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覚の章27(3)

「詠……」 「し、白百合さま……」  なぜ、自分がずっと織の側にいたのか。それを思い返して、詠は気付く――こんな自分の中にも、ちいさな、織を想う気持ちがあったと。自分の中には、確かにそうした気持ちがあったのに、自分自身でそれを殺してしまっていたのだと。自分で自分を認めることができず、追いつめていたのだと。  詠は唇を噛んで、ぽろ、と涙を零した。否定し続けていた自分を、ほんの少しだけ許せた瞬間に、胸のなかで張り詰めていたものがふわっと緩んだのである。  白百合はそんな詠を見て、うっすらと微笑んだ。詠の瞳に手を伸ばし、涙をそっと指で拭って、唇の端をあげてみせる。 「本当にきたない人間は、苦しんだりしないのだぞ。おまえは、かわいい。苦しむ姿が、かわいいと……妾は思っていた」 「……私……いいんですか……ずっと、このままで……いいんですか……きたなく、ないんですか……?」 「きたなくない。詠は、きたなくない。申してみろ、おまえは織のことをどう思っている」  二人を見下ろしていた、覚。覚はずんずんと近づいてきて、そして二人をめがけて拳を振り下ろす。  心の揺らいだ、詠に怒りを覚えていたのだ。自らを生み出した主の心が変わろうとしていることに、覚は怒りを感じている。  詠はぐっと唇を噛んで覚を見据えた。涙で濡れた瞳に、自らの生み出した鬼を映す。  白百合は、今の状態では覚の攻撃を防ぐことなどできない。このままでは二人まとめて覚に殺されてしまう――そうわかっていながら、詠は逃げなかった。 「私は……」  白百合の手をつかんで、詠が言葉を紡ぐ。白百合はそんな詠を見上げて――ふっと微笑んだ。 「私は、織さまをお護りしたい。大切なあの方を、護りたいです」 ――瞬間。詠の眼前、一寸の距離もないところで。覚の拳は止まる。強力な風圧に詠の髪の毛が流された。あまりの豪風に詠は目を閉じそうになったが、それでもぐっとこらえて覚を見つめる。 「……きっと、私はこれからも醜い感情を抱くことがあるかもしれない。けれど、逃げません。私は……もう、目を背けません」 「――、」 「貴方のことも、忘れません。覚」  風が止み、詠の髪の毛がさらさらと落ち着いた。唇についた髪の毛をはらって、詠は表情を和らげて見せる。そして、覚に向かって優しくほほえんだ。  覚は黙り込み――そっと、腕を下ろす。詠の視線に困ったように眉をへの字に曲げて、そして目を閉じた。体がすうっと透けていき、黒い霧へと変化してゆく。詠が見守るなか――覚は姿を消してしまった。 「……覚は、死んだわけではないんですよね」 「姿を消しただけだ。おまえのなかに、還っていったのだ」 「そうですか」  詠は覚の消えていった場所を見つめながら、少しだけ寂しそうにつぶやいた。自分の心を具現化した、覚という鬼。初めてこの目でみた自分の心は、巨大で恐ろしく、そしてちょっとだけ優しかった。  黙り込む詠の体をよじ登るようにして、白百合が体を起こす。まだ万全ではないというのに体を動かそうとする白百合に詠は驚きの声をあげつつも笑っていた。 「ふふ、可愛い奴、詠」 「し、白百合さまっ……」  じゃれついてきた白百合は、可憐な少女のよう。詠は照れながらも、白百合の戯れを受け止めた。

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