴下と黒いローファーを除くとほぼ全裸なわけだが……。  本日の撮影テーマは【男子高校生と男性体育教師、禁断の愛】というもので、貸しスタジオの一角はまるで学校の教室さながら黒板の前には教卓があり、それに倣うように幾つもの机が整然と並んでいた。  高校を卒業して早6年経つが、作り物の教室にいたせいで俺は少し思い耽ってしまっていたようだ。 あの頃の俺はまだ何も知らない純情で、照れや恥じらいなども持ち、誰かに恋い焦がれるような純粋さも、健やかな心も身体も存在していた。 ――今みたいにこんな擦れたAV男優とは本当に無縁の……ね。 いったい誰が想像出来ただろうか。あの純情少年がその数年後にはカメラの前で色んな男に股を開いては、女のように喘ぐ仕事に勤しむ事になろうとは……。 「今じゃもう穢れに穢れたな……」 腹に伝う、自らが吐き出した白濁色のそれに目線を落とし自嘲する。 男に押さえ込まれていた机の上からゆっくり起き上がると、肩甲骨にやや痛みが走る。「イテテ」と漏らしながら床に落ちている脱がされた学生服のシャツを拾い上げ袖を通し、太腿についた相手の男が出したものを乱暴に袖で拭う。早く全身を洗い流したくて俺はボタンも留めずに擬似教室を出た。 『……うん、好き』  頭の中で何度も繰り返される、自分が返したあの時の言葉――。  あれは、木の話なんかじゃなかった。  いつもやさしく自分に笑いかけてくれる彼に向けての言葉だった――。 けれどお前には届くはずもないから。どんなに泣いても叫んでもお前は俺のものにはならないから。大切にしたくて、親友同士としてのふたりの均衡を壊したくなくて、俺は自分の心がこぼれてしまわないようしっかりと蓋をした。 ――なのに、今でも思い出すたびに辛くて苦しくなる。  実らなかった甘酸っぱい初恋の思い出として、アルバムに仕舞うことができたらどんなに幸せだったろうか……。  だけどそれは自業自得なのだ。辛い思い出に変えてしまった要因は俺自身にあるのだから……。 全行程の撮影が終了し、スタジオの入ったビルから出て背伸びをした。外はすっかり暗く、夜になっていた。仕事の間は基本的に窓がない場所にいる事が多いせいか、最近ちゃんとした日光を浴びていないなと数秒ぼんやりと暗い空を仰いで止まる。ふと手を伸ばしたジャケットの胸ポケットに入れていたタバコが空だと気付き、小さく舌打ちした。買える場所を探すためにあたりを見回すと、ふと視界の遠くでスーツ姿の男がこちらに気付いたように口を大きく開き、手を振っているのが見えた。 遠くから見ても男は顔が小さく、長身で、スタイルの良さが伺える、とても見覚えのある姿をしていた。 ――俺は嫌な予感がした。  その相手は大人になった俺がもう二度と会いたくないと思っている人物といっても過言でなかった。次第にその予感はこちらに走りより、目の前に鮮明とハッキリとした現実となってとうとう姿を現した。 ――嗚呼、間違いない。    俺は開こうとした唇が少し痺れているような錯覚を起こす。  そして6年ぶりにその名を声にして呼んだ。 「諒陽(あさひ)……」    俺が諒陽と呼んだ男は全力で走ってきたせいか若干息は上がっていたものの、苦しさは全く見せず明るい笑顔だった。 「やっぱり真凰(まお)だった!遠目でもわかったよ!久しぶり、元気してたか?お前なんかイメージ変わったなあ~!」 諒陽の声はあの学生時代より少し低くなってはいたものの、相変わらず明るくて、ハキハキとしたよく通る声だった。  あの頃俺は、この声で名を呼ばれるのがすごく好きだった……。 「ああ、久しぶり……」  あの時の眩い木漏れ日を浴びたみたいに俺は目を細めた。 ――今日は仏滅か? 「本当、久しぶりだよな。高校時代は毎日顔を合わせていたってのになぁ、最後に会ったのって卒業式?お前成人式に来なかったよなあ。なんかお前昔よりずっと垢抜けたな?」 少しアルコールが入ったせいなのか、久しぶりの再会に高揚しているせいなのか、諒陽は少し大きめな声でよく喋った。終始笑顔のままで心からこの再会を懐かしみ、喜んでくれているのが見て取れる。  反対に俺は今、うまく笑えているのか全く自信がなかった。さっきからずっと頬が痙攣しているみたいに感じる。ずっと、相槌程度の返事をするのが精一杯だった。 週末の居酒屋は会社員や学生たちで大いに賑わっていた。酒を楽しむ客たちの大きな笑い声が半個室に座る俺たちのところまで響き渡る。 俺は最初の乾杯の時に一度だけ口を付けただけの、酒が入ったグラスを両手で握りしめ、諒陽を見ることなくそこを伝う水滴をただ目で追った。諒陽の生ビールはもう底が見えそうだ。 「……声掛けないほうが、よかった?」    急に耳に入った諒陽の静かな声にハッとする。  そちらに目線を向けると少し憂いを帯びた表情の諒陽と目が合う。  さっきまであんなにうるさく思えた客たちの笑い声が一瞬消えたように感じた。    少し大人になったとは言え、諒陽の顔はあの頃と殆ど変わらない。高校の三年間運動部だった諒陽は思い切りの良い黒の短髪をしていた。今は前髪を少し流すうように伸ばしており、当時のような少年らしさはなかった。それでも凛々しい太い眉はあの当時と同じだ……。その眉を諒陽はやや困ったように下げ、濃く生え揃った睫毛から覗くこげ茶色の深い瞳は少し悲しげに揺れ、潤んで見えた。 「そんなことない!」  俺は今までで一番大きな声を出した。諒陽を傷付けてしまったのかと焦り、グラスを持つ手に力が入る。 「――本当?」 「ほ、本当!ちょっと緊張してんだよ!お前がさらにイケメンになってたからさ!」  笑って諒陽の肩を軽く叩いて見せた。6年ぶりに触れることに俺は内心酷く緊張していたせいか指が冷たくなっていた。俺は今、うまく笑えているだろうか?頬が少し痙攣した気がする。 「よく言うよ」と諒陽は少し自嘲し、また先ほどの優しい笑みを取り戻した。俺は少し安堵してすでに薄くなりかけた酒を口に含む。思っていたより喉がカラカラに渇いていた事にようやく気付く。  どんなに大量の酒やアルコールの高い酒を以ってしても、今の俺を酔わせることは決してないだろうと、安く不味い酒を最後まで喉へ流しこんだ。 「食べようか」と諒陽は適当に頼んだ料理に手をつけた。ふと皿を持ち上げた諒陽の左手に何か光るものが見え、俺はギクリとする。 ――薬指に銀色の細い指輪(リング)。  俺の視線に気づいたのか「ああ、これ?」とこちらに見えるよう左手を少し上げてみせた。  心臓がドクドクと早くなり、激しく波打つ。それを乱暴に掴まれたかのような痛みも走った。同時に頭の中の血管がものすごいスピードで巡っているようにくらくらする。    さっきまでは過度の緊張から全く気付けないでいた――。  俺は動揺や、混乱していることを知られたくなくて、なんとか笑ってその場に合う言葉を狭い思考の中を探してまわった。 「さすが諒陽!仕事が早いな、何?職場の子?あ、同級生とか?」  ようやく出せた声も少し震えている気がした。うまく目を見ながら話すことも出来ず、無理に笑おうとする頬が痛い。 ――だめだ、うまくやれ。普段腐ったって多少なりの演技をしてるんだ。それくらいやれる筈だ。 「真凰は?いるの?恋人」  諒陽の淡々とした返しに俺の誤魔化しは呆気なく遮断された。 「なんだよー!先にお前が答えろよなぁ!質問に質問返しは卑怯だろ?」と俺は必死に笑う。 「じゃあ、いいや。この話は終わりね」と、あっさり諒陽は引き下がる。 「何……それ……」 「真凰、サラダいる?」 「……いい」 「あ、そう」と味気ない返事をして諒陽は自分の取り皿に零れんばかりにサラダを盛る。  長く綺麗な指で箸を動かし口いっぱいにサラダを頬張った。綺麗なつくりの顔がこどものように膨らむ。相変わらず良い食いっぷりだ。 「このせいでよく薄情そうだって言われるんだよね」と昔よくぼやいていた薄い唇から赤く長い舌がちらりと覗き、口の端についたドレッシングを舐め上げる。  諒陽の食べる仕草に釘付けになってしまっていた俺に諒陽は気付き顔を上げた。 邪なものを孕んだ視線を見抜かれたような気がして、慌てて俺は目の前にある唐揚げを頬張った。  無理矢理口に入れた唐揚げは、咀嚼しても味が全然しなかった。

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