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第330話Not alone
昼下がり、パタパタと看護師が廊下を控えめに駆ける音が響く。
クリニックはそう広くない。もうすぐ午後の診察が始まるからか、父親に代わって新しくやってきた若い医師の名前をを呼ぶ声が聞こえてくる。
『小笠原先生どこにいらっしゃるんですか?』
『今双木くんが起こしに行ってると思うけど』
『双木さん…って、総合病院からわざわざここに転職してきた方ですか?そういえば仲良いですよね』
『ああ、今年来たあなたはまだ知らなかったわね。高校生の時からの付き合いなのよ、あの人たち』
『だからあんなに親しかったんですね…あの二人近づき難いですよね。私も小笠原先生と話したいのに』
『あの二人は、そうねえ…』
この時間休憩室として使われている診察室に、ノックもせず入る。まだ寝ていると思っていたそいつは、すっかり目を覚ましてソファに座りコーヒーを飲んでいた。
「おはよ、勇也」
「おはようじゃねえよ。起きてるならさっさと戻ってこい」
「勇也が来るの待ってたんだよ。コーヒー飲む?」
「お前の飲みかけはいらない。そんな砂糖入れまくったコーヒー飲めるかよ」
わざとらしく頬を膨らませたハルはデスクに向き直り、パソコンを操作してからこちらに手招きをしてきた。
「見てこれ、ほらこのニュース」
「個人的な調べ物は家のパソコンでやれっていつも言ってんだろ。また患者の前でうっかり出したらどうすんだよ」
小言を垂れながらも画面を覗き込むと、ネットニュースの記事によく知っている人物の写真が大きく写っていた。
「お、懐かしいな。そういえば去年会ったのが最後か」
「見て欲しいのは聡志の写真じゃなくて、この若き政治家さんのニュースのタイトルのほう」
画面が下に行くにつれ、そのタイトルと内容が徐々に見えてくる。それを見て思わず口に手を当てて言葉を失ってしまった。
「決まったって、同性パートナーシップ条例」
「まさか、それって」
「そう、俺達が住んでたあの街で。ずっと言っててくれたもんね、俺達のためにもって」
もう一度画面の文字を読み直す。何度見ても、しっかりとその事実が目に飛び込んできた。
まだ現実味がなくて目眩がしてしまいそうだ。
「凄いよね、きっとあいつの周りでは批判的な声も多いのに」
ハルはそのネットニュースのページを閉じると、徐ろに立ち上がって俺の首の後ろに手を回す。
そんなハルを前に、俺はただただ立ち尽くした。
「勇也、手出して」
言われたままに両手を出すと、首にかかっていたネックレスチェーンから外されたリングがゆっくりと左手の薬指に通されていった。
リングは10年前渡されたあの時よりも艶が弱くなり、若干傷がついてしまっているけれど、何故だかとても輝いて見えた。
「ずっと待っててくれて、それでも俺の傍にいてくれてありがとう」
ハルに抱きしめられ、ここが職場であることも忘れてその背中に腕を回す。
「一緒になろう、勇也」
「…うん」
自分らしくないほど弱々しくそう呟き、目を閉じて唇を重ね合った。
涙が頬を伝い、またハルのものであろう暖かい涙が額に垂れた。
「また泣き虫に戻ったの?もうアラサーなのに」
「お前も泣いてるだろうがハゲ」
「まだ禿げてないよ!」
本気でムキになったハルの顔を見て、堪えきれず吹き出す。
「…ハル、愛してる」
「うん、愛してるよ。勇也が言ってくれるなんてレアだなぁ」
「こんな時じゃないと言えないだろ」
「確かに、特別感があっていいかも」
なんて言って笑い合っているうちに、ハルのケータイのアラームが鳴り始める。
もう午後の診察が始まるまであと10分ほどしかないという合図だ。
「もうこんな時間か、もう少し浸ってたかったな」
「はやく歯磨いて準備しろよ。患者さんが待ってますからね…小笠原センセ」
「…今度そういうプレイしよう」
「バカ、しねえよ」
ハルの頭を軽く叩き、自分も準備に取り掛かろうと部屋のドアに手をかける。するとハルがちょっと、と声を掛けてきた。
「今度、式挙げようね。豪華なのにしよう」
「やるのはいいけど、質素なので俺は充分」
「聡志も絶対来るって言ってるし、ヤクザの若頭さんも来たいってさ」
「もうやる前提で話したのかよ…上杉は本当に来れるのか、あいつ」
「さあね、謙太くんのことだから這ってでも来るんじゃない」
上杉なら本当にそうなりかねないな、なんて思いクスリと笑う。
いよいよ外からハルを呼ぶ声が何度も聞こえるようになってきた。ハルに白衣を羽織らせて、自分もようやく診察室の扉を開ける。
「話の続きはまた帰ってからな。夕飯、何がいい?」
「じゃあ…オムライスがいいな」
【⠀Like a bad boy -完結- 】
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