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覚の章19

 其の名を、月の世界という。満月の夜にのみ下界と繋がるその世界は、極楽浄土よりも麗しく、妖しい世界。一度踏み込めば、その魅惑に憑かれて二度と戻れなくなるらしい。  その日、月の世界は、屋敷の当主の婚儀が開かれると、非常に賑わっていた。屋敷のあちこちを狐たちが走り回り、料理や酒を運んでいる。すでに始まっている宴会で酔いが回った狐たちの歌声が、屋敷中に響き渡っていた。 「……織さま。時間ですよ」  そんな中。  婚儀の開かれる大広間から離れた、小さな部屋で。本日の主役が待機していた。「彼」の様子を伺いに来たのが、詠である。 「織さま。はいりますよ」  静かに、襖を開ける。そうすれば――そこに、彼は居た。 「……!」  暗い、灯りのついていない部屋。詠が手に持っていたランプで照らすと、そこにある光景が浮かび上がる。  思わず、詠は息を呑んでしまった。 「……よみ、?」  そこに居た織は。  美しい女物の着物を着ていて、敷かれた布団の上にぺたりと座り込んでいる。手足を縄で縛られ、目隠しをされ、そしてはーはーと艶かしい吐息を吐いていた。  あまりにも淫靡な織の姿。織がこのようになっている姿を直接見たのは初めてだったため、流石に詠も動揺してしまう。思わず顔を赤らめてしまったが――ぱしりと自ら頬を叩いて目を覚ます。 「し、織さま……玉桂さまがお待ちです。いきましょう。私が案内致します」  まるで毒のようだ、と織の放つ艶やかな匂いに詠はふう、と深い息をつく。そして、心が惑わされないように無心になりながら、織に近づいていった。織の目を覆う布、そして手足を拘束する縄を解いてやれば――その艶やかさが一層増す。 「……詠」 「……っ」  濡れた瞳が、詠を映す。詠が僅か目を逸らしながら腰を下せば、その「匂い」が強くなる。毒にあてられそうだ、と詠がこくりと唾を呑んだとき。  そっと、織が詠の頬に触れた。 「詠……どうしたの、これ」 「えっ、……あっ」  詠はばっと飛び退いて、触れられた所に自ら触れる。  そこには、血管が浮き出たような細いミミズ腫れがいくつもできていた。こめかみから、頬のあたりまで。 「こ、これは……なんでも、ないです」  これは、覚と強く繋がりを持ってしまったためにできてしまった、霊障である。痛みは特になかったため、今の今まで忘れていた。織に指摘されてしまって、詠は手でそれをそっと隠す。 「気にしないでください。痛みとかは、ないので」 「……だめだよ、詠。詠、どうしたんだよ、なにか、あった?」 「……、な、なにも」  織の手が、そっと詠に触れる。  詠はハッとして、織の手を振り払った。  ふと、思い出してしまう。自分が、碓氷の屋敷にやってきたとき。人の輪から外され、全てを恨み恐れを抱いていた時。あの時に、織は初めて会った自分に優しくしてくれた。 「……すぐに治ります。貴方は、自分のことだけを考えてください」 「……詠」  ゆらり、心が揺らぐ。両脇の覚が、小さく唸った。  携えた闇に、小さな波紋が生まれる。なぜか、このまま玉桂のもとへ連れてゆくことに、迷いを覚えた。 (違う……違う、私は今まで、織さまの想いを裏切り続けてきたのに。今更、何を思い出したというの)  しかし。そんな迷いを、詠は振り払う。  戸惑いの表情を見せる織の腕をひいて――玉桂のもとまで、連れてゆく。

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