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プロローグ 波乱の音
誕生日が近いからと、ドレスコードがあるようなレストランを予約してくれた。
何かを期待しなかったと言えば嘘になる。
それでも、叶うか叶わないかは五分と五分だと思っていたから。
「結婚してください」
お店からのサプライズではなく形式通りに提供されたデザートに、一瞬肩を落とした次の瞬間----差し出された煌めきに感情がついていかなかったのは事実だ。
夜景の見える窓辺の席。
飾られた一輪の薔薇。
差し出された指輪。
オロオロと全てを見渡した後に目の前でかしこまる彼を見て、ようやくどわっと溢れた涙を。
拭いながら笑った。
「喜んで」
自分だけが幸せになっていいのだろうかと胸に過った心配の種は、返事を聞いてホッとしたように笑った後で、右手に持ったままの指輪を緊張にプルプルと震わせながら左手でハンカチを差し出してくれた彼の、不器用な優しさの前に消し飛んだ。
私は私の幸せを選ぶ。それの何が悪い。
後ろめたさに言い訳をしてハンカチを受け取ったら、涙を拭いてから指輪を受け取った。
「ありがとう。一生忘れられない誕生日になったわ」
「良かった」
照れ臭そうに笑う未来の夫に、微笑み返した。
「本当にありがとう」
夢のような誕生日を終えて現実に戻ったものの、左の薬指を彩る輝きを見ればいつでも夢へと戻って行 ける幸せな日々の中に。
陰は突然射した。
「唯って確か、弟さんいたよね?」
「うん?」
結婚の報告をしようと友人を集めた女子会の最中、ほんの少しの悪意を滲ませた心配を取り繕う声が嫌な予感を抱 かせる。
ドキドキと鳴る胸を押さえた左手の輝きをチラリと見やった友人の目が、一瞬悪意を過らせるからしまったと手を下ろしたけれど。
もう遅い。
「このあいだ、男の子と手を繋いで歩いてたわよ」
「……そんなこと……」
あるわけないわよ、とひきつる唇を無理やり笑ませたけれど、醜く笑った友人が追い討ちをかける。
「そんなことないわ。だって唯の弟さん、目元が唯にそっくりだし、羨ましいくらいに華奢だもん。間違ったりしないわよ」
あんなに可愛い子、と。
くすりと笑う唇の醜いことといったら。
そんなものにつられて自分まで堕ちる必要はない。第一、司 が誰と手を繋いでいようが本人の好きにすればいい。あの子は苦しみを乗り越えて、最近ようやく前と変わらぬ顔で笑えるようになったばかりなのだから、と言い聞かせたのに。
「あら、なぁにそれ? それって、今話題のLGなんとかってこと?」
やだぁ、大変ねぇ、と嗤う声が耳にうるさく追い討ちをかけてくる。
ぎり、と唇を噛んで、幸せな報告をするはずだった場所で羞恥に耐えるしかない。
どうしてこんなことに----。
テーブルの下、震える指先で幸せの証に触れる。
嘲笑の中で体を固くしながら、これを贈ってくれた人を思い描く。このことを知ったら、どう思うのだろうか。ここにいる醜い女達 と同じように嘲笑うのだろうか。まさか、これを返せだなんて----
「ちょっと。いい加減にしなよ」
「…………海 ……」
「唯の弟さんがどうだろうと、今は関係ないでしょ。大体、手を繋いでたからってなんだって言うの」
バカバカしい、と呆れた声を紡ぐ海乃 にすがる目を向ける。
「あんたも。弟がバカにされてるんだから怒っていいのよ」
「バカにした訳じゃないわよ。事実を言っただけだもの」
潔い声を打ち消す毒にじわじわと侵されながら、凛とした海乃の目を見つめ返すことも出来ずに。
「相手の人、そういうのに理解があるといいわね」
勝ち誇ったように紡がれた声と歪んだ唇を、虚ろに睨み返すのがやっとだった。
*****
「ちょっといい」
固い声に聞かれて振り返ったら思い詰めた顔をした唯 が立っていて、迷いもせずに頷いた。
「どしたの?」
こっち、と促されて、まるで何かから隠れるように久しぶりに唯の部屋に入る。昔と違ってカーテンも掛け変えられて、全体的にシックにまとめられた部屋の中で、自分が呼んだくせに黙り込んで俯く唯を前に所在なくポツンと立ち尽くしていたら。
ようやく顔を上げた唯の顔が、どこかやつれているように見えてギクリとした。
「どうしたの?」
恐る恐る聞いた声を、ぶったぎるかのように
「あんた、男の子と手を繋いで歩いてたって、本当?」
放たれた声は、何もかもを否定して切り捨てるようなとりつく島のない音をしていて。
「な、に……?」
「……本当なの?」
追い詰める声に体を押された気がして、ふらついた背中が壁に触れる。そのまま何も返せずにいれば、イライラと髪を掻き上げる唯の左手に指輪を見つけた。
「……結婚、……」
「ぇ?」
「姉ちゃん、……結婚するの?」
「あぁ、これ?」
気付いたんだ? と薄く笑った唯が、そうよ、とまるで幸せそうに聞こえない声で頷く。
「……あんたも、指輪。してるでしょ」
「……」
じろりとこっちを見つめる目に射竦められながら、オロオロと視線を外せば。
「あんた、ホモなの?」
「なっ……」
遠慮のない声に抉られて、返す言葉も見つけられずに唯を見つめることしか出来ない。そんなオレの態度に眉を吊り上げた唯が、心底嫌そうな顔と声でこちらへ歩み寄ってくる。
「やだ、ホントにそうなの? 嘘でしょ気持ち悪い」
「っ……」
「ねぇ……嘘だって言ってよ」
ねぇ、と迫ってくる唯の細い腕を避けようとしたのに、もう背後には逃げ場がなくて。モタモタしている間にぎゅっと二の腕を掴まれて、離せ、と抗うしかなかった。
「ねぇ……あたし、結婚したいのよ。一弥 はいいやつだし、焦ってる訳じゃないけど胡座かいて逃したくもないの。……一弥に知られたら、……ねぇ、分かるでしょ?」
世間ではどうのこうの言ってるけど、と冷たい声が続ける。
「あんたがホモだなんて知られて、変な顔されたらどうしたらいいの? 嗤われたらどうすればいいの? ねぇ、分かる? あんたにあたしの気持ち、分かる?」
「ぁ……オレ別に……」
ねぇ、と強く揺さぶる唯の手をどうにか外そうと、躍起になったオレの左手を。
ぐい、と掲げた唯が、奇妙なものでも見るような顔で指輪を見つめる。
「ご丁寧にこんなものまで着けちゃって」
「離せってば……っ!」
「ねぇ、どんな気分? 姉 の結婚潰すかもしれないのに、ウキウキこんなものまで着けて。……ねぇ、どんな気分なの?」
何かにとりつかれたみたいな顔は、自分がよく知る唯とは似ても似つかない別人のようだった。
自分まで得たいの知れない何かに飲み込まれないように小さく息を吸ったら、震えないように気を付けながら声を振り絞る。
「……別に……悪いことはしてないから」
「----っ、あははっ、何言ってるの? 本気で言ってるの? あんたはあたしが、幸せになれなくてもいいっていうの?」
「そんなこと言ってな----」
「言ってるのと同じよ!! あたしが、どんな気持ちだったと思ってるの!? 結婚報告の場で、一番晴れやかなはずのあたしが、あんたがホモだなんて嗤われて貶められて……!! もう散々よ!」
目尻に光るものを見つけてたじろぐしかないオレを追い詰めに来る声に、本当はこんなこと言いたくないのにと言う気持ちが滲んで透けているような気がするのは、気のせいだろうか。
「邪魔しないでよ! あたしの邪魔しないで……っ」
「姉ちゃん……」
「あんたはいいわよ。それで幸せになれるんでしょう。……でもあたしはなれないかもしれない。お母さん達だって、ご近所さん達から後ろ指指されるかもしれない。……それでも悪いことはしてないだなんて言うつもりなの!?」
「……それは……」
「ねぇ……世の中はそういうこと認める方向だとしても……まだまだ受け入れられる人の方が少ないことは、あんたにだって分かるわよね?」
「----けど……」
ねぇ、と念押しに呟く唯の手をようやく振り払って、虚ろな目を見つめ返す。
「…………アイツは、オレを助けてくれたんだ」
「……なに……?」
「……アイツだけだった。……オレを助けてくれたのは」
そっと呟いた言葉を目を見開いて聞いていた唯が----哄笑する。
「……な、に笑って……」
狂気じみたその笑い声が恐くて呟いたら、ばん、と肩を押されて強かに壁に打ち付けた。
「ぃっ……」
「あんたじゃない! ……あんたが、あの時……っ、誰が何言ってもヘラヘラ笑って……! あたし達のこと拒絶したのは、あんたじゃないの!!」
「そんなこと……っ」
してない、と慌てて首を横に振ったのに、いつの間にか泣いていた唯は、歪んだ顔を晒したままで声を荒げてぶちまける。
「してたわよ! 誰が何言ったって泣きもしないで、ヘラヘラヘラヘラ笑ってたじゃない!! あたし達がどれだけ心配したって、どれだけ手を貸そうとしたって、あんたは受け入れようとしなかった!!」
「……っちが」
「違わないわよ!! あの時あたし達の助けを拒んだくせに、アイツだけが助けてくれただなんてよく言えたわね!? お母さんやお父さんだって、どれだけ心配してたと思ってるのよ!?」
はぁ、と肩で息を吐く唯の目からは、途切れることなく涙が流れていて。
申し訳なさと、だけどあの時は本当に誰にも何もして欲しくなかったんだという心の叫びが入り乱れて息苦しくなる。
浅い呼吸を何度も繰り返しながら言い返す言葉を探してみても、どう伝えれば真意が伝わるのかが分からなくて声にならない。
ぐっと奥歯を噛んで理不尽に殴られた心を押さえつけたら、震える声を絞り出した。
「----悪いことはしてない」
「っ、まだ!」
そんなこと、と震えた声が呟いて振り上げられた手を、無意識に体が避ける。
「してないから……!」
「っ、待ちなさい!!」
追いかけてくる声は無視して準備の終わっていた鞄をひっ掴んだら、後は振り返らずに家を飛び出す。
颯真の顔が見たいような見たくないような、声が聞きたいような聞きたくないような----複雑に揺れる胸を抱えたまま、結局は連絡を取ることなくとぼとぼと歩いて大学に向かった。
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