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Act.1 幸せにかかる暗雲

 いつものようにドアを開けた週末。 「おかえり」  パタパタと軽い足音を立てて走って出迎えてくれた司に、ただいま、と自分でも分かるほどの満面の笑みを返した。  ぽいぽいと靴を脱ぎ捨てたら、今日の晩御飯のメニューを嬉しそうに報告してくれる司を抱き寄せて、ひとまずただいまのキスとしゃれこむ。 「んっ……、もうっ」  途端にボンッと真っ赤になってワタワタするのが可愛くて、華奢な体を気が済むまで強く抱き締めたら、ようやく体を離してリビングへ向かう。  奥へ行くほどに美味しい匂いが強くなって、ぐぅ、と情けなく腹が鳴くのを聞き付けた司が嬉しそうに笑って、準備するねとキッチンに立つ姿を感慨深く見つめた。  二人で花火を見つめた後から、司はぐんと明るくなった。照れて笑う顔には今までにない華やかさが加わったし、嬉しそうにはにかむ顔にも柔らかさが出た。ますます魅力的になって、正直競争率が上がりそうでヤキモキしているのだけれど。  左手の指輪と、二人きりの結婚式と。それから、何かあるたび照れ臭そうに----だけど幸せそうに、颯真だから好きなんだよと、紡いでくれる真っ直ぐさに救われている。  ちっぽけな嫉妬にかられて戸惑って以来、司は不器用ながらに一生懸命、言葉と態度に出してオレを愛していると告げてくれるようになった。  不満など全くない。----と言いたいのに言えないのが人間の欲深さだろうか。  不器用な愛情表現を受けるたびに沸き上がる、いつでもいつまででも一緒にいたいと言う気持ちは、鰻登りの急上昇だ。休みが明けて帰っていく後ろ姿を見送るたび、帰るなと----一緒に暮らさないかと抱き止めたくなる。 「----どしたの、難しい顔して」 「ふぁっ!?」  まだ金曜日の夜だと言うのにそんなことを思い浮かべて複雑な気持ちに浸っていれば、キョトンとした司に覗き込まれて大袈裟に仰け反ってしまう。 「……どしたの」  ビックリして自分も目を真ん丸にして仰け反った司が重ねて問うのに、なんでもない、と笑い返したら、待ちきれない顔を取り繕って司の背後に目をやる。 「まだかなぁって」 「……----そんなお腹空いてたの?」  何かを誤魔化そうとしていることに気付いているらしい司が、だけど何も聞かずにオレに合わせて笑ってくれるのが、優しいようなじれったいような複雑な気分だ。 「ご飯にしよっか」  笑った司に促されて、司を手伝って料理を机に並べる。  今日は炒め物とお味噌汁に小さなポテトサラダがついていた。 「作りおきしといたから、またいつでも食べてね」 「ありがと」  にこりとはにかむ柔らかい顔は、照れて紅く染まっている。こういうところがいつまで経ってもうぶで、本当に可愛いから困る。  じゃあ食べよっか、とぎくしゃくと手を合わせた司をそれ以上からかうことはせずに、同じように手を合わせる。 「いただきます」  声が揃うのはもう、いつものことだった。 「そうだ。颯真、今月の分ね」 「あ、もうそんな時期」  食べ終えた勢いのまま片付けまで済ませて、さぁやっとイチャイチャするかと司に手を伸ばそうとしたタイミングで、司が鞄を探って銀行の封筒を引っ張り出してくる。  結婚指輪が欲しくて司に黙ってバイトの掛け持ちをしていた時に、お金が足りなくて掛け持ちをしていると勘違いした司から「そういうの、ちゃんとしたい」と言われて、ようやく真面目に二人で暮らす未来を考えるようになった。  家賃を司が払うのはおかしいし、水光熱費もどう割ればいいのやら思い付かず、結局は毎月決まった額を司からもらって、新しく作った銀行口座に「未来預金」として貯めることにした。ひとまずは同棲に必要な額を貯めることにしている。  ありがと、と丁重に封筒を受け取って未来預金の通帳に挟んだら、今度こそ、と司の隣に座り直して手を伸ばす。  意図に気付いた司が、やれやれ、と呆れて笑いながら。だけど満更でもなさそうな唇が、そっと触れた先で優しくオレを受け止めてくれて。 「……ん」  零れる吐息にも拒む色はなく、するりと服の上を滑らせた指先も甘んじて受け入れられる。 「どしたの?」 「……ん?」 「今日は先にシャワーとか言わないんだね」 「っ、ウルサイナ」  いつもなら、シャワーが先だとか、電気は消してだとか。まるでハジメテのオンナノコみたいにうぶで可愛い反応をするくせに、今日はいつになく乗り気だ。  どうしたの? と指を滑らせながら聞いて、返事を聞く前に首筋をぺろりと舐める。 「ンッ……べつに……」  思わず零れたらしい艶めいた吐息に煽られながら、だけど何かを隠して閉じ込める声音に気付いた。 「…………司?」  なんかあったの? と聞いても、ううん、といつも通りの声で取り繕って、潤んだ目を瞼の下に隠してしまう。 「なんもないよ」  だから、と伸ばされた手が背中に回って、誤魔化す唇に唇を啄まれる。  なし崩しだと分かっているのに、昂りを抑えきれなくて。 (後でちゃんと聞こう……)  心に誓って、優しい口づけを遮るように舌を捩じ込んだ。  *****  珍しく家族全員が揃った夕食時。  この間のことなど忘れ去ったかのように穏やかな顔をした()が、そうだ、と華やいだ声を出す。 「お母さん達に報告したいことがあるんだけど」 「あら、なぁに?」  わくわくした顔の母親は、もう何もかもを察しているかのように弾んだ声で聞き返す。父親の方は、居心地悪そうにもぞもぞと椅子に座り直して仏頂面だ。 「あたし、プロポーズされたの」 「ほら、やっぱり」  おっとりと幸せそうに笑った母親が、言ってた通りでしょ、と父親の顔を覗き込めば、覗き込まれた父親の方は苦い顔で、分かった分かったと頷いている。  そんな両親のやりとりを眩しそうに見つめていた唯が、それでね、と少し改まって続けた。 「それで……ちょっと急なんだけど、再来週の日曜日に彼が家に来て、挨拶をしたいって言ってて……」 「あらっ、やだ。美容院の予約取れるかしら」 「何で美容院なんか……」 「だって未来の息子が来てくれるのよ、おめかししないと! 唯が恥ずかしい思いしないように、お父さんもちゃんとしてちょうだいね?」 「……分かった、分かった……。だからそう興奮するな」 「いいじゃないの。おめでたいことなんだから、少しくらいはしゃいだって! ……司は? 日曜日、予定はあるの? 最近いつも日曜日は用事があるって……」  優しい顔の心配声を向けられて、大丈夫だよと返そうとしたのに。 「司は----バイトなんでしょう?」  にっこりと口元だけで笑った唯が、海の底みたいに暗くて冷たい目を向けてくるから、もごもごと口ごもる。 「あら、そうなの? 誰かに代わってもらえないのかしら? せっかくなのに……」 「いいのよ、そんな。……家族になればいつだって会えるんだし」  母親に向けられるのは、いつもと変わらない笑顔だ。  ぎゅっと唇を噛んで文句を飲み込んだら、そうだね、と何でもない顔して笑い返す。 「バイトはたぶん、代わってもらえないと思うから……」 「彼にもそう伝えておくわ」  だから気にしないで、といい子の振りで念を押されて頷くしかなかった。  *****  むぎゅ、とオレにしがみついたまま眠ってしまった司の頭をそっと撫でながら、覚えのある感覚に溜め息を一つ吐く。  あれは春の連休のことだ。忘れもしないし、忘れるはずもない。オレとの関係を不安に思って悩んでいた司が、今と同じような顔で眠っていた。 (どうしたんだろ……)  指輪を交わして将来を誓って、花火の下で章悟へのやりきれなさも昇華したはずなのに、今度はまた一体どうしたというのだろうか。それとも、気づかない内に不安にさせるようなことでも言ったのだろうかと、あの頃から成長していない悩みに溜め息をもう一つ。  滑らかな毛先を弄びながら、しかめ面の寝顔を見つめる。 (……言えなかったな……)  そろそろ一緒に住まないかと、持ちかけたかった言葉でさえも伝えるタイミングを計りかねて胸の(なか)だ。  もちろん、未来預金の件もある。金額としてはまだまだ目標額に届かないが、毎週末泊まりがけで会っている今の状況で、司の家族に余計な心配をさせてはいないだろうかとずっと気にしていたのだ。オンナノコじゃあるまいしとは思うものの、司が家族にどう説明して毎週末家を空けているのかは以前から気にしている。  必要なら家族に挨拶をするつもりでいるし、とはいえそうなると指輪をしていることも相まって、とんでもないオオゴトに発展しそうな予感もするからやっかいで。 (どうしたもんかなぁ……)  一人で考えたところで結論など出るはずもない疑問をぐるぐると考えながら、止められない溜め息に埋もれるしかなかった。

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